【第八十話】その男、社会の怪物と戦う
電話で事前に予定を尋ねておいて何を言うかと一喜は思うが、実際に自身を綱吉と呼ぶ人間は時間が無いのだろう。
一喜としても話は短い方が良い。なるべく最短で、コンパクトに話を終わりに着地させることが出来れば万々歳だ。
故に、彼は駆け引きの無い単刀直入を選んだ。綱吉はその言葉に目を細め、刺身の一切れを箸で摘まんで醤油に浸す。
鮪の赤味と思われる一切れは随分な輝きを放っていた。鮮度はきっと抜群で、この機会を逃せばきっと極上の味は体験出来ないだろう。
「私の妹からつい先日連絡が入ってね。 最初に電話が来た時は驚いたもんだ」
赤味を口に運び、味の良さに素直に頬を緩める。
「あの子はもう帰って来ないと思っていた。 家の方針があの子を絶望に落とし、結局私の手では守り切ることは叶わなかったからね。 最初に家出をしたと聞かされた時はそりゃもう慌てたもんだ」
赤味を飲み込み、糸口・綱吉は語る。
彼は妹の環境を良しとは考えていなかった。最低限の教育を除いて何もさせず、ただ会社通りの繋がりの為の道具にされる状態を。
父親と母親は綱吉のことを優先していた。次期後継と期待し続け、妹にも与えられる筈だった資金を湯水の如く使用して最上級の環境を作り上げた。
結果的に綱吉は有名校を主席で卒業し、数多くの同年代の繋がりを作って親の会社の就職。
最初から幹部待遇だと両親には言われていたが、これも社会経験であると一社員から敢えて始めて大きな仕事を幾つも成功させた。
その中で権力闘争が無かった訳ではない。単純なハニトラや仕事の妨害、更には他社が企てた誘拐騒ぎ。
荒波は希望を奪い、逆に綱吉自身に闇を与えた。
呑み込まれれば地獄に落ちてしまいそうな世界は、しかし彼にとっては何てことはない。
既に身内からして屑であると彼は理解していたのだ。偶にしか会えない妹は兄である自身よりも知識が不足し、幾分か所作に拙さがあった。
勉学や運動もそう、他者との構え方についてもそう。全てが不足し――――けれどそれを凌駕する心根の清らかさがあった。
社会の闇では終ぞ見る機会の無かった穢れ無き輝き。それが綱吉自身の癒しとなったのは言うまでもない。
妹は何処か綱吉に対して遠慮気味ではあったが、それを全て無視して綱吉は妹に愛情を注ぎ続けた。
「あの子は……家出をして良かったんだと今なら思う。 屑の両親に利用されるよりも、家出という恥の事実を作り上げて放逐される方が幸せに暮らすことが出来る。 出来れば全部にサポートを入れたかったが、それをしたら結局監視されているとあの子も警戒して安心出来なかったろうから、コンビニで働くことが出来ているのは素直に安堵したよ」
「――あの」
彼は一人語りを続ける。本題に入れと一喜は言ったのに、まるで選択権はお前には無いと言わんばかりに綱吉は自分のしたいことをした。
あまりにも失礼な振舞いだ。思わず一喜は口を挟むも、綱吉は片手を彼に向けた。
「今はまだあの子の友人の家で一緒に生活をしているみたいだけど、何れは一人暮らしも始めるだろう。 これからの生活を私が直接知ることが出来ないのは悔しいが、無事で過ごせたのなら何も文句は無かった――ところがだ」
緩やかな弧が真一文字に変わる。
真顔となった彼は、そこで初めて一喜に鋭い眼差しを送った。
「連絡が来て、あの子は私に頼んだ。 助けたい人が居ると。 そして随分と荒唐無稽な話をしてくれたんだ」
気付けば、沢田やメイド達は姿を消していた。扉は完全に締め切られ、部屋に残るのは二人だけ。
二人だけであるから、プライベートであるから、綱吉は仕事の顔を消した。
今此処に居るのは仕事人としての彼ではない。糸口・望愛の兄としての彼だ。家族として愛情を注いでいる者だ。
