19 王子様、過去の所業を後悔する
窓から入る爽やかな風がカーテンを揺らす。
山間の湖畔に位置するこの離宮は、避暑用に建てられたということもあって、王都に比べると随分と夏の暑さも控えめだ。
そんな絶好の場所で俺は……今も仕事に熱中していた。
「いやおかしいでしょ! 何で避暑地に来てまで仕事してるんですか!? バカンスに来たんじゃないんですか!!?」
「黙れゴードン、気が散る」
「やだー! ダンフォースは妃殿下と散策に行くって自慢しやがったのに! 俺は書類仕事の手伝いなんてやだー!!」
俺の専属騎士のゴードンは、まるで子供のようにやだやだと駄々をこねている。
それだけでも煩いのだが、「ダンフォースは妃殿下と散策に行く」という部分がどうにもイラっと来てしまう。
「そこまで言うなら、今からお前をダンフォースの従騎士に格下げしてやろうか……!」
「そんなことしたらますますあいつに見下されるじゃないですかー!」
「……おや、噂をすればダンフォースと妃殿下ですね」
駄々をこねるゴードンなどどこ吹く風で、黙々と仕事をこなしていた秘書官のコンラートが、ふと窓の外を見つめそう呟いた。
つられて視線を遣ると……確かに、ダンフォースとデルフィーナが並んで歩いていくのが目に入る。
その光景を見ていると、何故だか胸がざわついた。
ダンフォースは俺も信頼を置く、優秀な騎士だ。有事の際には、間違いなくデルフィーナを守ってくれるだろう。
そうわかっているのに……どうしても、今すぐ妃を俺の元に呼び戻したいような気分になってしまうのだ。
「……ダンフォースが、適任かもしれませんね」
じっと二人の様子を眺めていたコンラートが、ぽつりとそう呟く。
「適任とは?」
「妃殿下の次の嫁ぎ先ですよ」
「…………は?」
いったい、こいつは何を言っている?
「王子殿下、あなたはいずれアデリーナ妃と離婚なさるおつもりなのでしょう? 正式に離婚すれば、妃殿下も別の相手と再婚することが可能になります」
絶句する俺の前で、コンラートはつらつらとそれらしい言葉を並べていく。
「ダンフォースならあなたと妃殿下の事情も承知しておりますし、妃殿下を無下に扱うこともないでしょう。彼は侯爵家の嫡男であり、侯爵夫人と言う地位も約束されている。それに……ダンフォース自身も、満更ではないようですしね」
そう言って、コンラートは意味深な視線を窓の外に投げかけた。
その先を歩いていくデルフィーナとダンフォースは……確かに、似合いの二人だ。
ダンフォースが何かおかしなことを言ったのか、デルフィーナが口に手を当てて笑う。
……彼女は、俺の前でもあんな風に無邪気に笑ってくれたことがあっただろうか。
気が付けば、机上の書類が俺の手の中でぐしゃりと音を立てた。
その様子を見たコンラートが、ふっと笑う。
「……少し、休憩にしましょうか。ゴードン、手配を頼みます。あなたの好きなデザートを選んで構いませんから」
「ウィッス!」
デザートの選択権につられたのか、書類仕事に飽きただけなのか、ゴードンは鼻歌を歌いながら部屋の外へと出ていった。
バタンと扉が閉まるのを合図に、コンラートは大きくため息をついた。
「……いつまでも意地を張っていては、大事なものを見落としますよ、王子。青い鳥は、意外と身近なところにいるものなのですから」
……本当は、もうわかっている。
いつしかエラを想う時間より、デルフィーナのことを考える時間の方が長くなっていたことを。
普段ならすらすら出てくるはずの社交辞令が、彼女の前では出てこない理由を。
ダンフォースや他の男が彼女に近づくと、なぜこんなに苛立ってしまうのかを。
きっと、とっくの昔に……俺は、分かっていたんだ。
幸運の青い鳥は、身近なところにいる。
だがそうだとしても、俺は――。
「籠の中に、閉じ込めたくはないんだ」
自然の中でのびのびと笑う彼女は、あの日のエラに引けを取らないほど魅力的だ。
俺が軽く命じれば、彼女を一生離宮の中に閉じ込めておくことも容易いだろう。
だが、あの笑顔を奪いたくはない。
だから、鳥籠に閉じ込めておくことはできない。
彼女が自らの意思で鳥籠を出ていこうというのなら、引き止めることはできないのだ。
コンラートは俺の答えに呆気に取られたような顔をしていたが……すぐに呆れたように笑う。
「だったら……振り向いてもらえるようにせいぜい努力することですね。はっきり言って第一印象は最悪だったでしょうから」
俺は何も言わずに目を逸らした。
――『……先に言っておくが、結婚したからといってお前を愛するつもりは無いぞ』
結婚式の夜に、彼女に向けて言い放った言葉が蘇る。
もしも時計の針を戻せるのなら、全力であの時の自分を殴ってやりたいくらいだ。
果たしてそんなことをほざいた男を、好きになる女がいるだろうか。……いや、いない。
どうせ望みがないのなら、この想いは口にしない方が彼女の為ではないだろうか。
思い悩む俺に、コンラートは普段よりも幾分か優し目に声を掛けてきた。
「滞在最終日の夜は珍しく雲もなく星が綺麗に見える夜だそうですよ。どう転ぶにせよ、せっかくここに来たのだから妃殿下に御見せしたらどうでしょう」
……デルフィーナなら、きっと喜んでくれるだろう。
その時は、あのダンフォースに見せたような笑顔を俺にも見せてくれるだろうか。
彼女の笑顔を頭の中に思い描くと、少しだけ気分が晴れたような気がした。