ベッカライウグイス⑧ ユニコーン注意報
リスさんのパン教室がはじまりますよー(^^)/
大勢のPTAに混じっていたのは……
ピンク色の、ユニコーンがついたトレーナーを着た人物だった。
ギンガムチェックのエプロンをつけ、おそろいのギンガムチェックの三角巾は、
小さいらしく、三角の端っこがピンッと、天井に向かって立っていたという……。
リスさんのパン教室は、無事に開催の日を迎えた。
リスさんに負担がないように、小学校のPTAの皆さんは、入念に準備を行い、リスさんはほとんど招かれた講師のお客様、私はその助手、という体だった。案ずるより産むが易しとは、実際のお産とは違う場面にぴったりの言葉であった。
リスさんと私は、晴れた日曜日、ベッカライウグイスの厚い扉に定休日の札を掛け、小学校へ向かった。
リスさんは、小学校への道々、実に楽しそうであった。通学路は、15年前とほとんど変わっていないらしい。大きく太った猫じゃらしがあちこちに伸び、夏のそよ風に揺れている。街路樹の影は広く歩道を覆い、それは涼やかだ。その影に、背の高いタチアオイが、赤や桃の彩りを添えて、灰色の豆鞘に変わってしまったルピナスを隠している。夏風の匂いがあちこちに溜まって、刈られた草の青々しい匂いと混じる。いい日曜日だった。
シューさんは、このパン教室に自分も参加したい、と言い張った。日本の小学校に行ってみたいのだと、何度もリスさんに懇願していた。私は、リスさんに、助手のひとりとして連れて行ってあげては、仮にもドイツのパン屋さんの息子さんだし……と言いかけたがそれはやめた。シューさんが持っている、場の空気に関与する力の強さを思うと、せっかくのパン教室という催しが霞んでしまうのではないかと懸念したからだった。リスさんには、そんな予想はまったくなく、ただ、ベッカライウグイスの職員でもなく、○○小学校のPTAでもないので参加はできない、というごく常識の範囲でシューさんを諭した。
ひと月ほど一緒にルームシェアをして過ごしているが、シューさんは善良な同居人だった。実に勤勉で、決まった時間に出勤し、帰宅する。たまにスーパーで買い物をしてくると、リスさんと私にドイツ料理を振る舞ってくれる。大きな声やジェスチャーも、温かな人柄からくるものなのだ、と今ではその存在感に安堵すら覚えるのだった。
シューさんは、読書家でもあった。
そのために、リスさんは自宅の本が集められている一室を開放した。リスさんのお父さんは、たいへんな読書家で、自宅をつくる際には床を補強して本棚をつくってもらったのだという。お父さんの友人で、床に本を積んでおいたばかりにその床が抜けてしまったという、ちょっと悲しい経験をした人がいたらしい。
私も、その一室に招かれ、自由に蔵書を持ち出してかまいませんよ、とリスさんから言われた。
濃い茶色の本棚には、ギリシャ哲学から現代の小説まで縦横無尽に網羅され、本の前には色々な置物が飾られていた。日本のものもあったし、海外のものもあった。シューさんは、繭で作られた動物にご執心で、よくじっと眺めている。
私は、その部屋に埋もれるようにして一脚だけ置かれている、背もたれの高い椅子に腰掛け、時々、本を読ませてもらう。高窓に嵌められた薄い色のステンドグラスが落とす影は、夏の夕方の陽光に伸びて、そこにいると深い知識のらせんに身を預けることができた。シューさんも、よくその椅子に座って、日本語の本を読んでいる。そのときは、とても静かである。
そんなシューさんは、月子さんとベビー、ミアちゃんには溶けそうにでれでれである。国際電話が掛ってくると、携帯電話をそっと両手で持ち、リビング隣の客間へするっと入る。それは、瞬間技のように早い動きであるが、体が大きいので目立ってしまう。
そして電話が終わると、とろけきったような顔でリビングに戻り、ミアちゃんの写真に見入るのだ。
だが、先日、電話が終わってリビングにやってきたシューさんが、元気なく落ち込んでいた。
リスさんと私は、何事かと、ソファに沈むシューさんを見守った。
シューさんは、私たちをその青い目でチラリと見て、一言だけ言った。
「月子さんに、だめっていわれた……リスのパン教室」
というわけで、シューさんは本日、お留守番となったのである。月子さんの一言は、リスさんの度重なる諭しよりも重いものなのだった。
小学校へ着くと、リスさんと私は前に訪れたときと同じ、職員玄関から校舎へ入った。
