25 帰ってはきたけれど
なんとか追っ手に見つかることもなく、私たちは思ったよりもずっと早く《奇跡の国》へと帰り着くことができた。
妖精の郷を出てから追っ手の姿が見えないから大丈夫だとは思っていたけど、懐かしいお城の姿が見えた時は涙がでるほど安堵してしまった。
「王子! 妃殿下!!」
離宮にもほど近い、目立たない裏門から敷地内へと入ると……知らせを受けたコンラートさんが、慌てたように馬車へと駆けてくる。
「連絡がないから心配しましたよ! いったい何が――」
「悪いが説明は後だ。今はとにかく彼女を医務室に」
そう言って王子が指し示したのは、私の膝に頭を預けぐったりとしているディアーネさんだった。
……彼女は、私たちを無事に《奇跡の国》へ帰すために相当な無理をしたらしく、ここへたどり着くまで何度も休むように促しても「大丈夫だ」「問題ない」と頑なで、決して休息を取ろうとはしなかった。
でも、相当気を張っていたようで、お城の姿が見えた途端、糸が切れたように倒れてしまったのだ。
「王子殿下、私が運びます」
「済まない、ダンフォース。頼むぞ」
「お願いね、ダンフォース卿……!」
ダンフォース卿は丁重な手つきでディアーネさんを抱えあげる。
だが、その途端ディアーネさんが苦し気に目を開けたのだ。
「アデ、リーナ……」
「ディアーネさん! ディアーネさんのおかげで無事にお城につきました……! だから今はゆっくり休んでください……!」
手を握ってそう語りかけると、ディアーネさんは苦々しい表情で首を横に振った。
「いや、まだだ……」
「まだっていうのは……」
「まだ、油断はするな……。女王が、そう簡単に諦めるとは思えない……。決して、気を抜くことのないように――」
そこまで言うと、ディアーネさんは再び意識を失ってしまう。
私がダンフォース卿に目配せすると、彼はすぐにディアーネさんを抱えて走っていった。
ディアーネさん……。私たちのせいで、ずいぶんと無理をさせてしまいましたよね……。
どうか、早くよくなりますように……。
「……ずいぶんと慌ただしいですね。その様子だと、妖精王との交渉は――」
その場の物々しい空気に、コンラートさんは何かを悟ったかのように小声でそう口にする。
王子は苦虫を噛みつぶしたかのような顔で頷いた。
「残念だが決裂状態だ。春の妖精女王はとんでもない女狐で、他の妖精王のように話が通じる相手ではない。今はとにかく――」
「あらあら、そんなこと言われたら傷ついてしまうわ」
その時、背後から聞こえてきた声に私は背筋が凍るような思いを味わった。
だって、そんなはずがない。
妖精の郷を出てから……いいえ、妖精女王の城を脱出する時でさえ、追っ手の姿は見えなかったのに。
なのに、どうして……。
「ねぇ、あまり遠くへ行ってはいけないと約束したでしょう?」
むずがる子供を諭すような優しい声なのに、嫌な動機が収まらない。
振り向くのが恐ろしい。
でも、いつまでもこうしてはいられない。
震えながらも、私は声の方向へと振り返った。
果たしてそこにいたのは――。
「ほら、私と一緒に帰りましょう」
慈愛の笑みを浮かべる妖精女王。
今はその姿が、何よりも恐ろしくてたまらなかった。
……きっと、追っ手を差し向ける必要などなかったのだ。
そんなことをしなくても、私たちがどこにいるのかを彼女は把握していた。
最初から私たちは、彼女の手のひらの上で行動していたのかもしれない。
「ブライアローズ様……」
震える声でその名を呟くと、春の妖精女王――ブライアローズ様は少女のように嬉しそうな笑みを浮かべた。
「会いたかったわ、ユーリディス」
その優しい声色に、私に向けられた、私の物ではない名前に、全身にぞわりと鳥肌が立つ。
息をすることすらできないような、重苦しい緊張の中――。
「やめろ」
まるでブライアローズ様の視線を遮るように、私の視界を埋めるたくましい背中。
私を背に庇うように、王子はブライアローズ様に対峙した。
その途端、やっとまともに息ができるようになった気がした。
「妖精女王、アデリーナはあなたの娘ではない。これ以上アデリーナを別人の代替品のように扱うのは許さない」
「え、王子がそれ言うんですか」
「馬鹿、気持ちはわかるけど黙ってろ!」
コンラートさんとゴードン卿の漫才のようなやりとりは置いといて――王子の言葉に私の胸は暖かくなる。
……そうですよね。あなたが名前を呼んでくれる限り、私は「アデリーナ」でいられるのだから。
だが王子の牽制を受けても、妖精女王は優雅な笑みを崩さなかった。
「あなたには関係ないわ。その子はユーリディスよ。私にはわかるの」
「別人だ! あなたの娘はもう亡くなったのだろう!」
「きっと生まれ変わりなのよ。だって、その子の魔力は私の良く知るユーリディスそのもの。やっと、私の下へ帰って来てくれたのだわ」
駄目だ、何を言っても通じない。
……私も、王子の背中に隠れているだけじゃダメですよね。
はっきり、ブライアローズ様に伝えないと……!
意を決して足を踏み出し、王子の横へ立つ。
そのまま、真っすぐにブライアローズ様を見つめて私は語りかけた。
「……ブライアローズ様」
私の姿を見て、ブライアローズ様はにっこりと嬉しそうな笑みを浮かべている。
「会いたかったわ、ユーリディス。さぁ、私と一緒に――」
「私は、あなたのユーリディスにはなれません」
はっきりと、そう告げる。
そうですよね。だって、私は私ですから。
この国の王太子妃で、アレクシス王子の妃であるアデリーナ。
私は、そうやって生きていくと決めたから。
私の言葉を聞いて、ブライアローズ様は初めて悲しそうに表情を歪める。