【第八十四話】その男、怪物の洗礼を受ける
その日の朝の始まりは、玄関前で鳴り出したチャイムの音だった。
最近の一喜の朝は早くはない。休みの日であれば兎も角、平日には少しでも疲れを抜く為に昼頃まで寝ていることがある。
彼が遅くまで寝るようになったのは主に糸口関係であるが、安らげる瞬間は意識を手放している間だけだ。
微睡みの時間は現実逃避じみていて、暫くもすれば唐突に現実に引き戻される。
この状況が悪夢であればと願いはしても、残念ながら現実だ。
未だ重い瞼を擦りつつ、チャイムの音に対してあまり意識せずに玄関の扉を開けた。――そして、目前に立つ少女に強制的に意識を覚醒させられた。
「先輩、おはようございます」
酷く朗らかな表情のまま、望愛は一喜の目の前に居た。
まるで先日の夜の出来事などなかったかの如く、彼女は至極当然といった風体で一喜に朝の挨拶をしていたのである。
そんな姿に限界まで目を見開き、何を最初に言うべきかが解らなかった。
彼女は彼女で寝癖が付いてますよと穏やかに指摘をし、一喜の背後にある室内に目を向ける。
そこに何時もの品々があるのが見え、望愛はああやっぱりと内心で安堵した。
「お、お前。 どうして来たんだよ」
「来たかったので来ました」
「来たかったのでって……。 こっちは接触を避けるように言われているんだが?」
「知りませんよ、そんなこと。私は家出した不良娘ですから」
「不良娘って面じゃないだろ」
金髪の圧倒的美少女面はあまりにも不良には似つかわしくない。
寧ろハリウッドの役者と言った方が余程似合っている。彼女は拗ねたような顔を一瞬見せ、直ぐにがらりとにこやかな顔に戻して話がありますと告げた。
「昨夜兄さんと電話をしまして。 その事についてお伝えしたいことがあるんです」
「ッ、仕方ない。 中に入ってくれ」
綱吉に関連する情報ならば一喜に拒む意思は無い。
致し方無しに望愛を中へと招き、敷いていた煎餅布団を畳んで端に寄せた。彼女は床に敷く布団に何処か興味がありそうな視線を向けていたが、一喜としてはあまり気にしてほしい部分ではない。
咳払いで意識を戻してもらい、彼女を机の椅子に座らせて自身はそのまま立ったままの状態にした。
沢田に連絡をするような真似はしない。連絡をしないことで面倒な追求は受けるであろうが、こうなった原因は望愛だ。確認を取ってもらって本人がそうだと言えば、流石に沢田も何も言えなくなる。
今回も飲み物はペットボトルだ。来客がこんなにも多くなるのであれば、そろそろコンビニの物でも良いから茶葉を購入すべきかもしれないと一喜は思考を走らせる。
まだ脳味噌は完全に回転を始めていない。覚醒自体はしたものの、どちらかといえば驚きの部分が未だ強かった。
望愛は何時も見る緑茶のペットボトルに嫌な顔一つせずに飲み、視線を彷徨わせて冷蔵庫の傍に積み上げられている缶詰に視線を固定させる。
「今日の朝御飯も缶詰ですか?」
「……今はそんなことはどうでもいい。 それよりもさっさと話してくれ、んでとっとと家に戻れ。 俺は今日も仕事だ」
「あはは、どうしても向こうに繋がりそうな品を見ると思い出してしまいまして。 ――では、本題を」
視線が再度一喜に向けられる。
朗らかな表情は引き締まり、真剣な顔のまま彼女は背筋を伸ばす。
「兄さんとの電話でおおよその部分については聞き及んでおります。 此方の要望を無視された約束事に怒りはありますが、予想通りと言えば予想通りです」
「なら、理解はしているな?」
「……先輩の思うことは正しいでしょう。 危険な目に私を、そして兄さんを遭わせないようにするのは間違ってはいないと思います。 まぁ、先輩は単に私達を信用していないから関与させたくないだけでしょうけど」
当然だと一喜は首肯した。
