【第七十四話】その男、また一人になる
世界を行き来出来る。
その世界が此処よりも良かったのであれば、さて普通の人間は何を思うだろうか。
――答えは単純、移住を考える。
瑞葉が覚悟を込めて一喜に先の言葉を告げたのは、一重に彼の世界が此処よりも平和であると考えたからだ。
現状の世界は人が生きていくにはあまりにも厳しい。仮に生活出来たとしても、それが崩れるのは殆ど一瞬だ。尊厳の全てを奪われる日々に怯えながら暮らしていくのは、まだ若い彼女の精神を明らかに圧迫していた。
自分がリーダーではないから。自分よりも年下の子が居るから。まだ頼れる男が居たから。
彼女のメンタルが崩れなかったのは偶然であり、故に現状に悪化の兆しが見えれば極端に未来に対して悲観的になってしまう。
そんな中での別の世界。
荒唐無稽であるというのが現在の皆の結論だが、一喜の存在は確かに不可解だった。
汚れの無い肌と衣服。大量の物資。怪物を相手にして圧倒することが出来る武装。
加え、本人に弱さが無かった。それが虚勢であったとしても、化け物を前にして威勢の良い啖呵を切れる人間はそうはいない。
瑞葉から見て、一喜とは英雄だ。未だこの世界の大多数が認識していない、常識に反抗する怪物。
化け物を倒すには同種の存在をぶつけるのはよく聞く話であるが、正しく一喜もまた英雄と呼ばれる怪物だった。
諦めを捨てた目。恐怖の無い立ち姿。堂々と歩む様子は、さながら中世で人助けを行う騎士を彷彿とさせる。
現実味が無いのだ、彼は。
そして、だからこそと言うべきだろう。異なる世界の人間であると言われた時、彼女の本能的な部分が納得を示した。
こんな男は此処では生まれない。絶望を心から捨て去ることなど、この世界の誰にも出来ないことなのだから。
奮起する必要も無い程に、一喜は戦意を自然と表に出せる。
空想の中に登場する主人公。ならば彼が発する言葉が全て嘘だと断じることなど出来る筈も無い。
故に、可能性を見せてほしかった。更に言うのであれば、空想を現実にしてほしい。
「瑞葉。 お前の言葉に俺は応じない。 どんなことがあってもだ」
「それはなんで?」
一喜の拒絶に瑞葉は間髪入れずに言葉を返す。
彼が自身の世界を語らない理由は、勉学の成績が悪い自身でも容易に想像がつく。
希望のある世界を見て、誰しもそこに手を伸ばす。本当の居場所にはならないのに、まるで辿り着けると思わんばかりに理想郷に足を動かしてしまうのだ。
一喜の世界にもそこで生きる人間が居て、社会がある。世界の歯車は彼等の為に用意され、そこに部外者が入る隙間などありはしない。
求める行為そのものが許可されていないのだ。故に、一喜としては余計な争いに発展させないように注意を払っている。
今この瞬間も、絶対に行かせてはならないと思考を巡らせているのを彼女は正確に理解していた。
「今のお前達じゃ俺の世界に馴染めない。 奪って奪われが当たり前の世界で突如として普通の生活を強いれば、特に子供達の自制が効かない」
「暴力を振るうってこと?」
「この世界の大人も子供も、人の死に慣れ過ぎている。 俺達の世界ではそもそも人殺しを強く忌避しているから、どうしたって程度の低い暴力行為でも問題に発展する」
人殺し。
それは確かに、この世界でも嘗ては忌避の対象になっていたものだ。
今では怯えることはあっても、人を殺すことに対する心理的な障壁は恐ろしい程に低い。
やらねばならないのならばやる。思考があっさりと殺意にシフトするのなら、特に自制心の少ない子供では一喜の世界で誰かを殺してしまうかもしれない。
勿論、世良達でも危険が無いとは言えない。彼女達はまだ理性的な判断が出来るものの、追い詰められればどんな行動を取るか一喜にも予測出来ない。
「お前達に自覚は無いだろう。けれど俺から見て、 本当に邪魔だと思ってしまったら、言葉や法で黙らせるよりもお前達は実力で排除に動く」
「…………」
二人の会話を聞いていた世良は、一喜の言葉に違うとは言えなかった。
