【第八十五話】その男、二人目を得る
「――これ、しかないのか?」
「……すみません」
部屋の中で一喜は腕を組んで望愛に疑問の声をあげる。
望愛は心底から申し訳ない顔で頷き、そして身内が完全に味方ではない事実に謝罪した。
彼女にとって兄とは血縁者であり、家族だった。
甘えられる相手であって、例え怪物だらけの中でも二人は揃って仲良く過ごすことが出来るのではないかと仄かに願ってもいたのだ。
彼に対してなら、彼女は秘めていたことを話すことも出来る。両親よりも遥かに信頼していた彼女はしかし、兄の選択に失望を覚えずにはいられなかった。
綱吉は確かに望愛を助けようとしている。話した内容についての真偽を見定め、真であろうと頭を柔らかくしてくれた。
それが故に今回の約束は成ったのであり、綱吉は救いの手を指し伸ばしているとも言える。
けれども、それは望愛の望みを叶えてくれる訳ではないのだ。
彼女が望むのは援助であって、危険から遠ざけてもらうことではない。これが我儘でしかないと言われようとも、彼女は一喜を助けてほしかった。
望愛は自身が犠牲になるのであればまだ良いと考えている。政略結婚をしろと言うのなら、会社の新たな発展の為に嫌悪を抑えてしただろう。
この件で両親も嫌でも望愛に意識を向けることになり、結婚相手との会社で互助的な関係を構築する。
望愛は道具となるものの、一喜が幸福になるのなら人生に致し方無しと諦めることも出来た。
「私の迂闊な行動が事態を悪化させたことは事実です。 あの人ならばと信じることが、そもそもの間違いでした」
「言っちゃ悪いが、当然と言えば当然だ。 身内に対する甘さについては此方も理解はある。 しかし、そもそも糸口・綱吉はあの会社で幹部に登り詰めることが出来た人間だ。 君に対して優しくすることはあっても他に対しては社会人として対応する。 損得勘定が先行するのは自然だ」
「そう、ですね。 その通りです。 あの家から出たのもそもそも上流階級の汚さを実感したからでした。 そこに兄さんも居たのなら似たような状態になっても不思議ではありません」
望愛は経済的に苦しい生活をしていた訳ではない。
お金はあったし、交友関係についても特に口出しされることはなかった。流石に家に招くことは許されなくとも、彼女が精神面以外で苦しみや痛みを覚えることはまったくと無かったのだ。
そのまま大人への道を進んでしまったものだから、彼女には想定の甘さがあった。
こうすればきっとこうなると、己の甘い想定で全てを進めるきらいがある。
今回はそれが悪い方向で動き、結果として一喜を逃げられない状況に追い込んでしまった。最早一喜は綱吉との関りを避けることが出来ず、呑まれるにせよ拒むにせよ対応しなければならない。
それが異世界であったのなら兎も角、現実ではただの一般人である彼では求める道を選ぶことは不可能だろう。
望愛は甘さを謝罪し、そして事態解決に向けて有効な手を一喜に先程語った。
それは彼女にとって最終手段にも近く、綱吉が知れば激昂するのは免れない。如何に妹に甘い彼であろうとも張り手の一つはあっても不思議ではない策だった。
「私はもう、あの家の誰をも信じることが出来ません。 どれだけ良い人であっても、社会の闇を知れば歪むと解りました。 心根が強い人間なんてこの世界では滅多に生まれることはないんです」
「その意見には肯定するが、だからって危険な真似をする必要は無い」
「責任は取らなきゃなりません。 社会人とはそういうものではないのですか?」
望愛も一喜も、この事態が引き起こされた原因を理解している。
全ての切っ掛けは望愛の甘い判断によるもので、故にこそ責任はどうしても彼女の側にあった。
彼女は責任を取らねばならない。一喜に対し、それが相応しいとされるだけの何かを差し出す必要がある。
