3話「運命の人」
出店が立ち並ぶ往来のど真ん中。今、一太郎はそこにいる。右を向けば店先に馬車が止まり、少年たちが追いかけっこをしている一方、左を向けば頭部が虎で体が人間の半獣族の男が店先の者と仲良く話をしている。
その他にも、奥の方ではずんぐりむっくりのおばさんが店の者と値引き交渉で口論になっていたり、少年少女たちの前でカラフルな服を身にまとった道化師が玉の上に乗っかってバランスを取りながらジャグリングをしていたりなどどれも平生の日本では見られない光景ばかりが一太郎の眼前に広がっていた。
それらの光景を一瞬のうちに見るや否や、一太郎はなんだか興奮してきてしまって、目を煌々と輝かせながらそれらの光景を食い入るように眺める。ここから俺の新しい一歩が、人生が始まるんだ。そう思うとなんだか嬉しくなって高ぶるこの気持ちを抑えきれずに一太郎は欣喜雀躍し、歓喜の雄叫びを披露した。
「やったあああああああああああああああああああああ」
周囲の視線が一斉に一太郎に集まる。その瞬間女性たちの悲鳴がオーケストラのように音色が重なり、鼓膜が破れんばかりの大音量を形成した。すると、次に辺り一帯がざわざわし始めた。いったい何事かと思い周囲を見ると、どうやら彼らの視線は一太郎自身に向けられている。
一太郎にはこの視線に見覚えがあった。地球やら異世界やら天界やらを渡ってきたため時間的感覚が狂い、正確に何時間前と断言することはできないが体感時間的には数時間ほど前だろうか。何者か(恐らく秀司)によって自身のパンツを盗まれ、アレを隠す術を失ってあたふたしていたところに、クラスメートたちに高くそそり立ったアレを見られて以降のクラスの女子たちが一太郎を見る視線。その視線と全く同じだったのだ。
一太郎はおそるおそる目線を下に落とし、自身の体を見る。少し日に焼けた男の屈強な胸板がまず目に飛び込み、先端に屹立した乳首がこんにちはと顔を出す。
そこからさらに目線を下に落とすと、まぎれもない邪悪な黒い塊の間隙から少し黒ずんだアレがおはようと言って、その醜悪で汚らわしき姿を露呈する。
「あっ…なんじゃこりゃああああ!!!」
全裸であることに気付いた一太郎であったが時間は待ってくれない。往来の向こうから赤いぼろきれで口元を覆い隠し、身なりは汚らしいターバンようなものをまとい、片手にナイフを持った屈強な男たちが迫ってくるのが見えた。男たちの視線は全裸であるにも関わらず、おはようをしているその汚らわしきピサの斜塔を隠さない一太郎に向けられていた。
往来にいた人たちは「自警団だ!道を開けろ!」とまるで国王陛下のおでましだとでも言うように、皆急いで店の中へと駆け込み、その男たちのために道を開ける。一太郎は五感で嫌な予感をビンビンに感じ取ったため、男たちに背を向けクラウチングスタートのポーズを取ると、そのまま勢いよく走りだした。
「あ!待てー!」
後ろの方から男たちの声が聞こえてくる。間違いない。あの男たちが追跡してきているのだ。確認のため一太郎が半分ほど後ろを振り向くと、男たちが厳めしい形相で迫ってくるのが見えた。こ、こええええ。あまりの恐ろしさに一太郎は走りながら涙を流していた。おしっこの方は…大丈夫漏らしていない。
一太郎は素っ裸の体に直接風を受けながら、往来のど真ん中を突っ走る。その先々で多くの人々とぶつかったが、ぶつけられた側は一太郎のその恰好を見るや否や言葉を失い、奇異の視線を投げかけるばかりであった。
