10 王子様、妃の元へ電撃訪問する
最近は、不思議と調子がいい。
一時期は運命の相手に逃げられたショックで食事も喉を通らず、何も手につかないような有様だったが……俺の悲しみも、少しずつ癒え始めているのだろうか。
「お疲れ様です、殿下。少し休憩にいたしましょう」
王太子としての仕事も以前よりはかどるようになってきた。
最近では集中しすぎて時間を忘れるほどなので、適度に秘書官のコンラートがこうして声を掛けてくれるほどだ。
執務室のソファに腰掛けて、侍女の運んできたケーキに手を付ける。
だが……何故か、物足りないような気がした。
目の前のケーキは宮廷付きのパティシエが作った一流のものだ。
味や形、装飾まで何もかもが洗練されているのだが……。
――『王子殿下がいらっしゃると伺いまして、ケーキを焼きましたの。是非みなさまも召し上がってくださいな』
何故だか、離宮で口にした妃の手作りのケーキの味が舌先から離れない。
色や形で言えば、あのケーキより今食べている物の方がよほど上等だろう。
味だって、俺はニンジンが苦手だ。うまくごまかされたとはいえ、意識すればあのケーキはかすかにニンジンの味がした。
なのに何故、またあのケーキが食べたくなってしまうのか。
「どうかなさいましたか、アレクシス殿下?」
「いや……以前離宮へ出向いた時に口にしたケーキのことを思いだしただけだ」
「あぁ、アデリーナ妃お手製の……」
妃のケーキの話題になると、控えていた俺の専属騎士――ゴードンが口を挟んでくる。
「あぁ、殿下とコンラートはアデリーナ妃のお手製ケーキを食べたんですっけ。いいなー、俺も行きたかったなー」
「お前がその日に有休をとったのが悪い」
「それはそうですけど、最近ダンフォースの奴がよく自慢してくるんですよ。アデリーナ妃は優しくて料理が上手くて今の職場は天国だって。何でも休憩時間には、よく妃お手製のスイーツが出て来るんだとか……」
「なん……だと……?」
思わずフォークを取り落としかけてしまった。
この俺がこんなに恋しく思っても彼女のお手製のスイーツを口にするのは難しいのに、ダンフォースの奴はそんなに頻繁に口にしているのか……?
いや、おかしなことじゃない。
ダンフォースはキャロリーナの専属騎士。俺がそうなるように取り計らったのだ。
俺よりもずっと、キャロリーナの傍に居る時間が長いのだ。彼女の手料理を口にする機会も多いのだろう。
頭ではそうわかっているが……どうにも、気に入らない。
何故俺が面倒な公務に忙殺されているときに、ダンフォースの奴はのうのうと俺の妃の手料理を食べているのか?
理不尽だ。不平等だ。これは是正せねばならないだろう。
「今から妃の所へ向かう」
フォークを置きそう宣言すると、優雅に紅茶を飲んでいたコンラートがゴホゴホとせき込み始めた。
「今からですか!?」
「何か問題でも? 急ぎの仕事はすべて終えたはずだ」
「それはそうですけど……離宮に使いを送るので少しお待ちください」
「いや……その必要はない」
使いを送れば、彼女はきちんと着飾り準備を整えたうえで俺を出迎えてくれるだろう。
正直、着飾ったキャロリーナはまるで別人のように、得も言われぬ美しさを醸し出していた。
呆気にとられてしまい、普段なら簡単に出てくるはずの社交辞令すら出てこなかったくらいだ。
だが、そんな取り澄ました彼女よりも、始めて離宮を訪れた時のような……普段着に身を包み、アルパカに乗っているような彼女に会いたかった。
自分でも、どうしてそう思うのかはわからないが。
◇◇◇
「王子殿下、あの……こちらにお越しになるときは、できれば先に知らせていただくと非常に助かるのですが……」
「そうか、次からは気を付けよう」
離宮を訪ねると、妃は厨房でパン生地をこねている最中だった。
それに、何故かダンフォースもエプロンを身に着けて威勢よくパンの生地をこねていた。
お前は騎士の本分を忘れたのか。
エプロンを身に着け、恥ずかしそうに俯くキャロリーナ。
その姿を目にして、俺は自分でも驚くほど気分が高揚していた。
着飾った彼女も文句なしに美しいが……こんな風に、素の彼女を目にするとひどく安心する。
「午前中にパンプキンプディングを作りましたの。よろしければ召し上がりますか?」
「あぁ、頂こう」
念願の妃お手製のスイーツを口にして、ゴードンは「妃殿下はいいお嫁さんになりますよ」などと寝ぼけたことをほざいていた。
おい、彼女は一応俺の妻なのだが。
「王子殿下、カボチャは平気ですか?」
「……そなたは俺を小さな子供だとでも思っているのか? ほとんどの食材なら問題なく食べられる」
ぱくりとパンプキンプディングを口にすると、キャロリーナはほっとしたように表情を緩めた。
「エラ――妹が小さい頃から野菜全般が苦手だったので、てっきり王子殿下もそうではないかと思ったのですが……」
「すると、彼女に野菜を食べさせようとして、こうして工夫を凝らすようになったのか」
「はい、近所の方が親切に教えてくださって――」
この離宮にいると、不思議と穏やかな気分になれる。
時間がゆっくり進むようにも感じられるが、実際はあっという間に帰らなければならない時間がやって来てしまう。
「殿下、次お越しになるときは、是非先にお知らせください……!」
そんな妃の懇願を聞きながら、俺はいつになくすっきりとした気分で離宮を後にした。
運命の姫――エラの話を聞いても胸がざわつかなかったことに気が付いたのは、その日の夜だった。