玄関には、「ベッカライウグイス リスさんのパン教室開催 家庭科室」と書かれたホワイトボードが置かれ、私たちを歓迎してくれていた。子どもたちの描いた色とりどりのイラストまであり、リスさんと私は顔を見合わせ、ほんわかした気持ちになった。
実はリスさんのパン教室、申し込みが殺到し、子どもたちまでが参加したいと熱望したため、人員整理がたいへんだったと聞く。そこで、今回は抽選ということになり、当選者が50名集うこととなった。子どもたちが可哀想なので、ぜひ学年行事としてリスさんにもう一度パン教室を開いてもらえないか、と先生たちから懇願されたが、そこは申し訳ないがお断りさせていただかなくては、後がたいへんである。そのかわり、リスさんは今回のメニューに、子どもたちの大好きな動物パンを選んだ。作り方やレシピも全校配布することでなんとか治まったのである。
職員室へ向かうと、校長先生と副校長先生が笑顔で迎えてくれた。
校長先生は、
「リスさん!」
大きな声で名前を呼ぶと、リスさんに握手を求めた。
なんと校長先生は、リスさんの在学時代、理科専科で○○小学校に在籍しており、リスさんを教えたことがあるのだという。
「えっ、林先生?!」
リスさんは、林先生が○○小学校の校長先生であることを知らなかったらしく、目を丸くして驚いた。
「理科の、林先生ですか?!5、6年生のときに……」
「もっちろん、私は覚えてますよ!」
校長先生は、リスさんが髪を一本のお下げにしていたこと、額がゆで卵のようにつるっとしていて、そのときからリスのようだったことを話し、先生ってすごい人種だな、と私は思った。
PTA会長に先導され、リスさんと私は家庭科室へ入場した。
その場に集合したPTAの皆様の目が、私たちに一斉に注がれた。
教室を開くとは、こんな、感じだったんだ……。
はじめてそれを味わった私は、いたたまれなくなるのを感じ、シューさんがいてくれた方がよかったのではないか?とさえ思った。
リスさんを見ると、がんばってベッカライウグイス代表の威厳を保とうとしていた。小柄な背筋をしゃんと伸ばし、しっかりと顔を上げ口元に微笑みを浮かべていた。私は、リスさんを改めて尊敬した。私も、努力してそれに倣った。
PTA会長は、家庭科室の教卓の前に立ち、リスさんを紹介した。
「本日は、我らが卒業生、ベッカライウグイスのリスさんに、おいでいただきました!」
会長さんは、紺色のポロシャツを着て、短髪は爽やかにさらさらだった。両手を行儀よく挨拶する位置に重ねているが、その発声が、人を惹きつける術を遺憾なく発揮していることから、職業はエンターテイナーかと思われた。細身なお父さんであるが、シューさんと、どことなく似通ったものをお持ちの会長さんである。
会長さんの紹介に、温かな拍手が巻き起こった。
「第何回の卒業生になりますか?」
会長さんの質問に、リスさんは、よどみなく答えた。
「第65回です」
アルバムを見ておいてよかったね、リスさん!
リスさんが、チラリとこちらを見たので、私は小さく頷いて応えた。
「ええっと、中には、この地域で育ったという人もいるはずなんですが、この中に第65回卒の方はいらっしゃいますか?」
PTAの皆さんは、顔を見合わせ首を傾げる。
「……残念。リスさんと同期はいらっしゃらないようですが、ちなみに僕は第51回卒ですので、今後ともよろしくお願いいたします」
と会長さんは頭を下げる。ほほえましく笑いがさざめく。
「ええ、今日は、皆さん待ちに待っていた、PTA行事『リスさんのパン教室』です。皆さん、リスさんに教わりながら、一丸となってですね親子カメパンを作って、大いに勉強し、楽しみましょう!では、ベッカライウグイス、リスさん、よろしくお願いします」
会長さんは、こちらに頭を下げると、あちら側に混じってしまった。
リスさんと少し離れて控えながらも、私は、硬直した。
こんなに大勢を目の前にしたのは、学生時代の演習授業以来である。
リスさんを見ると、心なしか顔色がよくない。
がんばれ!!リスさん!私は心の底から激励した。
リスさんは、ゆっくりと教卓の前に歩み寄ると、PTAの方々の方を向いた。
「ええっと。本日は、お声を掛けていただき、ありがとうございます。PTA会長さんからご紹介いただきました、この地域で、ベッカライウグイスというパン屋さんをやっています、鶯谷里翠です。いつも、パン焼き窯とにらめっこばかりで、説明も下手かと思いますが、……」
一瞬、リスさんの目が、泳いだ。
何か……?
