マグノリア
九歳のメリアンは、カタルニア王国の大臣の一人である父に連れられて初めて王宮を訪れることになった。父は、王族に次ぐ身分であることを誇りとしており、礼儀作法やマナーには特に厳しかった。
王宮に到着すると、父は即座にメリアンに向かって厳しい目を向けた。
「メリアン、王宮ではいつも以上に礼儀正しく振る舞うこと。言葉遣い、立ち居振る舞い、すべてにおいて品位を保つことが大切だ。」
メリアンは緊張のあまり手足が震えていた。
「は、はい、父上。」
メリアンはそう小さな声で答えた。けれど、実際に貴族たちとの挨拶でうまくいかず、父から厳しい叱責を受けることになってしまった。
「お前は公爵家の娘だ。未熟な子供では許されない。」
父の言葉に、メリアンは堪えきれずに泣き出してしまったが、父は容赦無く厳しい表情でメリアンを睨みつけた。
「泣くな、貴族たるもの、他人に弱さを見せてはいけない。」
メリアンは我慢しながら、泣き声を押し殺して、父の言葉に従った。
その後、父は宰相と廊下で出会し、長く立ち話をしていた。その隙をつき、メリアンはさっと父の元から逃げ出した。また怒られるのが嫌だった。
宮殿は広く、迷路のよう。メリアンは途中から不安になり始めたが、先のことなど考えられず、今はただ父を恐れて立ち止まることができなかった。
そんな時、ふと目の前に現れた中庭。この日は春一番の風が強く吹き、花びらが踊るように舞っていた。
その幻想的な空間に足を踏み入れる。すると被っていた帽子が強風で空中に舞い上がった。驚いて追いかけようとしたが、風がますます強くなって、帽子は彼女の手の届かない高さまで飛んだ。そしてマグノリアの枝に引っかかり、しばらく揺れた後、帽子は地面に落ちることなく、そこで静かに止まった。
メリアンは赤い髪の毛がコンプレックスで、それを隠す役割を果たしていた帽子を失くしたことと、現状迷子になっていることに気づいたことで泣き出してしまった。
(泣いたらまた父上に怒られてしまうわ・・・でも、涙が止まらない!どうしよう!?)
そのとき、メリアンよりも少し年上であろう少年がふと現れた。そして彼は手を上に伸ばし左右に振りかざすと、風の精霊魔法を使って、メリアンの帽子を取り戻してくれた。
「これ、君のだろう。」
そう言い、帽子を被せてくれた瞬間、メリアンは正面から見た彼の顔から目が離せなくなってしまった。強い風になびく銀色の髪と海のように爽やかな青色の瞳、そして顔の作りそのものが、この世の何よりも美しくて。
(なんて綺麗な男の子なの・・・)
あまりにもメリアンが彼のことを見つめ続けるので、彼は不機嫌なのか、照れているのか、よくわからない引きつった顔をしながら、どこかへ行ってしまった。
その後、父がメリアンを迎えにきてくれた。メリアンがいなくなった後、父はメリアンを探し回っていたらしい。怒られると思ったが、「心配した。」と抱きしめられた。父は厳格だが、同時に愛情深い。
「フェルディナンド王子がお前が中庭にいると、教えてくれたんだ。」
「王子?・・・あの銀色の髪の・・・?」
「ああ。」
その日以来、メリアンは王子に対して恋心を抱くようになり、自分から父について王宮を訪れては、王子を追いかける日々が九年ほど続くのであった。
メリアンにとってそんな思い出が詰まった中庭をルカとリリスは駆けまわっている。なんとも不思議な気分だ。そして近くで王子も目を離すことなく二人を見守っている。
この数日間で王子と子供たちは随分と打ち解けたようだが、メリアンと王子には緊張感が残っていた。
会話という会話は何一つしていない。メリアンは、子供たちの楽しそうな様子を見て、ほっとしている一方、自分は今後どうなるのかは気がかりだった。ここで、審判にかけられ、やはり皆の前で打ち首になるのだろうか。
そんな悲観に浸っていると王子がメリアンに珍しく声をかけた。
「みな、長旅で疲れただろう。部屋に案内しよう。」
そうして三人は王子の部屋の近くの部屋に案内された。扉を開くと、メリアンが昔香水でつけていたほど好きなイランイランの甘い香りが漂っていた。部屋は広く、天井は高い。窓からは先ほどの中庭が見える。壁には美しいタペストリーや絵画が飾られ、家具は全て手の込んだ細工が施されている。天蓋付きの大きな寝台には、シルクの寝具が敷かれていた。その隣には、急遽用意されたように不揃いの小さな寝台が二つ並んでいる。
王子はメリアンに「しばらくはこの部屋に滞在してもらうことになる。不自由はさせぬ。何か必要なものがあったら、モーリスやメイドたちに言ってくれ。」と言い残し、部屋を出た。そして入れ替わるように三人の若いメイドたちが入ってきた。その中でメリアンが知っている者はいなかった。
三人は色とりどりのドレスやら、子供服やらが大量にかかったラックを部屋に運んだ。
動きやすさと、過ごしやすさを重視していた質素な服は、あっというまに煌びやかなドレスに替わり、子供たちも襟のついた立派な服を着せられた。けれど、二人はそんなことはお構いなしにと、広々とした部屋で、駆け回っている。子供の体力は無限だ。
