26 春呼び(3)
胸に手を当て、一心に祈る。
「芽吹きの季節を、迎えましょう」
この凍える大地に、暖かな息吹を。
溢れんばかりの魔力を解き放つ。すぐに、辺り一帯を春の息吹が駆け抜けていく。
雲を割るようにして空は晴れ渡り、あっという間に雪は解け、その下から息づく緑が顔を出す。
私とソレルの間を隔てていた氷柱も、日の光に照らされ溶けていき、大地へと流れていく。
私は一歩一歩、ゆっくりとソレルの元へと足を進めた。
「ソレル……」
ソレルはまるで、世界に一人置き去りにされた幼子のようにうずくまって泣いていた。
そっと屈みこみ、その小さな体を強く抱きしめる。
触れたところから、彼女の悲しみの感情が……つらい思い出が流れ込んでくる。
――「消えてしまえ、魔女め!」
――「魔女が紛れ込んでいたなんて……気持ち悪い」
――「もうあんたなんて友達じゃないから! 二度と近寄らないで!」
……そうだよね、辛かったよね。一人ぼっちは寂しいよね。
私だって、少し運命が変わっていたらこうなっていたかもしれない。
だから、彼女を助けたい。助けなきゃいけないんだ。
「ごめんね、ソレル。私……もっとちゃんとあなたに向き合うべきだった」
ゆっくりと、何度も何度もソレルに語り掛ける。
「私には私の役目があるから、ずっとここにはいられないけど……あなたを見捨てたりはしない。どうすればいいのか、ソレルはどうしたいのか、一緒に考えて探していこう?」
ソレルの嗚咽が、だんだんと小さくなっていく。
それと同時に、荒れ狂っていた魔力も収まっていくのを感じた。
恐る恐るといった様子で、ソレルが顔を上げる。安心させるように、私は精一杯微笑んでみせた。
「アデリーナ……」
「うん、もう大丈夫ね」
ソレルの手を引いて、そっと立ち上がらせる。
空を仰ぎ見ると、久しく見ていなかった青空が広がっていた。
「アデリーナ!」
私の名を呼びながら、王子がこちらへ駆けてくる。
その途端ソレルは怯えたように私の後ろへ隠れたので、思わずくすりと笑ってしまった。
「……大丈夫よ。この人はとっても優しい人だから」
彼は魔女だとわかっても私を受け入れてくれた。
優しい優しい、私の王子様。
「アデリーナ、無事でよかった……」
王子が優しく抱きしめてくれる。私も彼の背に腕を回して、ぎゅっと抱き着いた。
またこうして彼と触れ合うことができる、それが、何よりも嬉しい。
「妃殿下、お怪我はありませんか!?」
「アデリーナさま、すごいじゃないですか!」
ダンフォース卿とロビン、それにスニクもやって来る。
「あの、アデリーナさま。今のは……?」
きょろきょろと周囲を見回しながら、スニクがそう問いかけてくる。
私もあらためて周囲を見て……驚いてしまった。
なにこれ! さっきまで一面の雪景色だったのに……。
今は、草の生い茂る原野が広がっているなんて!
「ど、どうなっちゃったの……!?」
「どうなっちゃったって、アデリーナさまがやったんですよ?」
「わ、私!?」
そんなまさか、私にそんな大それたことが……と、考えた時だった。
「え?」
一歩前へと踏み出そうとした足が、力が入らずにがくんと膝折れしてしまう。
それだけではなく、全身から力が抜けその場に崩れ落ちそうになってしまった。
「アデリーナ!」
なんとか倒れる前に王子が抱き留めてくれたけど、体が重くて立ち上がることもできない。
「王、子……」
「アデリーナ、しっかりしろ! 何があった!」
「わ、たしにも……なにがなんだか――」
なんだか頭がくらくらする。まるで体中から、私を構成する大事な何かがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだ。
「アデリーナ……! くそっ、いったい何が――」
「どうやら、魔力が枯渇しかけているようだな」
その時、聞きなれない声がその場の空気を切り裂いた。
「何者だ!?」
弾かれたように王子が背後を振り返る。
王子の腕の中から、私も必死に頭を起こして声の方向を見つめた。
そこにいたのは、見たこともないほど美しい人だった。
一点の汚れもない新雪のような純白の長い髪が、そよそよと風になびいている。真っすぐにこちらを見つめる蒼氷色の瞳は、心臓が止まってしまいそうなほど美しい。
顔立ちはまるで造り物のように整っていて、その中性的な美貌からは一見すると男性なのか女性なのかわからない。先ほどの声の低さから考えると、おそらく男性だろうけど……。
そんな、どこか人間離れした存在感を持つその人は、一歩一歩こちらへと歩いてくる。
私たちはその存在感に圧倒されて息をするのも忘れるほどだったけど、ただ一人、スニクだけは嬉しそうな声を上げた。
「ユールさま! 来てくださったんですね!」
よく見れば、その人の肩にはスニクの可愛らしい相棒の小鳥――ビェリィが留まっている。
ということは、スニクのお知り合い……?
彼が目の前までやって来ると、スニクが恭しく礼をして口を開いた。
「おほん! えっと……皆さん。この御方こそ雪と氷を司る冬の精霊王――ユールさまです!」
「我が眷属が世話になったようだな、人間よ」
彼は静かに王子に抱きかかえられたままの私の前にしゃがみこみ、そっとこちらへと手を伸ばしてくる。
だが彼の手が私に触れる前に、王子が警戒をあらわにその手を掴んだ。
「……我が妃に何をするつもりだ、妖精王」
「そう殺気立つな、人の国の王子よ。その娘御は自らの手に余る規模の『春呼び』を行ったため、魔力が枯渇している状態だ。このまま放っておけば、遠からぬうちに死に至るぞ」
「な……!」
冬の妖精王の言葉に、王子は絶句した。
だが彼が何か言う前に、真っ先に動いたのは私の傍で震えていたソレルだった。
「そんな……お願いします! なんでもするのでアデリーナを助けてください!」
彼女は冬の妖精王のマントの裾を掴んで、必死にそう言い縋った。
「私の命でも魔力でもなんでも差し上げます! だからお願い、アデリーナを助けて……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ソレルはその場に崩れ落ちた。
ソレル……そんな、私のために……。
「俺からも……いや、《奇跡の国》の王太子、アレクシスからも願い奉る。冬の妖精王、どうか、我が妃を救ってくれ……!」
私を抱いたまま、王子が深く深く頭を下げる。
その姿に、思わず胸が熱くなる。
みんな、私のために……。
冬の妖精王――ユール様は、氷海のような蒼の瞳でじっと私たちの姿を見つめていたかと思うと……ふっと笑った。
「元より貴殿らには我が眷属――スニクとビェリィを救ってもらった借りがある。喜んで力を貸そう」
「本当か!?」
がばっと顔を上げた王子に、ユール様は鷹揚に頷いてみせた。
「あぁ、失った魔力を回復するには我が郷で療養するのが良いだろう。時は一刻を争う。すぐに案内しよう。……小さき魔女、そなたもだ」
「わ、私も……!?」
ユール様に声をかけられ、ソレルはおっかなびっくりといった様子で頷いている。
あぁ、どんどんと事態が進んでいく……。
私もちゃんと聞いていたいけど、体が重くて目を開けるのも億劫だ。
そんな私の様子に気づいたのか、王子は優しく囁いた。
「……大丈夫だ、アデリーナ。俺がついているから、ゆっくりと休んでくれ……」
手の平で瞼を覆われ、優しい声に誘われるようにして……私の意識は、すぐに闇へと飲み込まれて行った。