だがリスさんは、すぐに立ち直った。
「何かありましたら、何でも聞いてください。よろしくお願いします……!」
リスさん、がんばったよ~!
私は、PTAの皆さんと一緒に、リスさんへ拍手を送った。
先ほどのほんの小さな間は、リスさんの緊張からかと思われた。
あたたかな拍手に包まれ、私も緊張が和らいだ。少し気持ちの余裕もでき、どんなお父さんお母さんたちが来てくれているのだろうか、と周りを見渡した。
ん?
ピンク色のトレーナーを着た、若いお父さんが私の目に留まった。トレーナーの胸には、大きなユニコーンが描かれている。
娘さんの好みなのだろうか?優しげなお父さんで、細いフレームの眼鏡の奥の目がにこにこと笑っていて、目尻に皺ができている。
娘さんも一緒に来たかったのかもしれないな、と私は思った。
皆さんと一緒に座ってリスさんの話をきいていたPTA会長さんが、立ち上がった。両手をメガホンの代わりにする。
「では、皆さん、本日のレシピを配布しますので、エプロン、三角巾など準備をお願いしまーす!」
PTAの組織の人たちが、本日のカメパンレジュメを配布し出した。
皆さんが、身支度を調え始めた。
少し前までは、落ち着いた色合いの服装に辺りは支配されていたが、色とりどりのエプロンを着けると、家庭科室は一息に賑やかな雰囲気に変わった。
PTAの方々は、皆さん楽しそうに交流している。その胸には、○年○組○○と描かれたプレートをつけていた。たまに、○年○組担任○○という先生も混じっているようである。
ん?
そこにひとりだけ、三角巾の付け方を間違ったお父さんがいた。
いや、三角巾が小さいのだろうか?
ギンガムチェックの小さな三角巾の、端っこの部分が、天井に向かってぴんっと立っている。さきほどのピンクのユニコーントレーナーのお父さんである。
三角巾の布はよほど固いのだろうか、くたっと折れて落ち着く気配はない。不思議なろうそくの炎か、ユニコーンの角のように、ギンガムチェックは突き立っていた。
だが、誰ひとりそれを指摘などしなかったし、気にするそぶりもなかった。私も、見て見ぬ振りを貫いた。
リスさんが、レジュメの説明をしだした。
「パンの味を決める上で、一番大事なのは配合もそうですが、ミキシングや発酵が大事になります。えっと、皆さんの中には、パン作りを上手にされる方がいらっしゃるとおもいますので、発酵の進み方もご存じかと思います。発酵は足りなくても足りすぎていても味が変わってしまうものです。生地の肌に、どんな具合にガスが見えるといい感じなのか、ミキシングでは、いい感じのときに生地を伸ばした感覚がありますので、体験してみてください……では、まず計量から、お願いします」
リスさんの説明がおわると、ふわぁっとした空気にその場が包まれ、和やかに歓談しながら皆さん手を動かし始めた。
調理台は9つあり、5、6名で一つの台を囲んでいる。
台の上にすでに並べられた、鍋やボウル、計量器やカップ、スプーンを動かして粉類を計ったり、お湯を沸かしたりする。
PTAの皆さんは、知っている同士は、○○ちゃんのお母さん、お父さん、と呼び合い、知らないもの同士は ○○さんと互いのネームプレートで確認しながら和気藹々と、作業を進める。
リスさんと私は、ベッカライウグイスから運んできた、計量済みの生イーストを各調理台に配って回った。
「うわぁ、先生、これは何ですか?」
口々に、同じ質問が湧く。
リスさんと私は、突然、「先生」と呼ばれ、平静を保つのが難しい。
「えっと、これは、生イーストです」
配られた調理台はざわめく。
「粘土みたい」
「乾燥してるのしか見たことなかった……」
リスさんは、説明した。仕事上のことなので、ここは臆することなく、丁寧に解説している。全員が、リスさんを注視する。
「イーストは、色々な種類があります。他に、顆粒状のドライタイプや、セミドライタイプもあります。その中で生イーストは、発酵力が一番強くて、糖分とのなじみがいいので、今日作る菓子パンに最も適しているんです。イーストのタイプ別に、得意な分野のパンの種類があるわけですね」
