プロローグ
長閑な喧騒の中、目を覚ますとそこは森の中だった。
豊かな果実の実った木々、辺りには色とりどりの花が咲き乱れ、目の前には綺麗な泉が広がっていた。まるで10時間以上も熟睡したかのようなすっきりした目覚めに俺はひとつ伸びをしながら空を眺めると雲がゆっくり流れていて太陽の光が暖かい。優しい風が吹き、寝転がっていた草むらもフカフカと柔らかく寝心地最高である。
天国とはこういう場所のことを言うのだろう───
「残念だけど、ここは天国じゃないわよ」
突如声が聞こえ、水飛沫と共に目の前の泉から一人の女性が現れた。褐色の肌に銀色の髪、そしてその美貌に俺は見惚れた。
「目が覚めたのね。じゃ、さっそくお話をしましょうか」
そう言って女性はどこからか紙の束を取り出しペラペラと捲りながら見ている。水の中にいたであろうに身体や服、紙束には濡れている様子が見られない。
「えぇと、アナタの名前は左門 蔵臼……間違いないわね?」
「は、はい……」
思わず返事してしまったがなぜ俺の名前を知っているのだろうかという疑問をよそに彼女は話を続ける。
「幼い頃から剣術をやっていたようね、この記録を見るとかなりの腕前だわ。そして───最期は妹と外出中に交通事故で死亡、なんとも気の毒ね」
その言葉で俺は目覚める前のことを思い出した。あの日、俺は高校受験に合格した妹にお祝いを買ってあげようと一緒に出かけていた。信号が青になって交差点を渡っていたら車が猛スピードで走ってきて俺は咄嗟に隣にいる妹をかばい、次の瞬間には身体と共に意識も撥ね飛ばされていた。
思い出せるのは救急車のサイレンの音と必死に俺を呼ぶ妹の声、すごく不安そうな表情で俺の顔を見ていたような気がするがその辺の記憶が朧気だ。
「あの……妹は?」
「大丈夫よ、盾になったアナタごと撥ね飛ばされたけど軽傷で命に別状は無いから」
女性が俺に紙を一枚渡してきた、それを見ると妹の様子や事故の後に運ばれた病院の名前まで載っている。妹が無事だと知り俺は安堵したが同時に怪我をさせてしまったことを悔やんだ。あの時、突き飛ばしたりしていれば───
「たとえそんな事しても、アナタの妹が無事だった保証なんて無いわよ」
過ぎ去ったこととはいえ、考えずにはいられない。思い悩む俺に彼女はそう言い放った。
「予測できない事態に遭遇したとき、アナタたち人間ができることなんてたかが知れてるわ。アナタは身を呈して妹を守った、その結果で満足しておきなさい」
冷たく聞こえる言葉だったがその声色は優しく、まるで励ましてくれているかのようだった。
「はい……ありがとうございます」
なんだか元気づけられた俺は彼女に礼を言いながら紙を返し、彼女は紙を受け取ると手を叩いて子気味のよい音を鳴らした。
「さて、暗い話はここまでよ。今からお楽しみの転生の話をしましょうか」
彼女はまた紙をペラペラと捲り、ある1枚の紙を俺に見せると次のように内容を言葉にした。
「妹の命を危機から守り、救ったアナタの行動はこの上なく高貴なものである。最高神はアナタを"最高位転生者"として異世界へ転生させることを定める───というものよ」
彼女が言ったことを難しい言葉で書かれているその文書の最後には『これは決して覆ることのない確定事項であることをここに記す』という力強い文章と共に"Jupiter"と"Inanna"という二つの名前が印されていた。
「すごいことなのよ?最高神ユピテルと高位の神一柱の承認が無いと最高位転生者なんてなれないんだから。あ、ちなみにこの"イナンナ"っていうのは私のことね」
彼女は紙を見せつけるように揺らしながら得意気に語る。妹がよく異世界転生の漫画を好んで読んでいたが、最高位転生者ということは漫画の主人公である彼らのようなチートのような能力を得られたりするのだろうか。
「ん〜チートと言えるかどうかはわからないけど、普通の転生者よりはかなり快適に異世界で生きていけることは間違いないわ。たとえば普通の転生者って無一文なうえに装備も無しで転生されるのだけれど、アナタはある程度のお金とアナタに合ったスキルと装備を賦与されるのよ」
俺に合う装備……刀かな、そんでスキルは剣術系だろうきっと、魔法剣とか。妄想に夢中になっている間に彼女はおもむろに木から果実をひとつもぎ取った。それは見た目が赤くて丸い、誰もが知っているであろうものである。
「これ、アナタの世界の言語だとなんて言うの?」
「り、リンゴ・・・英語ならアップル?」
「正解♪でもアナタがこれから行く世界の言語だとこの"リンゴ"という果実のことを『█▃▇◢』って言うのよ」
「・・・なんて?」
人間には発音できなさそうな言語が彼女の口から飛び出してきて俺は驚き戸惑った。どういう舌の動きしたらその発音が出来るんだ?
「言語がわからないと生活できないわよね?だから位にかかわらず転生者にはまず言語力が賦与されるの。これで自分の世界の言語で話してても異世界の人たちには異世界の言語で話してるように聞こえるし、逆に彼らの言葉もアナタたちにはアナタたちの言語の言葉に聞こえるわ」
「うおぉ・・・すごい便利だ」
世界が違ければ文化も違う、もといた現実世界でさえ言語が違う者同士はコミュニケーションをとるのに難儀してしまう。それだけ言語というのは分厚い壁なのだが、その心配をしなくていいのは大変ありがたい。
「あとは……そうね、女神の祝福としてアナタに常時発動スキルも付与してあげる。神の祝福を受けられるのも最高位転生者の特権だからありがたく思ってね〜」
そう言って彼女は面倒そうにペラペラと捲っていた紙束を後ろへ放り投げ、なにか呪文のような聞き慣れない言葉を唱えて俺の周りに魔法陣を展開した。
「ま、第2の人生、楽しく謳歌してちょうだいな。一応言っとくけど私の承認で最高位の転生者になるんだから、変な気起こして魔王とかになるのだけはやめてよね?」
「……なりませんよ」
一瞬思い浮かべてみたが……うん、似合わないな。自分でも笑ってしまうほどに。
「それじゃ、異世界に〜……Let'sらGO〜!」
「え、もう!?あの、ありが───」
御礼の言葉を彼女に言いかけたが意識は暗闇に覆われ、すぐに妙な浮遊感を覚えて意識が覚醒すると俺の体はどこともわからぬ大地に立っていた。Tシャツの上に緑色のパーカー、そして七分丈のパンツにスニーカーと異世界転生者にしてはやけに現代風な服装だがベルトのホルスターには1本の刀が差されている。夢ではないと周囲を見渡した視界に映る景色はもといた世界とかけ離れており、なにより空気が透き通っている。俺はこの新世界での新しい人生に期待で胸を躍らせ、ひとつ深呼吸をすると歩き出した。
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「───あ、最高位転生者の特権もうひとつ伝えるの忘れてたわ」
蔵臼を異世界に転送し、泉で優雅に水浴びをしていたイナンナがなにかを思い出してバツの悪そうな表情を浮かべる。少し考えたが呼び戻すのもめんどうで、あの権限を行使する状況など滅多に訪れない
だろうと思った彼女は『ま、いっか♪』と気楽に言って体を水に浮かべてゆらゆらと漂う。