勿論、言葉や築いたルールで問題が解決するのであればそれで良い。世良達にとってもそれが一番楽な道だ。
されど、この世界では言葉や法は然程強くはない。自然と武器に頼ることになり、問題が長引くのであれば世良も武力行使を良しとシフトしてしまう。
一喜が問題視するのはその点だ。常識が歪んだからこそ、他の場所でも自身達の経験に沿った当たり前の結論を出してしまう。
そして、一喜の語りで彼の世界が極めて武力とは無縁に近い世界なのだと知ることになった。
この世界の普通の人間が望む幸福が、彼の語る世界に存在するかもしれないのだ。
彼が今更嘘を吐き続ける理由は無い。堂々と断じている様も嘘の可能性を落していき、胸に僅かな期待感を抱きそうになってしまう。
まだ実際に目にした訳でもないのに。彼の語る風景がどうにも魅力的過ぎて、信じてしまいたくなるのだ。
それは瑞葉が一番強く、故にどうしてもと願う気持ちは止められない。
幸福な世界に浸っていたい。明日もまた平和に過ごせるのだと思っていたい。
一喜の世界でなら当たり前の景色がこの世界には無く、けれどその世界があるかもしれないと思わせた。
気付いてはいけないことに気付いたのだ。薄い希望は、今の彼女達にはあまりにも眩し過ぎた。
「パイセンの世界を見るくらいは許してくれない?」
「却下だ。 本来なら知ること自体も駄目だったんだ。 此方側に足を踏み込ませる真似は何があっても阻止する。 ――これ以上の話は全て許さん」
ベルトを取り出し、一喜は瑞葉にそれを向ける。
これ以上の話をするのなら、メタルヴァンガードが登場することになるだろう。
それだけの拒絶。当然彼女達には抗う術は無く、瑞葉は唇を噛み締めながら首を縦に振るしかない。
無謀な試みは、双方の間に溝を作るだけになった。
一喜は他に何か言葉を送らず、無言で背を向けて歩き出す。その姿が消えていくまで全員が彼の姿を視界に収め、消えた後には重圧が残されるだけとなった。
「瑞葉……」
立道の言葉に瑞葉は応えない。
立道自身も何を言えば良いのか解らなかった。まさかこんな事態になるなんて思ってもみなかったし、知ったところで何か出来る訳でもない。
一喜が組織に属しているのは事実だろう。だが、彼が此処に居るのは当人にとっても想定外だった。
偶然によって世界が繋がり、それが立道達を救っている。感謝することはあってもそれ以上を望むのは流石に傲慢だ。
瑞葉の要求は何の代価も払わない一方的なものである。一喜に迷惑が掛かるだけで、世良達に何か被害が起きる可能性は低い。
本当にそんな世界があったとしても、行かないのが理性的な判断だ。
大人組は頭でそれを理解している。理解しているが、長年の絶望の所為で思考が暴走を望んでしまっていた。
黙る瑞葉を見つめ、世良は長く溜息を吐いてから手を叩いた。
皆の注目を集めて咳払いを一つ。全体的なリーダーである世良にはこの後の予定についてを大雑把でも決めておかねばならない。
「今日のことは予想外なことばかりだったが、しかし一喜が完全に離脱した訳じゃない。 それまでは昼の段階で話していた通りに予定を進めよう」
「――世良パイセン」
「瑞葉、抑えろ。 私達はまだあいつに対して何の確証も持っちゃいない」
瑞葉の睨むような目に世良は冷静に返す。
言いたいことは解っている。物資を提供をしてくれたのに、どうして信じようとしないのかと言いたいのだろう。
それが多分に彼女の望みを含んでいたとしても、助けてくれた人のことを信じたいと思うのは世良とて一緒だ。
しかしそれでも、世良は皆のリーダーである。厳しい世界で味方を作っていくには、確かな証拠が必要となるのだ。
「もしもあいつの言っていることが全て真実だったなら、私は何回でも頭を下げるよ。 その後奴隷みたいな扱いをされたって、私は文句を言わない」
今、瑞葉は世良に不信を抱いている。
それを少しでも和らげる為に世良は自身に枷を付けた。――それが子供達の文句を抑えることにも繋がると信じて。




