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第十話 綾乃、舌出して

 とうとう梅雨が本気を出し始めて、建物や人をしとどに濡らし、外に出るのが億劫になる日々が始まった。


「お邪魔しまーす」

「ど、どうぞ〜……」


 ドアを開けて、結花に先に入ってもらう。レディファーストってやつだ。私もレディだけど、細かいことは気にしない。


 結花が転校してきて、一週間と少し。

 週末の映画デートを経て、結花の恋人として彼女と真剣に向き合うと決めた私だけれど、改めて自宅に「恋人」を迎えるというシチュエーションはやっぱり緊張する。

 今日の放課後は、初めてのおうちデートだ。


「わ~。綾乃の部屋、結構変わったね」

「そりゃあね。流石に小学生のまんまだったら恥ずかしいよ」


 結花は目をキラキラと輝かせて、私の部屋を見渡している。

 小学生の頃の私の部屋は、もっとおもちゃとか色々なものが散乱していたような気がするけれど、今はそのかわりに、本や漫画が増えた。同学年の子に比べたらちょっと少ないかもしれないけれど、一応コスメなんかも置いてある。あとは、かわいい小物とか……おしゃれな服も……多少は? ある。

 昔よりは相当、女の子らしい部屋になっている……と思う。たぶん。めいびー。


「お茶淹れてくるから、適当にくつろいでて」

「はーい」


 結花を残して台所へ。

 二つのグラスに氷を入れ、麦茶を注いでトレーに乗せる。

 昔から両親は共働きだったので、家で遊ぶときはいつもこんなふうに私がお茶とお菓子を用意して部屋に運んでいたっけ。あの頃は二人でお絵描きしたり、ゲームしたり……結花と一緒だったら、何をしていても楽しかったな。


 部屋に戻ると、結花はちゃぶ台の横に置いた座布団にちょこんと腰掛けて、スマホをいじっていた。私が戻ってきたことに気づくと顔を上げ、ぱっと笑顔の花を咲かせる。前髪で半分隠れた五分咲きの笑顔。それでも十分、結花は可愛くて、綺麗だ。


「じゃあ、これ。多分、これがいちばん読みやすいと思う」

「ん。ありがと」


 約束通り、私はリンネ先生の著作を一冊、結花に手渡した。

『鏡の中のあの子』というタイトルで、呪いの鏡に閉じ込められた親友を救うため、色々なものを犠牲にしていく主人公の姿を描いた物語。怪異よりも、だんだん狂っていく主人公の方が怖い「ヒトコワ」系のホラーだ。


「ありがとう。じゃあ、早速読ませてもらうね」

「感想聞かせてね。途中まででもいいから」

「うん。そっちもね」


 結花は私のベッドに背を預けて、カバンから取り出したカチューシャとメガネを装着。受け取った本をペラペラとめくり始めた。

 私はそんな彼女の左隣に座って、代わりに彼女が持ってきた百合小説を開く。

 一応警戒して、全ページをパラパラと捲り、挿絵をチラ見する。今回は健全なやつと言っていたけれど、結花のことだから、またえっちな本を仕込んでくる可能性がなくはない。


「ふふ、もしかしてえっちなやつ、期待してた? 綾乃」

「……ちが、念のため確認しただけだし」

「はいはい。えっちなのは今度また持ってきてあげるねぇ」

「いらないっ! もう、早く読んでよ」


 結花の傷だらけの左半分の顔は、表情がまるで読めない。けれど、声色で私を揶揄(からか)っていることははっきりと理解できた。

 彼女はクスリと笑って、ページをめくった。私たちはお互いに身を寄せ合うようにして、それぞれの本を読み進める。


 結花の持ってきた本は、主人公が年下の女の子に翻弄される純愛ものだった。ヒロインの女の子が、時折えっちな悪戯を交えながら主人公を惑わしていく。

 ――ってこれ、結局えっちではあるじゃん! 前回ほど露骨じゃないけどさ!


 頭の中で文句を言いながらも、黙々と本を読み進める。ヒロインの子が結花と重なる部分が所々あって、私はいつの間にか主人公に感情移入していた。


 半分ほど読み終えた頃だろうか。結花は本を置いて、「はーっ」と胸を抑えながら息を吐き、目を爛々と輝かせた。


「綾乃。この本、めちゃくちゃ面白いね!」

「でしょー! リンネ先生はね、天才なんだよ」

「本当ね。ホラーって聞いてたからもっと怖いのを想像してたけど、単純に怖いってより、緊張感とかでドキドキする話ね。主人公が狂っていく過程が丁寧で、胸が詰まってく。けど、面白い」


 興奮気味の結花の様子に、私は誇らしい気分になった。布教した本が受け入れられた瞬間は、ファン冥利に尽きる。


「綾乃は? どう? 半分は読んだ?」

「うん、これもすごく面白いよ。ヒロインの子の小悪魔っぷりがすごすぎて、主人公をめっちゃ応援しちゃってた。でも、きっとこの後、バッチリ落とされちゃうんだろうな~」

「ふふ、たとえ先が見えていても、どんなふうに落とされるかっていう過程を読むのが楽しいのよ」

「かもね。結花のせいで私も百合好きになりそう」

「ふふ。ねえ、綾乃」

「なあに、結――」


 彼女の方を振り向いた瞬間、唇にまた、あの熱いものが触れた。


「――っ」

「ん……綾乃。かわいい」


 結花は啄むようなキスを繰り返しながら、私の背中に手を回す。私は手に持っていた本を置いて、彼女の頭をそっと撫でた。

 とても、いい匂いがする。結花の匂い。柑橘系の爽やかな匂い。シャンプーだろうか。それとも香水?

