町にて
「ふわあ。ようやく着いたなあ」
出発から実に五時間以上もかけて、あたしたちは目的地にたどり着いた。
山に囲まれたそこそこの大きさの町――白海。
実際に来てみると、そこはほんとうにそこそこの大きさの町だった。
栄えているわけでも、かといって寂れているわけでもない。周囲をぐるりと山に囲まれているし、遠くには田んぼや畑もたくさん広がっているのだけれど、駅の近くにはビルやコンビニなんかもけっこうある。
ほどよく田舎で、ほどよく都会。でもどちらかというと、やっぱり田舎。
そんな印象の町だった。
正直、あたしはこういう町が嫌いじゃない。なんだか落ち着くのだ。
町のまんなかの小高い丘の上に、大きな鳥居が見える。神社があるのだろう。
「思ってたより結構都会なんやなあ。でも、ウチとしては結構イイ感じや。こういうところで暮らしたら、伸び伸びした青春を送れそうやなあ。あの神社もええ感じや」
妙に老人くさい感想を口にしてから、弥生は町の一角にそびえ立っている山に目をとめた。
「あっ、見て見て、美代ちゃん。おっきい山やなぁ。なんやここらのボスって感じや」
その山は、町を囲む山脈のなかからひとつだけ町側にせり出していて、独特の存在感を放っていた。
たしかに弥生の言った通り、まるで周囲を囲む山々のボスといった雰囲気だ。
「もしかして、あれが狗堂山って山なんじゃないの?」
「狗堂山?」
「ほら、初心者用のハイキングコースがあるってネットにも書いてあった」
「あー、あれかー」
弥生は再び例の山に目を向けた。
「そっか。あれが狗堂山か」
「どうかしたの? 弥生」
「なんでもあらへん。それより美代ちゃん、宿はどこにあるんや? ウチ、ちょっと疲れてもーたわ」
言われてみると弥生の顔はうっすらと青ざめ始めていた。
「あんた、ちゃんと薬飲んだの?」
弥生は一日数回、薬を飲まなければならない。それも一錠や二錠ではない。知らないひとが見たらびっくりするぐらいの量を飲まなければいけないのだ。
もしも飲むのを忘れたりするとすぐに体調を崩してしまうのである。ひどいときにはそのまま何日も寝込んでしまうこともある。
あたしの問いに、弥生はちょっと間を置いてから答えた。
「もちろん飲んだでー。単に電車に酔っただけや」
弥生はそう言ったが、どう見ても乗り物酔いという感じではなかった。となると残る原因は疲労だろう。
今朝から元気そうだったので、ついつい彼女の身体を気遣うことを怠ってしまった。あたしは自分のうかつさを悔いた。
「ちょっと待って、お母さんがくれたメモがあるから……」
あたしは前もって母から受け取っていたメモを開き、宿の住所と名前を確認した。
当然ながら、高校生のあたしたちだけでは宿の予約(それも長期)を取ることは出来ないので、この旅はあたしの両親の全面的な協力のもとに成り立っている。宿の手配もそのひとつだ。
父も母も女の子ふたりだけの旅ということに最初は難色を示したが、弥生のたっての頼みであるということで最終的には協力してくれた。
父も母も弥生の寿命のことは知っている。だから母はこのメモを私に渡したときに、
「弥生ちゃんが最後まで幸せでいられるように、ずっとそばにいてあげなさいよ」
と言い、父も、
「ひとの幸せは金や名誉や健康があるかどうかじゃないぞ。自分を大切に思ってくれる誰かがいるかどうかだ。だから、お前が弥生ちゃんの支えになってあげなさい」
と言った。あたしは深く頷いた。
父や母には悪いけど、そんなこと、今さら言われるまでもない。
あたしは、あたしのすべてを投げ打ってでも、弥生のそばにいてあげたいと思っているのだから。
「えーっと、駅前でバスに乗るって書いてあるわね。バス停は……ああ、あそこか。ちょっと待って、時刻表調べてくるから」
「うん」
あたしはすぐそばの停留所に歩み寄り、時刻表を調べた。そこで顔をしかめた。
「まずいわね、あと三十分以上あるわ。どうする、弥生。タクシーでも拾う? つってもタクシーも全然見当たらないけど……」
もっと事前にちゃんと調べておけば良かった、とあたしは再び後悔した。
「ええよー。まだそこまで疲れてへんから。バス来るまでそこのベンチで休んでよーや」
「そうね」
あたしたちはバス停のそばのベンチに並んで腰かけた。ありがたいことに、上手い具合に日影になっている。
「大丈夫、弥生。ジュースでも飲む? 辛かったら、横になってもいいわよ」
弥生の病気のことで深刻にはならないと決めているあたしだが、こういうときはやっぱり、彼女のことを気遣ってしまう。こればかりはしょうがない。
「大丈夫や。ちょっと疲れただけやから」
「そう」
さっきまであんなに元気そうに見えていた弥生が、今では壊れかけのガラス細工のように脆く危なげに見えてしまう。
こういうとき、あたしはこの子のそばを離れたくないと心から思う。
あたしが守ってあげなきゃと、使命感のようなものが胸に湧き上がる。
と、ふいに、弥生が口を開いた。
「なあ美代ちゃん。ちょっと肩かしてもろてええか?」
「肩?」
「うん」
「いいけど、なにするの?」
「そりゃーもちろん、枕や」
言って、弥生はあたしの肩に頭をもたれかけた。
「なによ、やっぱり横になった方がいいんじゃないの?」
「そういうわけやないんやけどなー。なんちゅうかホラ、恋人気分を味わいたいっちゅーか。今後ウチに彼氏が出来たときの予行練習っちゅーか」
「アホか」
どうやら冗談を言えるほどにはまだ余力があるらしい。あたしはちょっと安心した。
それから少しの間、あたしたちは無言だった。
弥生はあたしの肩に頭をもたれかけたまま目を閉じている。わずかに呼吸が乱れ、額にはうっすら汗が滲んでいた。暑さのせいだけではない。
「美代ちゃん……ありがとな」
唐突に、目を閉じたまま弥生が囁く。
「ありがとう? なにがよ」
「ウチのワガママに付き合ってくれて」
どうやらこの旅のことを言っているらしい。
「あんたのワガママに付き合うのなんか、今に始まったことじゃないでしょ」
「あはは。確かにそうやなー。でも、今回はそのなかでもとびきりのワガママやからなー。ホンマありがとうなー」
「やめてよ、そんなくすぐったいこと言うの。弥生らしくないわよ」
弥生が急にしんみりしたことを言うので、あたしは不安になってしまった。
まるで死の間際の遺言のように聞こえてしまうからだ。
あたしは、弥生を失いたくない。
いつまでも弥生には笑っていてほしいし、幸せでいて欲しい。たとえその境遇が救いようのないほど悲惨なものであったとしても、せめて心のなかだけは、満たされていてほしい。
そのためなら、なんだって出来る。世界中を敵に回すことだって、たぶん、出来る。
と、弥生はそこで誤魔化すように、悪戯っぽく笑った。
「残念やなー。ちょっとイイ雰囲気ぽかったから、こう言えば美代ちゃんもイチコロかなー思たんやけど、上手くいかんもんやな」
「アホか。ほら、バス来たわよ、立てる?」
「うん」
あたしは立ち上がって、弥生の手を取った。弥生はしっかりとその手を握り返した。
弥生の手はとても冷たかった。
あたしはそのかぼそい手が温まるように、強く握り締めた。
彼女の命が、手のひらから流れ出てしまわないように。