一喜とて、彼女の言い分は正しいと理解していた。客観的に見れば彼女の間違いは事実で、良い悪いを別にすればそれが正しい行いである。
それを感情で否定するのは、一喜には間違いに思えてならなかった。加えて言えば、それが一番の解決策になることを彼もまた解っている。
「……引き返せなくなるぞ。 少なくとも、もう普通の生活は難しい」
「巻き込んだんです。 先輩の道を外してしまった以上、そうなることの覚悟はあります」
二人は顔を向かい合わせる。
真剣に、覚悟を込めて。二度と普通の生活は望めないことを脳裏に想像して、薄暗がりの中で死に絶えることも予測して望愛は一つ首を縦に振るった。
何があっても望愛は一喜を裏切らない。何があっても望愛は一喜を恨まない。
言葉すらない感情だけの誓いだが、一喜はそれを唯一無二の絶対証明だと認識するしかなかった。
不信を掲げる彼は、生き残る為に彼女の想いを汲む。
だけれども、そこに一喜側の信は無い。何があってもという部分に、彼は楔を打ち込む。
「俺は誰かを完全に信じるような真似はしない。 どんなに有能な人間でも裏切る時は一瞬だ。 少しでも変な真似をした時、そこに嘘の臭いが混ざっていたら――」
「殺してください」
彼女は一喜の脅迫とも取れる言葉を先に言った。
裏切るような女になるつもりはなくとも、状況次第では一喜にそれが嘘であると思われてしまうかもしれない。
そうなった時、彼女は一切の弁明を行わずに潔く死ぬ。出来れば彼の手によって殺されることが一番だが、別の誰かに殺されることでも彼女は受け入れる。
だって彼女は初めて見たのだ。誰かを助けることが出来る者を。
損得勘定を無視した自己犠牲の輝きを。
今の社会では形成されることはないであろう、人が持つべき古の暖かさを。
それを傍で見てみたいし、支えてみたい。
何もかもが真実になりえる極光を前に、望愛は自身が誘蛾灯に誘われる蛾のような気分を抱いた。
「迷わないでください。 何もかもに迷わず、自分のしたいことに専念してください。 ――私に出来ることは全部します」
「……ッ、はぁ。 イカレてるよ、お前さんは」
狂信的に過ぎる。
彼女が一喜を見る目は異常だ。まるで信心深い者が神に出会ったかのように、瞳には危険な明りが常に激しく灯っている。
期待などという生温いものではない。これは狂気であり、執着であり、愛だ。
人は心焦がれる何かに出会った時、正常ではいられなくなる。その深度はどれだけ対象にのめり込んだかで決まるが、望愛は普通の人よりも遥かに深い。
何せ彼女には土壌がある。闇を見据え続けたからこそ、強烈な光を見ては加減が利かなくなる。
望愛は子供が如く、一喜を見る。何年も前の幼き心持ちで、これからの未来がきっと輝いてくれると確信を抱いた。
大丈夫、大丈夫だとも。それが根拠の無い妄想の類であろうと、望愛は信じている。
「取り敢えず今日は一旦帰れ。 これからについては携帯で連絡し合おう。 何かメイド達に捕捉されない通話アプリとか知ってるか?」
「確か、三段階認証が絶対に必要なチャットアプリがあったと思います。 それでどうでしょう」
「よし、それでいこう」
二人は揃って携帯を取り出し、彼女が探して見つけ出してくれたモノを一喜も入れる。
そして互いの連絡先を交換した後に、アプリには他の人間を入れないことを取り決めた。絶対とはしなかったのは、互いに相談の余地を残しておくためだ。
「きっとあの男なら次の土日で事を終わらせようとする筈だ。 周辺にメイドを置くのは当然として、当日俺に付いて来る存在についても十分に警戒する必要がある」
「私は何時ぐらいに行動した方が良いですか?」
「やるなら――土曜日になる直後だ」