一太郎は多くの人の奇異の視線にさらされながらも、お構いなしといわんばかりにとにかく逃げた。逃げている最中に、転生時になぜ全裸になっているのかを考えてみたところ、おそらくメダが何かやらかしたのか、はたまた転生している最中に不具合が生じたのだろうと思われる。次メダに会うようなことがあれば、とりあえずこの件について聞かねばなるまいと固く胸に誓う一太郎であった。
だが今はとにかく、そんなことを考えている暇はないだろう。この状況をどうにかせねばなるまい。ずっとこのまま走り回って逃げ続けてもジリ貧になるだけだ。それに、もう脇腹がかなり痛い。このままではまずい。なんとかせねば。
そう思ったとき、突如一太郎の眼前に白いフードを頭からすっぽりとかぶった人物が現れたのだ。驚いた一太郎だったが、とにかく今は止まることは許されない。一太郎はこう見えても運動神経は悪い方ではなく、中学生の頃は三年連続でリレーのアンカーを務めたほどで、素早いアクセルターンでその人物を交わし、横を過ぎ去ろうとしたそのとき、白いフードの者は通り過ぎ様に一太郎に耳元でこう囁いた。
「ジャンプをしてみなさい」
「?????」
頭の中に一気にハテナが五つくらい浮かび、いったい何だったんだと後方確認も兼ねて、後ろを振り返ったときにそこにいたはずの白いフードの者はいなかった……
「おいおい、どういうことだよ……オカルトか?」
そんなことを考えながら一太郎はまだ自警団の男たちが追いかけてきているのを確認すると、店の中に避難していた民衆の一人から「危ない!!」との声が聞こえてきた。いったい何事かと前を振り返ると、目の前に自分の体の倍以上はある大きな馬車が迫っていたのだ。
ヤバい!絶体絶命!!
そう思った一太郎の頭の中にさっき白いフードの者が言っていた言葉が蘇る。
「ジャンプをしてみなさい」
今はもう迷ってる時間はない。何でもいいから藁にもすがるような思いでその言葉を信じ、ジャンプをしてみた。すると……
「う、うわあああああ!! 高い!高い!高い!」
何ということであろうか。驚くべきことに、今一太郎は空を飛んでいるではないか。いや、正確には物凄い高いジャンプをしているのだ。時をかける少女がプールの飛び込み台からジャンプをするように、一太郎は今、時ではなく空をかけている。
一太郎は急に飛躍しながらも確認のために下を見ると、皆上を向いて口を開け、目を丸くさせながら唖然とした表情を浮かべている。それはまるで目の前に未確認飛行物体が浮かんでいるかのような顔々だった。自警団の連中も事態を把握しきれず、その場でしどろもどろになっている。恐らくなす術が見つからないのだろう。
「な、何だかよく分かんねーけど、これで自警団の奴らは撒けたの…か……?」
そう言ってよく分からないまま、半信半疑ではあったものの、自警団から逃れたことに一安心した一太郎ではあったが、それよりも今この状況において最優先すべき事項があるはずなのだ。それは…
「待て、これ着地するときどうすればいいんだ?」
飛んだのはいいが、着地の仕方がまるで分からないのだ。今のところ、一太郎は類いまれなる跳躍力でまだ上へと飛び続けてはいたが、いつかそれも終わり、重力に引っ張られて下へと落ちることだろう。
それに、この辺りいったいは出店を開いている民家が立錐の余地もないくらいにひしめき合っている商業地帯だ。こんな場所に落ちたら、一太郎はもちろんのこと、関係ない人まで巻き込んでしまうことになる。それはあってはならないことだ。別のアプローチでこの状況を打開するしかない。でも、どうやって?
