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第十二話 今日までのことは、忘れていいから

「ねえ、綾乃。今日なんだけど……バイト、休みよね?」

「うん? そうだけど」


 その日の結花の様子は、いつもと少し違っていた。

 放課後、自分の席で帰る準備をしていた私に、屈み込んで視線を合わせる。かと思えば、話を始めた途端、少し顔を赤らめて視線を逸らした。


「あのね。今日、お父さん、出張で家に帰ってこないの」

「え、そうなんだ」

「うん。だから……その、うちに、来ない? もしよかったら、泊まりで」

「――」


 それは、つまり……。

 結花が言いたいことを察して、私の心臓がバクバクと音を立て始めた。


「ほら、この前……綾乃のお母さんが帰ってきて、最後までできなかったでしょ? だから――」

「――っ。う、うん。わかった」


 私が頷くと、結花は頬を赤らめたまま、柔らかな笑みを浮かべた。


「よかった。じゃあ、あたしも準備するから。綾乃はいったん着替えとかを家に取りに帰って、それから来て」

「う、うん。オッケー。オッケー。わかった」


 私は緊張のあまり、身振り手振りで思わずオーバーなリアクションを取ってしまう。結花はそれを見てクスリと笑うと、自分の席に戻って帰る準備を始めた。


 ……いよいよ、今夜だ。


 交際を始めてから二週間と少し経つ。一般的な学生カップルなら、そろそろ初体験を済ませてもおかしくない時期だ。最初の頃から彼女はずっと、私に()()()()()()を意識させてきた。

 今夜、私はついに身も心も彼女のものになる。そしたら、その後はきっと――。

 鼓動が止まらない。私は今、どちらを期待しているんだろう? 結花とのセックス? それとも――。


◆◆◆


「結花の家って、台所こんな感じだったっけ?」

「? そうよ。昔から変わってないと思うけど」


 結花の家のリビング。私たちはテーブルで向かい合い、二人で夕食を食べていた。

 結花お手製のカルボナーラと、生ハムと大根とトマトのサラダに舌鼓を打ちながらも、私は頭の中に浮かんだ違和感を拭えずにいた。


 結花の……あの事故が起きた場所。彼女の家の台所だったはずだけれど、なぜか記憶と大きく食い違っている。事故の後にリフォームしたのかとも考えたけれど、それにしてはどこか古い。それに、コンロの形も、冷蔵庫や電子レンジの位置も、何もかもが違うような……。


「綾乃、美味しい?」

「う、うん」


 私は頭を振って、雑念をかき消した。今は、そんなことどうでもいい。目の前の結花に集中しなければならない時だ。

 愛おしそうな目で私を見つめる結花の視線が熱くて、思わず目を逸らす。さっきまで感じていた違和感は、期待と緊張の渦にあっという間に飲み込まれて消えた。



 夕飯を終えて片付けを手伝った後、私は結花と一緒に彼女の部屋に入った。

 懐かしい、結花の部屋。違和感を感じた台所とは違って、ここは私の記憶の通りだった。ものが少なくて、シンプルかつストイックな部屋。

 彼女がまとっているのと同じ香りが部屋中に満ちていて、それだけで胸がいっぱいになる。


「綾乃」


 私が部屋を見物している間に、結花はいつの間にかベッドの上に横たわっていた。

 上気した肌。潤んだ瞳。ぷっくりとした唇。私は思わず息を呑んだ。左側を下にして横たわっているので、あの火傷の痕は影になってよく見えない。


「ねえ、こっち来てよ。綾乃」

「……うん」


 導かれるまま、私もベッドに横たわり、彼女と視線を交わす。

 ――どうしてだろう。傷だらけの左半分さえ、今はとても穏やかな表情を浮かべているように見えた。いつも左目から感じていたはずの冷たい視線を、今日は感じない。むしろ、右目と同じように暖かくて……。


