【第八十七話】その男、別次元の現実を教える
置くべき物を置いたのであれば、残るは一喜にとって自由時間となる。
今回は傍に沢田が居るので案内ばかりとなるが、今の彼には周りを見ても然程気にしない落ち着きがあった。
これが染まった結果なのは瞭然だ。凄惨な死体を自分で作ることもあった現在では、ただ崩れている建物を見ただけで心が激しく揺さぶられることはない。
沢田に対する警戒はすれど、他については幾分か気を緩ませて彼は前を歩いている。
その後ろ姿を沢田は見て、何回も彼が此処に来ていることを確信した。
これが一回や二回であればまだ彼は多方面に警戒を向けている筈で、誰だって荒廃した世界で安穏を抱ける訳もない。
服装もカーゴパンツに厚手の濃緑のジャケット。安物の雰囲気は無く、出来る限り一般的な防護を揃えようとした様子が伺えた。
一喜の歩みについて行くと、彼女は無数の浮浪者を目に入れるようになった。
彼等もまた街と同じくボロボロの身形だ。一喜を見て怯えながら逃げ始め、その足取りは酷く不安定である。
太っている人間の姿は無い。皆総じて飢えているし、不潔でもあった。
思わず眉を寄せてしまう程に悪臭も漂い、彼等の生活環境が後進国のスラム並であることを理解させられる。
此処にはあらゆる物が不足しているのだ。食料も、住居も、衣服でさえも。
こんな場所が他にも広がっているのであれば、最早日本という国は体裁を保てはしないだろう。辛うじて国として機能している部分があると予想するのなら、それはきっと首都である東京だけだ。
そして、怪物犇めく世界では外国も例外ではない。様々な国で地獄が形成されて既に国家としての名さえ無くなった土地もあるだろう。
警察の影は見ている限りにおいて無い。自衛隊が闊歩している様子も、何処かの大企業の人間が我が物顔で歩いている様子すら無い。
無い、無い、無い。本当に何もかもがありはしない。
不足ばかりが目立つこの街は、少なくとも沢田の目には終わりへと向かっているようにしか見えなかった。
全ての人間が死に絶え、残るは無人となったゴーストタウンだけ。その範囲は拡大して、最後にはゴーストカントリーとなって何も生まれることはない。
強いて言えば動物くらいだ。新しく怪物を頂点とした世が始まり、この世界は新秩序の下で日々を暮らしていくことになる。
「どうだ、多少は証拠になるか?」
「多少どころではありませんね。 綱吉様もこれを見ては信じざるを得ないでしょう。 ……その証拠に、携帯から一度も連絡が来ませんから」
「釘付けって訳か。 なら良い」
振り返りもせずに尋ねる言葉に沢田は素直な言葉を返す。
事前に決められていた反応を伝えるメールは此処に入った時点から来ていない。一瞬は世界を渡ったことによる電波障害かとも考えたが、肩に乗ったカメラの端に灯る状態を伝えるランプは異常無しの緑を示し続けている。
綱吉はこの現状を食い入るように見ているのだ。そこが真実、オカルトでない世界であると解ったから。
解ってしまったからこそ、一喜の説明によるこの世界の危機を真剣に捉えねばならなくなった。
最早、嘘や冗談と軽く流せる状態ではない。一喜が一度も真面目な顔を解除していないのも含め、此処は死線が多く存在する場所だと全員に強く意識させられた。
ふと、前を行く一喜の目に見知った人の姿が映る。
そこに居た者も足を止め、なんだか驚いた状態で一喜を見やっていた。
瑞葉と烈だ。他に子供の気配も無く、彼等の手には何も無い。手ぶらの様子から推測するならば、コンビニへと向かっている最中だろうか。
「よ、ちょっとぶり」
「おう、久し振り」
烈は一喜と別れても何も変わっていない。
威勢よく快活な表情で挨拶を行い、瑞葉もどもっすと気楽に頭を下げる。
まだ別れて一月も経過していない。互いに久し振りのように感じるのは、ただそれまでの密度が濃かったからだ。
沢田は綱吉の説明を脳裏から引っ張り出し、一喜と行動を共にした人物のみを抽出する。
烈及び瑞葉は、今や世良と呼ばれる少女を中核とするグループに混ざった存在達だ。