表面上は綱吉に対して一喜は望愛を利用したが、そもそもにして彼は彼女達をまったくと信じていない。信じられるだけの理由も無く、向こうも望愛の頼みを聞くのはあまり積極的ではなかった。
前提として嘘だと確信している状態からのスタートだったのだ。そこから証拠を提示するまでに至ったのは、正しく一喜が偶然撮っておいた動画があったればこそ。
望愛は夜の公園での出来事によって一喜の本質を理解しているが、初見の綱吉にその性質を見抜くのは流石に難しかった。
ともあれ、彼女は自身の目的が達成されなかった事実についてあまり深く落ち込むようなことはなかったのだ。
多少怒りはしても、望愛の冷静な部分ではもう一押しが必要だと判断している。如何に自身に甘い兄であっても、会社の幹部となった以上は利益追求の側面も同時に出現するのは当然だ。
そうなると思っていたからこそ、兄が語った内容に望愛は待ったをかけたくなった。
これでは不味い。もしも一喜が知らなければ、完全に綱吉の一人勝ちになってしまう。
「――ですが、先輩はそこだけを見過ぎです。 もっと他に目を向けてください」
「……どういうことだ」
彼女の言葉は、一喜に抜けている部分があるぞと言っているようなものだ。
記憶を遡ってあの時の会話を思い出す。彼女の語る抜けている部分を特に意識して会話を脳裏で繰り返し、雑談から約束までは普通に終わっていた筈だと一人頷く。
不自然な部分が果たしてあっただろうか。
疑問顔を続ける一喜に、望愛は眦を吊り上げる。
「証拠を見て、私を止めることはするでしょう。 ですが、その約束の何処にも兄さんが手を出さないという部分が無いんです」
「……ッ、成程な」
指摘されれば、成程その通りだと驚愕が胸を支配した。
綱吉は確かに異世界が真実であると納得すれば、望愛をこれ以上干渉させないとは語ってくれていた。しかし、自身もまた明確に撤退するとは宣言していない。
約束はあくまでも妹の望愛に関する部分だけ。それ以上については、綱吉が独自に決めることは可能だ。
明確な約束が存在しない以上、社会的な権力によって正面から一喜を打倒することは容易。
このアパートを追い出し、代わりに信用出来る誰かを住まわせれば自由に世界を行き来することも出来る。
つまり昨日の時点で考えていた低確率が確定となった。
これは大問題であり、縛ることが出来なければ社会的弱者の一喜は負ける。
「今から連絡をしたところで繋がりはしないだろうな。 忙しいって部分はその通りだろうし」
「仮に出たとしてもはぐらかされるのは明らかです。 そもそも、あの約束自体が口約束以上の力を発揮しません」
「法的な効力が無い以上、あいつは知らぬ存ぜぬで好き放題が出来る。 ――身内には随分甘い奴に見えたんだがな」
「そうです。 確かに兄さんは私には甘くなりますが、これは一石二鳥を狙った結果ですよ。 真実なら物理的に私を家に戻す理由を手にすることが出来ますし、同時に社長の座を手に出来るだけの切っ掛けにもなります」
プライベートとしての綱吉はブラフ。
あの場は実際のところ、彼にとって狩であり好機だったのだ。ただの一般人を狩る為の、そして最愛を籠に戻す為の。
怪物は怪物であったということだ。社会の荒波を渡る以上、まともな思考を期待してはいけない。
如何なる思考にも冷たい分析が挟まり、最大の効率で望むものを手に入れる。
手並としては鮮やかだが、やっていることは一喜が以前に勤めていた会社の上司とそう変わりはない。
最低であり、最悪だ。そうしなければ生きていけなかったとしても、それをただの一個人に仕掛けるのは間違っている。
「私が来た目的は兄さんの企みを話すこと――そして、兄さんの思惑を潰すことにあります」
一喜の頭が真紅に染まりそうになる中、望愛は真剣な口調で自身のもう一つの目的を告げる。
それこそが一喜を、自分自身を生かす方法であると彼女は確信していた。