実際、どうすればいいかは分からないものの、とにかくやるべきことはなるべく空中を飛び続けて、民家の上に落ちず、また落ちた際の衝撃を吸収してくれるものの上に着地することである。
こうすれば他人に被害が及ぶこともないし、着地したときに多少怪我はするかもしれないが、死に至るという最悪の場合は回避できる。一石二鳥といったところだろう。だが、これは相当ハードな課題だ。
手始めに一太郎は足をバタバタさせた。これで滞空時間を稼ぐというものだ。はたから見たらいかにも頭が悪そうな思い付きであることだろう。それに、これは視覚的にも大分ひどい。何せ、空中で全裸の少年が何やら必死に足をばたつかせているのだから、気持ちが悪いことこの上なしと言ったところであろう。
これをやることによって、何か変わっているだろうか。いや、何も変わってない気がする。それどころか、そのせいで余計な空気抵抗を体に与えてしまった気がする。
やってしまった。これは完全なミスだ。何も考えずにその場で考えついた策を実行したのがいけなかった。体に無駄な空気抵抗が働いてしまい、上へと伸び続けるように空の中を進んでいた一太郎であったが、
「え?」
急に体がフワッとした感覚に襲われ、えも言われぬ気持ち悪さを感じた瞬間に一太郎の体は見ず知らずの民家に向かって吸い込まれるように落下していった。
「あああああああ」
一太郎の喉を張り裂けんばかりの大声がこの大空を満たし、やがてその大声は一太郎が落下していくとともに風に吹かれて消えてしまった。
「愉快な少年だな」
その言葉を発したのはさきほど一太郎にアドバイスを与えた白いマントの者であった。彼はいつの間にやらさっきいた場所から、この辺りで一番高い建物である鐘楼の一番上に移動し、縁に腰掛けながら一太郎が跳躍してから無様に落下していく様を楽しそうに見ていた。
彼がいったい誰なのか。いったい何を考えているのか。ミステリアスな雰囲気に包まれたその出で立ちからは何か不気味で、際限がないほどに恐ろしく、歪で、冷やかでまた同時にバイタリティに溢れる強い意志を感じさせるのはなぜなのか。それを知ることになるのはまだまだ先になることであろう。
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「いってぇ……」
一太郎は焼けるように痛い背中をさすりながら、そのむき出しの上体を起こし、辺りを見回すとそこには様々な家具、調度品が置かれており、それらは少し格式の高いものと見え、俗に言う裕福な一般家庭の部屋であるとの見当がついた。
ただ、正確に言えばここで一般家庭と言ってしまうのは間違っている。なぜなら、一太郎が落ちてきた衝撃によって、今は一太郎の下で真っ二つに割れた木製のテーブルやそこかしこに散乱しているガラスの破片、床を抉ったり、散乱している屋根の瓦、ハラハラと空中を舞っている紙媒体の群れ、極め付きは上を見上げればそこにあるはずの天井が抉り取られたような形で大きな穴を開け、そこから家の中にいながらにして太陽の光をまんべんなく体に浴びることができるからだ。
これはどれも一般家庭ではあり得ない。強盗や空き巣に入られた家でさえ、家の天井にこれほどまでの大穴を開けられることはないだろう。今のこの光景が明らかに何もかも異常であった。
それに、一太郎は人が米粒には見えるくらいの高さから落ちたにもかかわらず、こうして体はあちこち痛むものの、何事もなかったように生きているのが不思議でならない。普通ならマグロの解体ショー終了後みたいな状態になってないとおかしいくらいなのだが。
そもそも、あの異様な跳躍力だっておかしな話だ。一体どうしたらそこら辺にいるスポーツ少年のようなこの脚からあのカール・ルイスもびっくりな跳躍力を生み出すというのか。何が何だかよく分からず、脳内に混乱の嵐を吹き起こしている一太郎の背後から突如として「きゃあああああああ」との女性の叫び声が聞こえたため、後ろを勢いよく振り返ると、そこにはこちらを怯えた目で見つめる十六、七歳くらいの少女がいた。少女はわなわなと震える手で口元を覆い、今すぐにでも第二波の叫び声をあげる勢いだった。
「ま、待ってくれ。これにはわけが……」
これは絶体絶命な状況で一太郎が何とか振り絞った言葉であったが、その言葉は彼女の耳には全く届いていないようだった。それもそのはず、いきなり空から全裸の男が降ってきて、自宅の屋根をぶち壊し、それでいてまるで何事もなかったように立ち上がり、「これにはわけがある」と言って、近づいて来られても、ただただ恐いだけである。一太郎であったら失禁して、そのまま失神する可能性さえある。
なら、どうするか?あまり迷っている時間はなさそうだ。ただでさえ、空から男が降ってきて、その男が民家の天井に大穴をブチ開けているのだ。それだけでも十分な騒ぎなのに、少女による悲鳴が一度どころか二回も上がれば、自警団に見つかる可能性もグッと高くなるに違いない。
一太郎は百パーセント自分に非があり、それでいてどうしようもないときに限り、それらを解決するための自分なりの方法があるのだ。それは、日本における深い謝罪や懇願において、または相手に深い敬意を持っているときにおいて意味をなす礼法の一つであるとされるもの……
「すみませんでしたーーー!!!」
正座でその場に座り込み、腰を折って深々と低頭するこの礼法。そう、土下座である。日本では最上級の謝罪を表す時に行うものとして認識されていると同時にこれを行うことは自らの矜持も誇りも全て投げ捨ててしまうことも意味する。だが、そんなことには構っている余裕はなかったのだ。
とにかく藁にもすがるような思いで少女には一太郎の行為を許すには至らなかったとしても、せめて声をあげないでほしい。その一心で頭を床にこする! こする! こする!
