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二人の姿が森の奥へと消えた後、セーガはそっと東雲を見上げた。
その気配を感じたのか、東雲がタイミング良く振り返る。
その目は思った以上に穏やかで――けれど、なぜかセーガは罪悪感に近いものを拭えなかった。
かといって目を逸らすことも出来ない。
――“御主人……”
「無理をしなくていい。私はもう、セイ坊の主人じゃないよ」
――“では……東雲殿”
改め、少しホッとする。老人口調をやめた彼から感じるのは、やはり懐かしい空気であった。
――“……生きておられたんですね”
「ああ。セイ坊が離れた後……奇跡的に持ち直してな。
それから妙に元気になって、今じゃこの通りだ。まだまだ若い者には負けんよ」
それは本当なのだろう。笑った彼のみなぎるような気はセーガにもしっかり伝わってくる。
昔からそうだったとはいえ大した人だ。
小さく笑いが込み上げ、セーガは恭しく頭を下げた。昔よくそうしたように。
――“ご無事で何よりです”
「……セイ坊は変わったな」
――“え?”
顔を上げると、目を細めた東雲と目が合った。彼は静かに首を振る。
「私といた頃はそこまで柔らかく微笑うことはなかった。……ハー坊のおかげ、か?」
――“……そうかもしれません”
うなずき、そっと息をつく。
ふと込み上げるものがあり、セーガは春樹たちが向かった方向へ目をやった。
決して声は聞こえないのに、それでも何かと騒いでいる彼らの姿が目に浮かぶ。
――“主人が……私を呼び出せるようになってまもなくのことでした。あるお願いをしてきたんです”
春樹は幼い頃からよくセーガを気にかけていた。
ただ淡々と使命を果たそうとするセーガに気づいていたのだろう。
かといってセーガは決して主人を大切に思っていなかったわけではない。むしろその逆だ。
大切に思うからこそ――だからこそ主人を守るという使命を何よりも優先させていた。
そうしなければと言い聞かせてきた。
けれど……。
『セーガ……。その、敬語……やめてもらってもいい、かな?』
――“え? ですが……”
『無理にとは言わないんだけど……』
幼いくせにすっかり「遠慮」を知ってしまった彼は、おずおずとセーガに申し出てきた。
しかしこんな命令――いや、「お願い」をされたのは初めてで、セーガは言葉を失ってしまった。
『それとね』
まだ引け目を感じている様子で、春樹は少々ためらいを見せた。
それでも言う決心がついたのか、真っ直ぐとこちらの目を見て。
『セーガにとって僕といる時間は一瞬みたいなものかもしれないでしょ?
でも……ううん、だからこそ。
その一瞬が良かったって……楽しかったって、そう思えるように頑張りたいから。
セーガも……手伝ってくれる……?』
幼い彼の瞳は真剣だった。それは、今までのセーガの肩の力を抜くには十分で。
セーガは小さく笑った。きっと、今までで一番優しく。
――“……当たり前だ”
『! ……ありがとう、セーガ』
微笑んで抱き寄せてきた彼に、セーガはもう一度笑ってみせた――……。
――“主人との別れに慣れるために、私は何度も感情を殺してきました。
けれど今の主人は……それすらさせてくれない、厳しくて優しい、厄介な方です”
多少皮肉混じりに言い、セーガはクスクスと笑った。
それを見ていた東雲もつられたように口元を緩める。
それから彼はどこか遠くを見るように息をついた。
「運命なのかもしれないな……」
――“東雲殿?”
「……なあ、セイ坊。セイ坊の役割は主人の一生を守ることだ。だが私は生きている。
生きているのに……なぜかセイ坊は私を離れた」
――“……はい”
核心を突く話に思わず顔を伏せる。
だが、東雲は不機嫌になるどころか陽気に笑ってみせた。
「そんな顔をするな。離れたのがセイ坊の意思じゃないのはわかっている。
しかし……これに全く理由がないのは妙な話だと思わんか?」
――“……理由、ですか?”
「ああ。確かに私は一度死にかけた。
そのせいで早とちりした何かが私とセイ坊を引き離した可能性はある。
……だが、本当にそれだけだろうか?」
――“……というと……?”
東雲の口調は真面目であり、セーガの緊張も無意識に高まった。
合わせて慎重に口を開いた自分を横目で見、東雲はわずかに表情を引き締める。
「これは想像に過ぎんが……ハー坊が、選ばれたのかもしれん」
――“え?”
「“力”が、私よりハー坊の方がふさわしいと認めたのかもしれん。
ハー坊は元からセイ坊の主人となるべき者として定められていたのかもしれん。
……そう考えるのは、ちと複雑な気分だがな」
そう言って苦笑してみせる彼に、セーガはしばし言葉を見つけられなかった。
確かに全否定をすることは出来ない。
セーガは主人を離れた後にしばらく力を溜めておく期間があるので、
東雲から離れ、春樹に仕えるまでの空白に矛盾は生じなかった。
だが、まさか。そんなにも前から運命が定められているなんてことは――。
(……そうでないといい)
心のどこかで願う。そうでなければいい。
もしそれが事実なら、それはきっと主人の重荷になるだけだ。
そんなセーガの気持ちを知ってか知らずか、東雲は大きく息をついた。肩をすくめる。
「もし本当なら、……いや、それが関係なくても。今の王の目は節穴だな」
――“……どうしてです?”
「跡継ぎ問題さ。ハー坊かター坊で迷ってるらしいじゃないか。
……そんなもの、迷うまでもないだろうに」
東雲の言いたいことは想像がつき、セーガはただ口をつぐんだ。
居心地の悪いものを感じて奇妙に落ち着かない。
「どちらも心もとないが……あえて選ぶならハー坊に決まっとる。何せセイ坊の主人だ」
――“ですが……”
「それだけじゃない。……あやつになぞ、恐ろしくて任せる気になれん」
――“……”
「セイ坊。おまえなら気づいているはずだ。あやつの……不気味な“力”に」
思い出したのか、東雲が顔をしかめる。そんな彼に、セーガは小さくうなずいた。
確かに気づいてはいる。それは事実だ。
だが。
――“お言葉ですが……それは、王も気づいておられます”
「なに……?」
東雲が目を見開いた。わずかに顔を強張らせる。
「気づいていて、それでも奴らの意思に任せようというのか?」
――“そのようです”
「信じられん……。あの小僧の考えることは昔からよくわからん」
半ばボーゼンと呟き、かぶりを振る。その反応に納得がいったセーガは思わず苦笑してしまった。
あの王の考えなんて滅多にわかる人はいないだろう。実の弟たちまで振り回されているくらいだ。
もし彼のことをお見通しだという人がいるのなら、それは彼の生みの親くらいだろうか。
「この先が不安だよ」
呟いた東雲が、憂えるように大袈裟に息を吐いた。
「肝心のハー坊は、セーガの意義にちっとも気づいとらんし」
――“……気づいていますよ、きっと”
「ん? だがあのとき……」
――“……言いたくなかったのでしょう……”
言いたくなかった、知りたくなかった、認めたくなかった。
そのどれかであり、そのどれもであったのだろう。
だが春樹は知っている。その証拠に、昔、セーガはたった一度だけされた質問があった。
きっと、その頃はあまり深く考えていなかったのだろうけど。
『ねえ。セーガって、えらい人の乗り物なの?』