メリアンは鏡の前に立ち自分の姿を見た。
(こんなドレスを着るなんて久しぶりだわ。胸だけは少しきついけれど、サイズはぴったり。)
この六年間、子供たち中心で、自分の容姿や服装などは全く気にすることなく過ごしてきたので、久しぶりに着飾っている自分は少々照れくさい。淡いピンク色のドレスは、襟元には小さな花が散りばめられ、スカートにはフリルがたくさんついている。少しでも王子にかわいいと思われたくて、毎回ドレス選びには気を使っていた以前のメリアンの趣味そのものだ。まるで当時の自分のクローゼットの中のようなドレスばかりが用意されていて、どれも可愛くて、選ぶのに一苦労した。
夕暮れ時、モーリスがメリアンの部屋を訪れた。
「王子殿下が夕食を共にしたいとのことです。」
「そうですか、ありがとうございます。」
三人はモーリスに連れられロイヤルダイニングルームに向かった。豪華なテーブルの上には春花のアレンジメントが飾られ、季節に合ったテーブルコーディネートが施されている。
王子は既に席に座り待っていた。
メリアンはお詫びの挨拶をするため、子供たちを引き連れ王子の前に立った。
「お待たせして申し訳ございません。」
王子はメリアンの姿に目を留めたかと思うと、少し困ったような顔をし、そっと目を逸らした。このように避けられるような態度には昔から慣れていたが、やはり以前と変わらず落ち込んでしまう。メリアンの様子の変化に気づいた王子は、何かを言いかけたかのように口を開いたが、結局何も言わずに黙り込んでしまった。
そんな時リリスが「ドレスかわいい?」とフリフリのドレスを王子に見せた。
すると王子は二人の背丈ほどに屈んで「二人とも、とてもよく似合っている。」と、褒め言葉をかけながら頭を撫でた。すると子供たちは嬉しそうににっこり笑った。
(私のことが嫌いでも、なんだかんだ子供たちのことは可愛いと思ってくれているのね。)
そのことに安心した。もし自分がここで、処罰を受けたとしても、二人はちゃんとメリアンの罪を背負わず生かしてもらえるだろう、と思えた。
食事の途中、王子は騎士団長のエリオットに呼ばれ、急遽席を外すことになったが、メリアンは、王子が席を外したことで少し気が楽になった。もちろん周りにはモーリスや他の使用人がいるのだが、それでもメリアンにとって王子は特別な存在だった。子供たちも王子に慣れたとは言え、遠慮がちなところもあり、メリアンにコソッと本音をこぼした。
「きのうのごはんも、きょうのもとってもおいしいけど、おかあさんのごはんもたべたいな。」
「リリスも。」
自分の処遇も分からないうちに子供たちに約束出来ることはなく、「ありがとう。」とだけ返した。
食事が終わっても、王子は戻ってこなかったため、三人はそのままモーリスに連れられ部屋に戻った。モーリスはしばらくの間、メリアンと子供たちに付いてくれるという。その理由を訊ねると、「メリアン様のことを考えなさって殿下が決めたことでございます。」と答えた。
「それはどういう意味でしょう。」
「あなたが少しでも安心して宮殿でお子様方と過ごしていただけることが殿下の希望でございます。」
メリアンは王子の考えに混乱しつつも、その後メイドたちに世話を焼かれながら、寝るまでの時間を過ごし、子供たちと一緒にベッドに入った。
子供たちは新しい環境にも長旅にも疲れたのか、いつもなら「お話をして。」とメリアンに童話を聞かせるようにせがんでくるのだが、今日はベッドに入るとすぐに眠りについた。一方のメリアンはなかなか寝付けなかった。
心配や不安が頭の中を巡り、何度も目を閉じ深呼吸を繰り返したが、落ち着かない。
流されるまま王宮に来たことが本当に正しかったのか、いつまでここにいるのか、自分も子供たちも、これから、どうなるのか…考えたところで答えなど出ないのは分かっていたが、それでも心の中では悩みが渦巻いていた。
そこにトントントンと扉をノックする音がした。
メリアンはゆっくりとベッドから出て、警戒心を持ちながらそっと扉を開く。するとそこには王子がいた。
「…どうかされたのですか。」
予想外の訪問者に驚いたメリアンが訊ねると、王子は「いや。」と困ったように答えた。
「…」
「…」
それからしばらく沈黙が続いた後、王子は「良い夜を。」と一言残し、後ろにひっそりと控えていたエリオットと共に去っていった。
メリアンは王子の訪問に戸惑いながらも、彼が自分たちのことを気にかけてくれているのだと感じ少しほっとした。王子がなぜ訪ねてきたのか、何かを話そうとしたのかは分からなかったが、彼が自分たちを気遣ってくれていることには変わりがない。
メリアンは子供たちが安心して眠る様子を見て、今はこの場所で彼らと一緒に過ごすことに専念することに決めた。
もちろん、将来のことについて考えるのは避けられない。自分たちの運命はどうなるのか、何が待ち受けているのか、不安は常につきまとっていた。
しかし、今は子供たちと共に眠りにつき、次の日を迎えるための体力をつけることが大切だと思った。自分たちの未来がどうなるにせよ、今できることを一生懸命にやることが大切だと思えた。