「嘘だと断じることは出来た。 きっと苦しい生活をし続けて精神病を患ったのだと、随分と心配をした。 けどね、私は妹の嘘に一度も付き合ったことはなかったんだ」
優しい兄として綱吉は望愛に接した。
嘘は無く、ただ真心だけを向けて。彼女もまた嘘を吐くような真似はせず、兄と向き合う時は素直な心情を吐露していた。そこには両親に対する怒りも含まれていて、彼女が綱吉よりも辛い日々を送っていたのを彼は覚えている。
遊びも無かった。共に食事をしたのも人生で片手で数えられるものだった。
なまじっか富裕層の中でも上位であったが為に、望愛に同じ立場の友人が出来ることも無かった。
今の彼女の友達は一般層の人間だ。特待生として入ったその友人と望愛は友愛を築き、家出の後の住居として使うことを許された。
綱吉もまた二度と会えないと思っていたからこそ、数少ない友人と一緒に居ることを知りはしても手を出してはいない。
関りは薄くなり、綱吉はそこで普通の子供らしい生活をしてこなかった事実に気落ちを覚えずにはいられなかったのである。
自分が親だったのであれば、少なくとも子供を愛して一緒に遊びに行くことはしただろう。
真っ当な人間とは、真っ当な環境で育たねば生まれない。
綱吉と望愛の環境は生活という意味では恵まれていたが、精神の健全性という面ではあまりに劣悪の一言だった。
出来ることならば兄妹で遊びに出てみたい。
水族館で、動物園で、遊園地で、あるいは単にゲームセンターで。
当たり前のような付き合いをしてみたいと考えて、そんな時に彼女自身から荒唐無稽な嘘を聞かされて乗ることを決めた。
けれど綱吉には時間が無い。仕事は何時も何処からともなく湧き出て、中にはトラブルへの対処も含まれている。
故に今回のように強引な方法に出て、彼女が助けてほしいと願った人物と会うことにした。
「だから嘘に乗って、今こうして君と顔を合わせている。 ――さて、これで状況は理解したね?」
「ええ、はい」
一喜は不足無く理解した。
つまり、やはり綱吉は妹の発言を嘘と断じている。加えて言えば、そんな嘘を吐く原因となった男に怒りを抱いているのだ。
彼女が自分の口で嘘を言ったのであれば、それを微笑ましいと感じて付き合った。
けれど、他人が原因となった嘘であれば弄ばれたと思うのも当然。
本人に理由があれば注意をする程度に留めるも、もしも単純に遊びであれば容赦をする気は綱吉には無い。
「で、どうして彼女に嘘を?」
「そうですね――――」
一喜は口を開こうとして、直ぐに口を閉ざさねばならなかった。
その目は何時もよりも僅かだが余計に開かれ、動揺が表情に走る。一呼吸であれど乱れが発生し、自身が今正に嘘を本当に変えねばならない立場になったことに気付いてしまった。
一喜としては嘘を嘘のままにしてきたかったのに、相手はどうにも彼が下らない嘘を吐いたのであれば害する気でいる。
それが妹の為になると本気で思っていて、望愛はその性質を解っていたからこそ夜の公園で必死になって止めはしなかった。
足掻かなくとも彼女は自身の望み通りになると確信していたのだ。あの場での嘆き自体は本物であるだろうが、それでも打算が他に無かった訳ではない。
嵌められた。そう思った時には、もう逃げられない位置に居る。
一喜は正に、本来しなくても良いことをしなければならない状況に落とされたのだ。
「……先ず大前提として申します。 これが嘘であるか本当であるかを論じては何も始まりませんので、本当であるとしてください」
「良いだろう」
「彼女の話した内容は嘘ではありません。 何処までを語ったのかまでは解りませんが、私が彼女に教えた部分までであれば嘘の部分は一つも含まれていないのです」
苦々しい気持ちに蓋をして、一喜は滑らかに言葉を放つ。
裏では逃げる言葉を組み立てつつ、なるべく穏便な形での終局を目指して。




