【第百七十五話】その男、甘い物を用意する
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「――――」
「――――」
雑多な足音が街中を支配する。
走る者は居ない。居たとしても空間全体に人が居ることで無闇に走れない。
誰かが急げば大事故に発展する。その結果として自身は身動きが取れなくなり、最悪は棒や拳で袋叩きに合うだろう。
彼等が向かう先は二人の男の背中。その手に持つカレールーと御飯。
袋に入った食料は黄金の輝きを放っているように群衆には見え、誰も彼もが腹の音を周囲に響かせる。
涎は口内から溢れ、地面に垂れ落ちた。脳は一つのことしか考えられず、どう見ても群衆全員の腹を満たせる筈もないことに気付けない。
いや、彼等にとって周りなどどうでもいい。自分が大丈夫であったならば、それ以外のあらゆる要素が考えの外である。
この飢餓を満たせれば、この欲を満たせれば、後はどうなっても構わない。
その一心。本能に支配された足は次々に前へと繰り出していき、やがて違和感が強く残るビルの密集地帯に到達した。
男二人はビルとビルの間で足を止め、群衆へと振り返る。
顔には笑み。口角を吊り上げたその形は、上手くいった事実をただ表している。
二人の顔を見て一部の者は気付いた。
辺りの地形が不自然な形になっていることを。どうしてか奇妙なまでに建物が綺麗になっていることを。
怪物は最近現れていない。戦闘は幾らか起きてはいたものの、それ以降怪物達が跋扈することはなかった。
理由など、今の群衆達には解り切っている。実際にその目で見たのだから。
生物的な風貌の怪物とは異なる、未来的な金属アーマーを身に纏った戦士。怪物が如き力を発揮するこれまでとは違う脅威は人々の不安を煽り、なるべく関わり合いにならないようにしていた。
しかし、一部の者達が動き出していることも群衆は知っている。
未だ様子を見ているだけであれど、彼等は戦士の居る拠点に救いを求め――――同時に襲撃も計画していた。
馬鹿な話だ。仮に戦士の居ない拠点を襲撃したとて、そもそも件の存在が不在時の懸念をそのままにしておく筈が無い。
帰還した者達は揃って子供や若い奴しかいなかったと意気揚々としていたが、それが餌に過ぎないとどうして解らないのか。
もしも本当に襲撃や、或いは懇願に赴いたのであれば彼等はただの肉片としてその場に転がる結末に終わっていただろう。
それを群衆達が助ける気は無いし、寧ろ死んで有難いと思うくらいだ。
そんな戦士が居るだろう拠点に、今自分達は居る。
それが意味するところはつまり、あの食料がそもそもの餌だったのだ。いや、年若い男二人も餌としての機能を有していたと見るべきである。
脳裏に過った逃走の二字。眼前の食欲を凌駕する程の背に走った怖気は、この瞬間に少数の者達の目を覚まさせた――――しかし、それは遅過ぎる反応だ。
集まった群衆の背後で爆発が轟いた。
全身を叩く衝撃と轟音にカレーに狂っていた者達も悲鳴をあげ、揃って背後へと振り返る。
爆発の発生地点は彼等の通った道だった。
近くの建物ごと纏めて吹き飛ばす爆発の威力は大きく、崩れた建物が道を遮る。
『集まったな』
拡声された言葉が背後から響く。
再度拠点に顔を動かした彼等は、ビルの前に突然現れた巨躯に総身を硬直させた。
鈍く発光する装甲。赤いV字のバイザー。肩に乗せられた砲の一つは煙を上げ、あれが道を遮る一撃になったのだと誰しもに認識させた。
鋼の戦士。キャンプに居る誰もが畏れる、怪物と同一の存在。それが直ぐ近くに現れ、悲鳴が響いた。
その声は小さいものの数が揃えば相応に五月蠅い。特に女性の甲高い悲鳴にメタルヴァンガード内の一喜は眉を寄せ、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた彼等の道を更に遮る為に砲を道の左右に放つ。