 結花のキスは甘くて、熱くて、私の身体をドロドロに溶かして、結花の一部にしてしまう。


「ん……結花……」

「綾乃、舌出して」


 甘い囁きに導かれるまま、私は舌をしまい忘れた猫のように口からはみ出させた。それを、結花が食む。結花の舌の感触と味。狂おしいほどの甘さに、唾液が絡んで、瞬間、意識が飛びそうになる。

 ちゅ、ちゅ、とお互いのリップ音が響いて、私の脳はどこまでも痺れていく。真っ白になって、結花のこと以外何も考えられなくなっていく。


「――っ!」


 唇を離すと、結花の左目と目が合った。

 射抜くような冷たい視線に、私の心臓が凍り付く。

 その直後に、また熱い唇を重ねられて。放されたら、また射抜かれて。

 恐怖と快楽を交互に与えられて、たちまち発狂しそうになる。


「あやの……」


 結花の手が、私のブラウスのボタンにかかる。

 嗚呼、ついに今日、しちゃうんだ、私。そりゃ、家に連れてきた時点で覚悟はしてたけど。

 このまま、身も心も結花のものになって、そしたら。そしたら――。


 ――ガチャリ、と家の鍵が回る音が響いた。


「ただいまー。綾乃? 誰か来てるのー?」

「――!?」


 お母さんの声だ!

 私は一気に現実に引き戻された。


「え、うそ、今何時……六時!?」


 壁掛け時計を見ると、いつの間にか母親が帰宅する時間になっていた。


「うわ、やばっ」


 慌てて乱れていた制服を直す。結花も同じように、手早く自分の格好を整え、カチューシャを外して前髪を下ろした。


「おばさまが帰ってきたんだ。なら、ご挨拶しなきゃ」

「え? え?」


 そう言って立ち上がった彼女を、私は呆然としながら見つめていた。

 だって、待って。結花と私のお母さん。……普通に会わせて、いいんだっけ?

 私のせいで人生を狂わされた被害者と、その加害者の母親。修羅場になってもおかしくないはずなのに、結花の足取りはあまりに軽やかだった。


「行こ、綾乃」

「え、ちょっと待っ――」


 結花に強引に手を引かれて、私たちは廊下に出た。


「おばさま、お久しぶりです」

「あら、貴女……もしかして、結花ちゃん!?」


 お母さんは買い物袋を玄関マットに置き、まん丸な目で結花の姿を見つめた。

 その瞳は、らんらんと輝いていた。

 おかしい。恐怖とか嫌悪とか、負い目とか。そういう負の感情が一切宿っていない。


「あらまあ……大きくなって! 帰ってきたのね、久しぶりね~!」

「はい。なんとか、この街に帰ってこれました」

「そっかぁ。どうなることかと思ったけど、元気そうで本当に安心したわ。綾乃ったら、結花ちゃんが来るなら先に言ってくれたらよかったのに」

「え、ええと……」


 そこにはただ純粋な、懐かしさと喜びだけがあった。

 お母さんは、まるで「ただの娘の幼馴染」が久しぶりに遊びに来たかのように接している。

 娘が親友の顔を奪った。その事実に、お母さんは耐えられなくて記憶を封印してしまったのだろうか。それとも、私がいないところで莫大な慰謝料でも払って、すべてを「終わったこと」として処理したのだろうか。

 目の前のあまりに平凡な「再会の風景」からは、一切の現実味が感じ取れない。


「結花ちゃん、お夕飯食べていくでしょ? ちょっと待ってて、すぐ作るから」

「いえ、お構いなく。もう帰りますから」

「遠慮しないでちょうだい。お父様には私から連絡を入れておきますからね」

「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」


 お母さんは買い物袋を再び手に取って、結花と並んでリビングに向かっていく。私はただ、理解不能な光景に置き去りにされ、二人の背中を見守るしかなかった。


「結花ちゃん。あんなことがあったのに、また綾乃と仲良くしてくれているのね。本当にありがとうね」


 お母さんの言葉に、心臓が跳ねた。「あんなこと」。そう、やっぱりお母さんも分かっているんだ。

 だとしたら、なぜそんなに平気な顔でいられるの?


「そんな。私、綾乃ちゃんのこと、だい■きですから――」


 二人の声がどんどん遠くなっていって、まるで私一人だけが、別の時間軸に取り残されてしまったかのようだった。


 おか、しい、な……。

 私、何か、間違って……る?


 いや、でも、こういうものなのかもしれない。

 だって、私が起こした事故は、お母さんにとっては「過去に起きた不幸な出来事」でしかなくて、結花が私に復讐しようとしているなんて、つゆとも思っていないんだ。


 結花も、きっと、慈悲深い聖女を演じているだけなんだ。だって、ここで私のお母さんと衝突を起こしてしまったら、私を幸せの絶頂に押し上げる計画がフイになる。


 そうだ……きっと、そうに違いない。

 私は、これまで通り何も気づかないふりをして、結花の恋人でいなければ。


 最終的に、結花が私に復讐してくれれば、何も関係なくなるんだから。

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