 そんなことを考えていると、いつものように唇に熱いものが触れた。

 熱くて、甘い、結花とのキス。あの映画館で初めて交わしてから、私はこのやわらかな唇の虜になってしまった。

 お互いに抱きしめ合って、舌を絡め合う。ずっとこうしていたいという欲望に駆られながらも、彼女が先に唇を離す。名残惜しさが唾液の糸となって垂れた。


「ねえ。綾乃から、して?」

「……いいの?」

「うん。あなたに、してほしい」


 結花が私の手を取り、ブラウスのボタンに指をかけさせる。

 震える手でボタンを外し、彼女を露わにしていく。ブラウスを脱がせた後、結花は再び私の手を取り、淡いピンク色のブラジャーの上から、その豊かな膨らみに触れさせた。

 てっきり「される」ものだと思っていたけれど、結花は、私に「してほしい」らしい。

 いいよ。それが結花の望みなら。私が、キミを抱いてあげる。


「結花、可愛いよ……」


 布越しの感触を楽しみながら、右の頬にそっと口づける。ブラを外し、先端に舌を這わせると、結花が甘い吐息を漏らした。


「綾乃……あやのっ。もっと……っ」

「結花……ゆか……っ!」


 夢中で吸い付きながら、結花の下腹部へと手を伸ばす。

 スカートをずらし、ショーツの中に指を差し入れると、そこはじっとりと濡れていた。

 彼女の一番大事な核心に触れる寸前、もう一度キスをしようと顔を近づけると――。


「綾乃――だいすき」

「――ぁ」


 不意打ちだった。

 その言葉を耳元で囁かれた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 その四文字は、あまりにもはっきりと鼓膜を震わせ、逃れようのない「意味」として脳に突き刺さった。私はもう、自分を誤魔化すことはできなかった。


『……嬉しい。あたしやっぱり綾乃のこと、だいすき』

『綾乃、だいすき、だいすきっ!』

『そんな。私、綾乃ちゃんのこと、だいすきですから――』


 これまでの結花の言葉。聞こえないふりをして、歪んだ解釈で塗りつぶしてきた響きが、奔流となって蘇ってくる。


「綾乃……。きて、あやの……」


 結花は目を閉じ、ただじっと待っている。期待と不安が入り混じった表情。まるで、本当に愛する人と、初めてを体験するときのような――。


 違う。だって、だってそんなはずがない。結花が、私のことを心から好きなはずがない。


「綾乃? どうしたの?」


 固まってしまった私を、結花が不思議そうに見つめる。

 ああ、違う。そんな顔をしないで。君は、私を恨んでいるはずでしょう……?


「怖くなっちゃった? 大丈夫よ。ゆっくりでいいから。別に、今日しなくちゃいけないわけじゃないんだし。ね?」


 軽いキスを落とし、優しく頭を撫でてくれる結花。

 ああ、やめて。そんなに慈しまないで。私には、君にそんなふうに愛される資格なんてないのに……。


「どうして……?」


 涙が、こぼれた。

 私は、ここに来てとうとう、確信へと至ってしまった。

 結花は、最初から演技なんてしていない。私への復讐なんて、考えていない。

 すべては私の幼稚な思い込みで、最初からあり得ない空想だった。


 本当は知っていたはずだ。結花は、優しい子だ。自分がどんなに酷い目にあったって、他人を呪うような子じゃないんだって。


「綾乃?」

「結花……っ、結花は、私のこと、恨んでないの……? 憎くないの?」

「綾乃? 恨むって……どうして?」


 結花のきょとんとした表情に浮かんでいるのは、純粋な疑問だけだった。私には、それがまだ信じられない。


「だって、私が結花を傷つけたんだよ!? 私が結花の顔を台無しにして、人生もめちゃくちゃにした! それなのになんで!? どうして『好き』なんて言えるの!?」


 涙が溢れ出して、私はもう止まれなかった。


「結花が私を許しちゃったら……誰が私に罰を与えてくれるんだよお……っ!」


「…………。ごめんね」


 思いのたけをぶつけても、結花の口から出たのは、謝罪の言葉だった。


「ごめんね。あたし、貴女の罪悪感を利用しちゃってたんだね」

「ちが――」


 違う。私が言ってほしいのは、そんな言葉じゃない。 「許さない」って言って。憎いって言って。私の顔にも、同じように傷を刻んで。


 私を幸せにしないで。絶望させて。結花と同じ場所に引きずり落としてよ。そうじゃないと、私は――。


「本当に、ごめんなさい。綾乃。……今日までのことは、忘れていいから」


 この期に及んで、悲しげな瞳で私を気遣う結花に、私はもう耐えられなかった。

 自分の荷物をひったくるように掴み、私は結花の部屋から――結花から逃げ出した。


 外は、雨が降っている。傘なんて持っていない。

 私は大声で泣き喚きながら、夜の雨の中を、ただひたすら走り続けた。

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