20 雪原の魔女(5)
翌朝、再び一階へ上がると、既に雪原の魔女は私たちを待っていてくれた。
「ほら、解呪薬よ。これであの指輪の呪いを受けた人間も目覚めるはず」
さっそく雪原の魔女から解呪薬を受け取ろうとすると、彼女はさっと手をひっこめ、にやりと笑う。
「ただし……思ったより手間がかかったから、追加料金を貰うことにしたわ」
「追加料金、ですか……?」
「えぇ、でも安心して。ちゃんと払えるものにしておいたから」
そう言うと、彼女は私の手を取ってにっこりと笑った。
「追加の対価には……アデリーナ、あなた自身を頂くわ」
「…………え?」
それって、どういう……。
そう考えた途端、急に全身の力が抜けて、私はがくんとその場に崩れ落ちてしまった。
「妃殿下!」
真っ先に反応したのはダンフォース卿だった。
目にもとまらぬ速さで剣を抜き、雪原の魔女へと斬りかかったのだ。
「ダンフォース卿!」
待って! ……と私が叫ぶよりも先に、雪原の魔女が軽く腕を上げる。
たったそれだけで、彼女の前には分厚い氷の盾が現れた。
ダンフォース卿の剣が氷の盾に阻まれ、彼は舌打ちした。
「邪悪な魔女め……! 貴様ごときがこの御方を好きにできると思うな!」
「なんでもするって言ったのはそっちの方じゃない。さっさと解呪薬を持って失せなさい」
雪原の魔女がにやりと笑う。その途端、ぴしぴしと剣を伝わり、ダンフォース卿の手まで凍り始めてしまった。
駄目だ、このままじゃ……。
「お、願い……逃げ、て……」
最後の力を振り絞って、強く祈る。
どうか、ダンフォース卿とロビンを助けたいと。
その途端、あたりが暖かな光に包まれて……気が付いたらダンフォース卿とロビンの姿は消えていた。
「あらあら、身を挺して人間を庇うなんて泣けるじゃない」
顔を上げれば、雪原の魔女がこちらを見下ろしていた。
「その勇気に免じて、解呪薬はちゃんと届けてあげる。あとは、後腐れないようにあなたに関する記憶は消してあげるわ。私って親切!」
雪原の魔女は無邪気な幼子のようにけらけらと笑っている。
かと思うと、その手が倒れ込んだ私の頭にそっと触れる。
それは、想像よりもずっと優しい手つきだった。
「……おやすみなさい、アデリーナ。大丈夫、何も心配することはないわ」
彼女の手のひらがそっと私の目を覆う。
すると急激に眠気が押し寄せてきて、私の意識は暗闇に引き込まれて行った。
最後に頭をよぎったのは、眠ったままの王子のことだった。
どうか、あの解呪薬が無事に王子の元へと届きますように。
どうか、一秒でも早く彼が目覚めますように……。
◇◇◇
「……アデリーナ。起きて、アデリーナ!」
「ん……」
いったい、どのくらい眠っていたのだろう。
ずいぶんと長い眠りから覚めたような気がする。
ぼんやりとした意識のまま目を開けると、透き通る水晶のような淡青色の髪を持つ、幼い少女が真上から私を覗き込んでいた。
「……ねぇ、私が誰だかわかる?」
…………?