「リス先生!」
手を上げる参加者もいる。ネームプレートを見ると、3年1組担任級木、と書いてある。先生が、先生に質問をする珍しい場面である。
「よく、天然酵母のパンっていうのも聞くんですが、それとイーストは違うんですか?」
さすが、よい質問である。
リスさんは、答えた。
「天然酵母、というのは、葡萄などの果物や、野菜や穀物を発酵させてつくるんですけれど、そうやってできた酵母を自然酵母とか天然酵母といいます。大きな酵母という呼び名の仲間に、イーストさんや天然酵母さんもいることになります。酵母は、適温で栄養を取り込むと、どんどん増えていって、その活動としてガスを出します。それが、パンの味や膨らみになるわけです。ですから、使う酵母の種類によって、パン生地の味や状態が変わることになります。ちなみに、酵母は、顕微鏡で見ると、だるまさんのような形をしていて可愛いです。あとは、イーストも本名は別に難しいのがあるので、よかったら調べてみてください。では、お湯は適温になりましたでしょうか?」
リスさんは、周りの調理台を見渡した。
レジュメにそって、適度に温めたお湯を計量し、温度計で測っている。そのときだった。
「あつっ!」
どこかの調理台から、慌てた声が聞こえ、辺りの目が注がれた。
声の主は、倒れた計量カップの、お湯が広がったところから、温度計をつまみ上げている。
飛散したお湯を、周りの落ち着いたお母さんたちがにこやかに拭き取った。
「やけどしてませんか?」
と優しく声を掛けている。
「だ、だいじょうぶです。びっくりした~。急に温度計がぐんぐん上がるものだから……」
お湯が熱すぎたらしい。ユニコーン・三角巾のお父さんだった。
「では、イーストがよい具合になったら、ミキシングを始めていきます。ミキシング、というのは、ええと、大きなまな板があると思いますが、ここで、まずバター以外の材料をすべて混ぜ合わせて、板に擦り込む感じで捏ねていくことです。生地に空気をよく含ませてミキシングすると、小麦粉のグルテンの力が強くなって、よいパン生地に近づきます。最初は、かなりベタベタした状態ですが、もう少し混ぜていくと、べたべた感がなくなって、きれいにまな板から剥がれるようになります。そうなったら、バターを入れていきます」
作業は、どんどん進んだ。
「大きいまな板ですよね~」
「そうなんです。私が赴任したときには既にあって……たぶん……うどんをつくるためですかね……」
「家庭科で、うどんを作るんですか?」
「いえ、作らないんですけど……」
「えーっ、○○くんのお母さんですか?」
「そうです」
「子どもから聞いてますよ!この前、歯磨きしながら転んで、救急車で運ばれたって。大丈夫でしたか?」
「そうなんです!刺さっちゃって……」
「えっ、何が、何が?」
「歯ブラシが」
「ええーっ?!」
「男の子って、あるわよね~」
「そうなんですか?」
「うちの子、ネコヤナギのあのぽわぽわのところね、鼻の穴の中に入れちゃって、取れなくなって病院に行ったよー」
「うっわー!」
作業中、主にお母さんたちの口は、ずっと動き続けていた。それでも手は、てきぱきと休むことを知らない。
大きなまな板に、パン生地をたたきつける役目は、グループに1、2名配置された男性陣の活躍の場だった。
リスさんは、各調理台を回って、上手にスナップを効かせながら生地が伸びるようにたたきつける模範を見せている。私も、調理台を回る。
「すごいです!」
見ると、リスさんの模範を手を叩いて褒め称える人物がいた。例のお父さんである。三角巾は、折れることなく立ちっぱなしである。
「やってみてください」
リスさんは、優しくパン生地を渡す。
件のお父さんは、両手でそれを受け取ると、リスさんを真似てたたきつけ始めた。