規模はキャンプと呼ばれる施設に比べれば貧弱も貧弱。元の世界の同年代と比較すれば逞しくはあるものの、大の大人が銃器を向ければ呆気無く負ける。
一般的に日本で銃器を向けられる機会はほぼほぼ皆無なので比較するのはそもそもおかしいが、沢田にとっては常識的な考慮の範囲内である。
社会の闇の中で銃器はポピュラーな存在だ。密輸にせよ製造にせよ、会社を探ればその類の武器を用意していることは多い。
実際に暗殺にも銃器は多用され、対処法もまた沢田は教わって経験もしている。
そして、だからこそ彼女は二人を見て思う――――この二人には他の浮浪者達とは純粋に異なると。
「……ん? まーた見慣れない奴が居るじゃん。 誰だよ」
「もしかして向こうの人だったりします?」
「んー、まぁ、そんな感じ。 攻撃とかはしないように世良達にも言っといてくれ」
「わっかりました! ……それにしても」
服装が此方基準で綺麗で、細身の身体は鍛えられている。栄養不足による細さではないのは一目瞭然であり、瑞葉もまた生き残る為に技術を磨かなければならなかったのだと容易に想像することが出来る。
その彼女が沢田に視線を向け、上から下へと目を動かす。
些か不躾であるが、此処には教育の概念があまりに薄い。最低限の礼儀でさえも満足に出来ないだろう集団に指摘をしても効果は無いだろう。
「何か」
「いえいえ、やっぱり大藤パイセンみたいに綺麗なんですね。 いや、もしかすると大藤パイセンより綺麗かも?」
「おい」
「冗談ですよ冗談! あーでも――そういう恰好をしている人って、普通は此処には来ないんですよ」
瞬間、瑞葉の目に冷たいモノが混ざる。
にこやかな笑みの中に混ざった冷たい感情を沢田は無表情で見つめ返し、両者は暫く無言で視線を交わし合う。
瑞葉の感情の正体を探り、ああと沢田は容易にそれを見つけ出した。
それは綱吉達の家系に仕えた経験からであり、数多の将来の怪物を見て来た成果。
感情を隠し、時に偽り、そして場合によっては感情的になる。社会という怪物と戦う者達の機微を注視していたからこそ理解出来る、氷の温度の奥に残された僅かな焔。
美しくありたいと願い、快適な生活をしたいと望み、平和な毎日を希求し、夢と呼ばれる大望を胸に抱きたい。
誰かを見てそう思ってしまう感情の正体を、人は羨望と呼ぶ。
瑞葉は疑う者達が多い中で異世界を信じ、そして出来ることなら移住したいと考えている者なのだろう。
それを一喜は否と拒絶した。結果として彼女の望みは叶えられておらず、そんな最中に沢田という美女が現れたのだ。
短絡的な思考であるが、美しい様でいられることは裕福である。
瑞葉はそう考え、自分との違いに羨望した。恐らく彼女に訊ねれば内に宿っている嫉妬をも表に引き摺り出すことが出来るだろう。
「こんな美人さんが、こんな場所にどんな用事なんですか?」
「瑞葉」
「いいじゃないですかパイセン。 こっちの人は送れないって言ったのに、なんでか大藤パイセン以外の人間が居る。 これはもしやと考えるのは悪いことですかねー
ー?」
「……ッ」
一喜が眉を顰めた。
彼女の言い分は間違ってはいない。自分の要求は突っぱねたくせに、同じ世界の人間なら連れて来ても良いのか。
これに対して明確な理由が存在しないのであれば、瑞葉は一喜の拒絶を破く。殺されるまでしつこく異世界へ行こうと行動を起こす。
道理を通せ。瑞葉が言っているのは端的にこれであり、一喜はまた面倒なことになったと後頭部を掻いた。
背後の沢田に一瞬目を向ける。彼女はそれだけで首を縦に振り、致し方無しと独自に判断した。今もメールの類はやってきてはいない。
この状況を纏めることは彼女にとって仕事である。綱吉が連絡を差し向けない以上、沢田と一喜で何とか出来ると確信もしているのだ。
「先ずは自己紹介を。 私はとある御方の侍従をしている沢田と申します。 本日此方に赴いたのは、私の主が異世界について大変な興味をお持ちになったからでして」
この危険地帯である場所で何を発現するのが吉となるのか。
優秀な沢田の頭脳は瞬時に計算し、そして最適解として真実を口にした。
自分は大きな組織に所属している者であるぞと、脅迫を加えて。