崩壊した建物が道を封鎖し、あらゆる足を停止させる。
逃げることを許さぬ砲撃は一種の狩りめいていて、彼等の顔からは絶望の色が濃く表れた。
逃げることが出来ないのなら必然的に彼等はメタルヴァンガードと向き合うしかない。どんなに怖くても、生き延びことが出来ないにせよ、強制的に人々はメタルヴァンガードと対話するしかなくなったのだ。
『会って早々失礼な奴等だな。 ……まぁいい』
戦士の鎧越しに溜息が聞こえた。
何だか人間臭い疲れた雰囲気を垂れ流す存在はバイザー越しに全員を見渡し、さっさと話を終えようと口を開ける。
『此処は俺の拠点だ。 俺が認めた人間以外が入ることも、何かを貰うことも許す気はない。 にも関わらず、この拠点に襲撃を仕掛けて強奪に乗り出そうとする人間が居ると知った。 その面子をお前達は知っているな?』
圧を込められた質問は半ば脅しと一緒だ。
キャンプの人間は首を縦に振るしかない。実際にそういった人間が居ることを彼等は知っているし、なんならこの場にも偵察に出ていた人間が居たのだから。
もしもここでその人物達全員を差し出せと言われれば、彼等は必死になって偵察に動いた人間達を差し出すだろう。
生きる上で誰かを蹴落とすことは彼等にとって当然だ。より直接的な行為であっても今更躊躇を覚える者はこの中にはいない。
『ああ、別に今お前達の中から犯人を出せと言う気はない。 例え此処で潰したところで第二第三の人間が出てくるからな。 同じことを何度も繰り返したところで時間の無駄だ』
ざわめく人々に対して一喜はきっぱりと言い切った。
最初から何も期待していないと告げる態度は露骨であり、それが彼等にとっての上位者を連想させる。
支配する側からすれば、される側の心情など手に取るように解るものだ。
自分が、自分が、自分が、自分だけが生き残れればそれ以外はどうでもいい。
どれほどに美しい関係を築いたとしても、上位者と下位者の間に不思議な繋がりを作り上げたとしても、極限状態に陥れば己を優先させる。
それが間違ったことであると一喜は断じる気はないが、しかし失望を覚えてしまうのは避けられない。
勝手な話ではある。されど、どうしても彼はそうであってほしくなかった。
真の友情はあると、命を賭けれる愛はあると、信じたかった。
現実が無情であると知っていながら、非現実的なモノを人に対して期待したかった。
結局それは全て崩されることになったが、だからこそ今この世界で新たに築き上げることが出来る。
愛があって、友情があって、闇があっても晴らせる光の世界を。
『それよりもだ、俺は今この場で建設的な話をしたい』
メタルヴァンガードが足を崩してその場で座る。
砲塔は軒並み上を向き、殺意も戦意も彼から発されることはない。
そして徐に一喜は自身の背後に手を伸ばして一つのビニール袋を取り出した。何時も目にするコンビニのロゴが入ったそれには、一人で消費するには多過ぎる程のパンが入っている。
どれも賞味期限は今日限り。早めに消費しなければ時間切れを迎えることは間違いなく、しかし彼は多少腐ろうとも構うものかと一つだけ袋から取り出した。
『此処に一つのパンがある。 腐ってはいないが、今消費しないと腐るだけのパンだ。 ……欲しいか?』
一喜の問いに全員が反射的に頷いた。
透明な袋に入ったパンに黴は見当たらない。この世界の住人も見慣れたコッペパンの袋には賞味期限も載せられ、それは間違いなく今日を示している。
勿論、これが嘘である可能性は高い。けれどもそんなことは彼等にとってどうでもいい。
例え毒であっても腹を満たせるならば文句は無いのだ。だってそこに、食える物があるのだから。
『欲しいなら今から列になって並べ。 全員分ある訳じゃないが、貰えなかった奴には別の食い物を用意してある』
――その言葉は、悪魔の囁きよりも甘美に彼等の胸に届いた。