そういえば、なんとなく見覚えがあるような気がする。
だが、名前まではわからない。
素直にそう伝えると、彼女は怒ることも落胆することもなく嬉しそうに告げた。
「いいの。いいのよ、気にしなくて。じゃあ……自分のことはわかる?」
「はい。私はアデリーナという名前で……」
すらすらと答えようとした口は、そこから先を紡ぐことができなくなっていた。
そう、私は……名前以外、自分が何者なのかまったくわからなかったのだ。
「え、あれ……」
「大丈夫、心配しなくていいわ。私がついているから大丈夫よ」
混乱する私の手を握り、傍らの少女はそう言って慰めてくれた。
その子の話によれば、私は魔女である彼女の弟子で、事故に遭った衝撃で記憶が飛んでしまったということらしい。
そうなのかな。そう言われればそんな気もするけど……いまいち実感が湧かなかった。
「焦ることはないわ。ここにいれば何も怖いことはないから、安心していいのよ」
「えぇ……ありがとう」
頷いた私に、少女は嬉しそうに笑う。
あ、そういえば……。
「……ごめんなさい。あなたの名前も覚えていなくて――」
おそるおそるそう告げると、少女は少しだけためらうようなそぶりを見せた後、ぽつりと口を開いた。
「……ソレル。ソレルっていうの」
「そうなの……。いろいろ迷惑をかけてしまうと思うけどよろしくね、ソレル」
「……うん!」
目の前の少女――ソレルが満面の笑みで頷いてくれたので、私はほっとした。
ソレルが言うことには、ここは彼女の隠れ家で、彼女は人間社会でひどい迫害にあってここへ逃げて来たらしい。
偶然同じような境遇の私を見つけて助けてくれたのだとか。
「人間なんてそんなものよ。魔女だってわかったらすぐに態度を変えて……誰も信じてはいけないわ」
少しだけ悲しそうな顔で、ソレルは窓の外を見つめていた。
その瞳には、確かな寂しさの色が宿っている。
「私はずっとここで一人で暮らしていたの。ずっと、長い間……」
「……寂しかった?」
「……ほんの少しだけね。でも、今はあなたがいるから平気よ!」
ソレルが嬉しそうな笑みを浮かべて私の手を握る。
「私たちは魔女同士。ずっと一緒に居られるわ。ねぇ、どこにも行かないでね、アデリーナ……」
ソレルは見た目に似合わず大人びた物言いをする少女で、きっと実年齢も私が思うよりも上なんだろうけど……今だけは、まるで迷子になってしまった幼子のように見えた。
私はなんて言っていいのかわからずに、ただ彼女の手を握り返すことしかできなかった。
さて、私は魔女ソレルの弟子であったらしいのですが……正直何を習っていたのかすらさっぱり思い出せない。
ソレルは急がずにゆっくりしていればいいと言うけど、何もしないのも申し訳ないのでひたすら雑用に精を出すことにした。
食事を作り、洗濯をし、床を磨く。
幸いにも家事のやり方は覚えていたけど、どこに何があるのかは忘れてしまったから手探りだ。
あたふたと動き回る私を見て、ソレルは呆れたような……それでいてどこか嬉しそうな顔をしていた。
しかし、こうして床を磨いているとずいぶん落ち着く。
嬉々として目につく汚れを落としていた私に、ソレルは奇異の目を向けていた。
「なんていうか……あなた、本当に変わっているのね」
「前の私は、こうではなかったの?」
「い、いえ! 前から変人だったわ!」
「そうなんだ……」
変人かぁ……。まぁ、別にいいんですけど。
あちこちを磨いていると、あっという間に桶の中の水が汚れてしまう。
私が寝ている間、ソレルはあまり掃除をしていなかったのかもしれない。
とりあえず汚れた水を捨てようと、私は塔の外へと足を踏み出した。
崩れかけた石垣の向こうには、一面の銀世界が広がっている。
その美しい純白の世界を見ていると、不意に心の奥底が刺激されたような気がした。
……私は、ここにいていいの?
あの雪原の向こうで、誰かが待っているのに。
早く、早く、あの人の所へ帰らなきゃ……!
そんな思いに突き動かされるまま、雪原に飛び出そうとしたその刹那――。
「何をやってるの!?」
背後から甲高い声が飛んできて、私ははっと振り返った。
見れば、ソレルが転がるようにして塔の入り口の扉から駆けてくるところだった。
「外は危ないわ! 出て行ってはダメよ!!」
ソレルが慌てたように私の腕を掴み、引き戻そうとする。
それでも私は、その場から動くことはできなかった。
「……誰かが、私を待っているような気がするんです」
「そんな人はいないわ! 外の世界に出ても傷つくだけよ!!」
ソレルは泣きそうな顔で、必死にそう叫んでいる。
「ねぇアデリーナ、思い出して。外の世界は恐ろしいのよ。迂闊に外に出たら殺されてしまうわ!」
そんな彼女の感情に呼応するように、雪原に激しい雪が降り始めた。
あっという間に猛吹雪が巻き起こり、凍るような冷たさが肌に突き刺さる。
「ほら……こんな猛吹雪の中、外になんて出れっこないじゃない。早く中に入りましょう」
ソレルにそう諭され、私は諦めて再び塔の中へと足を向ける。
最後に一度だけ、雪の吹きすさぶ雪原を振り返る。
やはりあの猛吹雪の向こうから、誰かが呼んでいるような気がしてならなかった。