そんな一太郎の唐突な行いに声を失う少女であったが、少女は慌てて何かを訂正するように、「あっいや、違うの!」と言った。
「え?」
一太郎は床にこすり付けていた額を上げ、真っ赤になったその額を少女の目の前に晒しながら、少女をどういうことかと不思議そうに見つめた。
「その、思わずびっくりしちゃって……ま、まさか全裸だと思っていなかったから。あ、あの……ま、丸見えで……」
顔を紅潮させ、目でチラチラと訴えてくる少女の視線の先に自分の恥辱の根源を見つけ、一太郎は必死に手で股間を隠す。もう、自分の中に自尊心などというものはないと思っていたが、案外まだ残っていたことに対する驚きや安堵と同時に忸怩たる思いを感じざるを得なかった。
「と、とりあえず出店にいくつか服が置いてあるから……そこから勝手にとっていいから、服を着てもらってもいい……?」
そう言って少女は目を左手で覆い隠しながら、右手で出店のある方向を指さす。一太郎は「お、おう」と言って、少女の言われた通りになるべく人目につかないように商品棚に隠れながら服をかっぱらい、その場で適当に選んだ服に着替える。
目の前に鏡が置いてあったので、今の自分の服装を見てみると、それは上下青色のジャージであり、上着は襟元から袖口にかけて白色のストライプが刺繍されており、左の胸元には六芒星のマークが刺繍されていた。また、ズボンの方も上着と同じように腰から袖口にかけて白色のストライプが刺繍されていた。凄いダサいが仕方がない。全裸よりもマシである。
「着替え終わった?」
少女の声である。それはおそらく着替えているときの服と肌がこすれ合う音がしなくなったのを着替え終わったのと判断してそう言ったのであろう。
「あ、ああ」
少女が顔から手をどける。そのとき、一太郎は初めてまじまじと少女の顔を見つめることになった。顔立ちはどこか凛としていて、幼さはあまり感じられないが、ただ頬が林檎のように赤らみ、ふっくらとした蕾がその中に内包されているような感じが唯一まだ年若き少女であるなと感じられる箇所であった。
瞳は、噴水のように色彩が瞳の中から飛び出してきそうなくらい目を引くサファイア色で、髪は少し先端がカールがかったセミロングの金髪で、完全に金髪碧眼の外国人の少女という感じであった。
何だかこれらのパーツを一通り眺めた後、一太郎は真っ先にこの言葉が頭に浮かんだ。
「運命」
我ながら恥ずかしい話ではあるが、本当にそう思ったのである。この少女とは何だか一生付き合っていくことになりそうだ。そんな気がしてならないのだ。一太郎がその少女に心奪われている間、その運命と呼ぶに相応しい彼女は自らの名前を明かし、握手を求めてきたのである。その名前は……
「まずは、お互いの素性を知らなくっちゃね。私、ラルカ・エムリットって言うの。よろしくね」
ま、間に合った…!