26 きれいさっぱり
「どうして……? どうしてそんなことを言うの? ようやく私のところへ戻ってきてくれたのに……」
その悲痛な表情を見ていると心が痛む。
でも、そんなこと言ってる場合じゃないですよね。
「私はこの国の王太子妃として、王子と共に歩むことを決めました。それに……ここには大切な人がたくさんいるんです。だから、あなたのところへは行けません」
王子と結婚して、ここで暮らすようになって、様々なことがあった。
今はお城のみんなのことが大好きで、だからここから離れたくない。
何よりも、王子と約束しましたからね。
ずっと、あなたのお傍にいます……と。
「そう、そうなの……」
私の言葉を聞いて、ブライアローズ様は気落ちしたように俯く。
うぅ、少し心が痛むけど……だからといって私は彼女の愛娘にはなれませんからね。
なんとか、諦めてもらわなければ。
ブライアローズ様がゆっくりと顔を上げる。
声をかけようとして……その顔を見た途端、私は戦慄した。
先ほどまで悲し気な表情をしていたブライアローズ様が、今は何故か満面の笑みを浮かべているのだ。
「あなたの気持ちはよくわかったわ、アデリーナ。だったら――」
固まる私の目の前で、彼女はひどく残酷な言葉を告げた。
「あなたの心残りを、きれいさっぱりなくしてあげるわ!」
そう言うと、彼女はひらりと見惚れそうになるくらい美しい動きで腕を上げた。
彼女が何をしようとしているのかはわからない。
だが、それが私にとって望まない行動であることだけはわかる……!
「やめっ……!」
私はブライアローズ様を止めようと必死に手を伸ばした。
だが、遅かった。
「小さき命よ、お眠りなさい」
妖精女王の指先から、まるで花粉のように魔力が溢れ出す。
思わず身震いしてしまうような、強大な魔力だ。
溢れた魔力が再び凝縮し、矢のように飛んでいく。
「やめてっ!」
必死に叫んでも、遅かった。
女王の放った魔力は、私たちの背後に控えてこの場を見守っているコンラートさんへと命中したのだから。
コンラートさんは声もあげずに倒れ込む。
「おいバカ! こんな重要な時に寝てんじゃねーぞ!!」
ゴードン卿がぺちぺちと頬を叩いているけど、コンラートさんが目覚める様子はない。
「……俺の臣下に何をした」
怒りを抑えられないと言った声色で、王子がそう凄む。
だがブライアローズ様は堪えた様子もなく、余裕の笑みを浮かべている。
「あらあら、そんなに怖い顔をして……。ただ眠ってもらっただけよ。まぁ、軽く十年は起きないでしょうけど」
「え……」
女王の発した言葉に、頭が真っ白になる。
眠ってもらっただけ? 十年は起きない?
なんですかそれは。そんなこと、許されるはずが……!
「だって、ここの人間たちがいるからユーリディスは私の下へ来られないのでしょう? だったら、皆長い眠りについてもらえばいいじゃない! そうすればいずれまた会えるわ!」
妖精女王が軽く手を振ると、今度は彼女の放った魔力が背後から斬りかかろうとしていたゴードン卿に命中した。
コンラートさんと同じように、ゴードン卿もその場に倒れ込んでしまう。
「どうしたの、ユーリディス。顔が真っ青よ? ……この人たち、存在ごと消してしまった方がよかったかしら?」
「や、やめてください……」
私は必死に、震える声でそう懇願した。
……これが、妖精王。人間とは異なる時間の流れを生き、人間とは異なる価値観を持つ生き物。
私は、そのことを忘れていたのかもしれない。
「あなたの隣の男……あなたの夫だったかしら。彼の存在が心残りだというのなら、同じように長い眠りに――」
「やめて!」
私は両手を広げて、王子を庇うように立ち塞がった。
彼はこの国の未来、この国の希望そのもの。
ただ王子として生まれただけじゃない。この国をより良い未来へと導くために、彼がどれだけ苦労をしているのか私はよく知っている。
そんな彼を、百年の眠りになんてつかせるわけにはいかない……!
「もうやめてください、ブライアローズ様!」
「あなたが一緒に来てくれるなら、すぐにやめるわ。そこで寝ている二人の呪いも解いてあげる」
そんな妖精女王の言葉に、心が揺らぎそうになってしまう。
私が彼女の下へ行けば、他の皆は助かる。でも……私はここにいたい。
いったい、どうすれば――。
「アデリーナ。妖精女王の言葉を聞く必要はない」
迷える私の心を救ってくれたのは、王子の力強い声だった。
「春の妖精女王――ブライアローズ。あなたの行為は、長年培われて来た人間と妖精の信頼関係を、世界の秩序を損ねかねない重大な背信行為だということを自覚しているのか」
「……よくも、そんなことを言えるわね。私からユーリディスを奪った人間が!」
「あなたの娘は、自らの意思で人の世界で生きることを選んだんだろう。不幸な出来事があったのは同情するが、妖精たちを束ねる長であるあなたが暴走してどうする。これ以上人間へ攻撃を加えたのなら、俺たちは妖精を敵とみなす。そうなれば、守るべき同胞を今以上に危機に晒すことになるのがわかっているのか!?」
王子の言葉に、ブライアローズ様は悔しそうに表情を歪めた。
……そうですよね。ブライアローズ様もアレクシス王子も、立場は違えど多くの民を率いる存在であるのは同じ。
だからこそ、王子の言葉はブライアローズ様の心を揺るがすのだ。
「あなたの行為は、すぐに他の妖精王の耳に入る。俺とアデリーナは夏の妖精王の配下を預かっており、冬の妖精王の配下を救ったという実績がある。間違いなく、彼らは動くだろう」
王子の言葉に同調するように、私の肩で震えていたロビンが大きく頷いた。
……不思議ですね。奇妙な巡り合わせで出会った方たちとの絆が、こんな形で力になるなんて。
それに何より、人脈や実績をアピールしながら圧をかけていく王子の手腕もさすがです……!
「……すぐに二人の呪いを解き、この場を去ってくれるのなら大事にはしない」
きちんと退路を残し、思考をそちらへ誘導するのも忘れない。
私もいろいろ勉強中だけど、まだまだ王子には敵いませんね……。
「……決断を、妖精女王」
間違いなく、今は王子が優位に立っている。
確かにブライアローズ様は他の妖精王に比べると圧倒的に話が通じないし、底知れない恐ろしさを感じる存在だ。
だが、彼女は亡くなった愛娘だけではなく……臣下の妖精たちのことも大切に思っているのだろう。
彼女にはまだその理性が残っている。
怒りが、悲しみが、憎しみが理性を凌駕する前に、なんとか説得することができれば……!
「私……わたくしは……」
ブライアローズ様が何かを言おうと口を開きかける。
その時だった。
「っ!?」
ひゅっと風を切る音がしたと同時に、何かがブライアローズ様の背中に突き刺さった。
彼女は信じられないとでもいうように目を見開き、その場に崩れ落ちる。
「ブライアローズ様!」
慌てて駆け寄る私の耳に聞こえてきたのは、信じられない声だった。