「もうすぐ、滑らかになって艶も出てきますから、それまでがんばって叩いてくださいね」
「はいっ」
お父さんは真剣にパン生地に挑んでいた。
おおむね、どの調理台も順調に作業が進み、今度はクッキー生地の作業に入った。親子カメパンの背は、メロンパンと同じ、クッキー生地でできている。
「クッキー生地にメロン風味を付けたいグループの方は、こちらにリキュールがありますので、10ミリほど加えてください。その分、バターを10グラム減らしてくださいね」
メロンリキュールは大人気で、持ってきてよかったね、とリスさんと言い合った。
「お家で、お子さんと一緒に作るときは、レシピにも書いてありますが、メロン味のカスタードクリームを中に入れてみるのも美味しいです。他に、クッキー生地に抹茶を加えると、緑カメになって可愛いです」
リスさんは、付け加えた。
それから、私たちは各調理台を巡回し、パン生地の仕上がり具合を確かめた。
パン生地は、ばんばん大きな音で叩きつけるものではない。あくまで、手首を上手に動かし、パン生地を適度に伸ばしながら叩くのである。
リスさんと私は、お父さんたちが叩いたパン生地を調節しながら丸くまとめた。丸めた一部を指で引っ張り出して伸ばすと、薄い生地に網のような模様が浮かぶ。
「こうなると、よい状態で生地が仕上がっているので、やってみてください」
うわぁ、という声があちこちで上がるが、これは慣れないと難しい技のひとつである。
「難しいです!」
「そんなに薄くできない!」
リスさんと私は、あちこちの台に呼ばれて、やって見せた。
「では、パンの一次発酵に入ります。レジュメに、即席発酵機の図があると思うのですが、そのように作ってみてください」
おおーっ、とレジュメを見た皆さんがざわめき、何人かが材料を集めに、家庭科室の戸棚へ移動した。
あの、大きなボウルが活躍するときである。
大きなボウルにお湯を張り、その上に、これまた家庭科室に山のようにあるアルミのプリン型を置く。その上に、小さなボウルに安置したパン生地を載せ、濡れ布巾を掛ける。
これで、一次発酵が完了するのを待つばかりになるのだ。
早いお母さんたちは、もう使った道具を洗い、後片付けに入っていた。さすがである。
パン生地は即席発酵機のボウルの中で順調に発酵し、クッキー生地は冷蔵庫で固められている。
ここで、付き添っていた家庭科の先生が、参加者全員に紅茶を淹れて配った。しばしの歓談タイムである。
あちこちに話の花が咲き、椅子を移動させて、別の話の輪に加わるお母さんもいたり、リスさんに質問をしにくる若いお母さんもいたり、みずほさんの言うとおりやはりパン教室をやってみてよかったな、と私も話の渦に巻き込まれながら思った。
だが、私はふと、リスさんをじっと見ているひとりの視線に気がついた。
例のお父さんである。
目立つ部分しか見ていなかったが、よく彼を観察してみると、三角巾とおそろいの生地でできたエプロンが、これも小さいようで、胸のすぐ下に腰紐を結ばれている。やはり、娘さんからの借り物なのだろうか。胸当ての左上には、これまた写実的なユニコーンのアップリケ。よほどユニコーンが好きな娘さんなのだろう。そして、右胸にはネームプレートがあり、5年2組古賀、と書かれていた。
5年生か……。私は、どう見ても20代、いや多く見積もっても30代前半のお父さんにかすかな戦慄を覚えた。私や、リスさんと同年代である。みずほさんが言っていた、同年代のお友達って……。私はかぶりを振った。いやいや、まさか結婚されている若いお父さん、という意味でみずほさんは言ったわけではあるまい。
それにしても、どうしてリスさんを見ているのだろう……。
リスさんは、そんな視線にまったく気づいてはいない。紙コップの温かい紅茶を手に、お母さんたちとパン談義に憩いのときを楽しんでいる。
私は、発酵中のパンが膨らむように、ちょっと嫌な予感が胸の中で大きくなるのを感じて、「古賀」という名前を心に留めた。




