1封目 白いバリウムともみじの手
ここ最近、日向春樹はいつにも増して忙しさに追われていた。
今も弟の日向大樹を叩き起こし、せっせと朝食を作り、自分の食べた分の後片づけを丁寧にやり終えたのだ。
さらにこの頃は学校で出る宿題が日々増えている。
それでも毎回きっちりこなしている自分は、はっきり言ってものすごく偉いと思う。
ともかく、こんな毎日に対し春樹は、体力的というより精神的に疲れがピークに達していた。
しかしそんな自分を労ってくれるような人物はここにはいない。
「大樹、いつまでものんびりしてるなよ」
「ん―――……」
早くしろ、と急かす自分にあいまいな返事が返ってくる。
昨日遅く寝たのかは知らないが、どうも意識がはっきりしていないようだった。
寝ているのか食べているのかよくわからない。
そんな弟に春樹はあからさまにため息をついた。
自分の苦労の大半はコイツが原因なのだ。
生意気で言うことを聞かない、本当に世話の焼ける奴である。
普段はとにかくうるさく、まるで口に機関銃を持っているようだ。
そんな彼を、たった一年……いや、正確に言えば一年と数ヶ月先に生まれたというだけで自分が面倒を見るハメになってしまった。
正直な気持ちとしては面倒なことこのうえない。
しかし、物心ついた頃からこんな生活だったのだ。
いい加減諦めるしかないだろう。
そんな悲しい結論に達した春樹は、さらに深くため息をついた。
「大樹、ホントに遅刻するぞ」
「わかってるってば」
さっきよりは少し脳も起きたらしい。いくらかマトモな言葉が返ってきた。
それでも食べるスピードは変わらない。
「早くしろって……」
がっくりと声を出すと、大樹が頬を膨らませた。
彼はずい、と何かをこちらへ押しやってくる。
「?」
「牛乳」
「見りゃわかるよ」
コップに注がれた白い液体に、思わず半目になる。
これが牛乳以外の何に見えるというんだ。
「バリウムかもしれないじゃん」
「そんなもん朝食に出す家庭があるかっ!」
そんな不気味な朝食風景があってはたまらない。
春樹としては嫌だ、絶対に。
そんなものが朝食に出された日には、何かの陰謀だと思い家から逃げ出すだろう。
それとも――いつも細かいことで怒る自分への嫌味だろうか。
朝から胃の検査をしろと?
「……で、その牛乳がどうしたんだ?」
「マズイ」
「阿呆」
きっぱり言い放った大樹にすっぱり返す。
打てば響くようなセリフに、大樹がムッとしたように立ち上がった。
続けてわめき出す。
「マズイもんはマズイんだって!」
「そんなの、ただの好き嫌いだろ。ワガママ言うなよ」
「ワガママじゃないっ。春兄こそ、オレが牛乳嫌いなの知ってるだろ!?」
それなのに出すなんてイジメだ、と大樹がむくれる。
そんな彼に、春樹はため息をつかずにはいられなかった。
奴の思考回路は一体どうなっているんだ。
「おまえは好き嫌い多すぎなの。おまえに合わせてたら何も食べられなくなるだろ」
「そんなこと」
「ある」
否定しようとした彼を思い切り遮る。
すると大樹は言葉を詰まらせた。
どうやら思い当たる節があるらしい。
「~~~~とにかく、紙パックの牛乳だけはやなんだってば! 紙の味がするからっ」
どんな味だ、どんな。
そう心の中でつっこみつつ、春樹は薄々感じていた。
こうなった大樹はテコでも動かない。意地を貫き通す。
「……もういいよ……。とりあえず今は飲まなくてもいいから」
疲れきった声で「頼むから早く食べろ」と言うと、大樹も承知したのか、再び席に座った。
黙々と食べ始める。
それを見てようやく春樹もホッとした。
やっぱり、「牛乳が飲みたくない」なんて理由で遅刻なんかしたくない。
それにしても、朝からこんなにエネルギーを消費していいのだろうか。
一日はまだ始まったばかりだというのに。
「はあ……猫の手も借りたいよ……」
思わずそう呟くと、パンを口に放り込んだ大樹が手を止めた。
彼は不思議そうにこちらを見てくる。
「だから、オレが手伝ってやるって言ってるじゃん」
「…………」
手をヒラヒラ振る彼を無言で見やる。
確かに何回か手伝いを申し出てきたことはあるが、ことごとく春樹が断ったのだ。
それもこれも、今までの経験で、彼の手伝いが自分のプラスになった試しがないからである。
むしろ仕事を増やされた記憶しかない。
「おまえの手は“猫”っていうより……“もみじ”だから」
「へっ? ……もみじ?」
予想外の言葉だったらしく、大樹の目が丸くなる。
彼はまじまじと彼自身の手を眺めた。
不思議そうに握ったり開いたりしている。
――しまった、コイツに比喩が通じるはずがなかった。
「なあ春兄、どーゆうこと? もみじって?」
「何でもないから! いいから早く食べろって!」
予想通り食事の手が止まってしまった――彼は一つの物事にしか集中出来ないのだ――大樹を急かしつつ、春樹は何度目かのため息を肺の底から吐き出した。
◇ ◆ ◇
無事に遅刻を免れた大樹は、朝と同様ずっと自分の手を眺めていた。
バタバタしていたせいもあって、結局春樹は何の説明もしてくれなかったのだ。
どんなに自分がせがんでも。
「もみじぃー……?」
「どうしたの? ダイちゃん。さっきからブツブツ言って~」
「ユキちゃん」
幼馴染みの沢田雪斗に話しかけられ、大樹はぐるっと体の向きを変えた。
どうでもいいが、彼の語尾の伸びた言葉は良い睡眠薬となりそうだ。
「なあユキちゃん、“もみじの手”ってどーゆう意味だ?」
「は? ……もみじぃ?」
何のこっちゃ、とばかりに雪斗が目を丸くする。
いきなり言われれば当然の反応だろう。
しかし大樹としても、自分の疑問を上手く説明する術がない。
一体何と言えばいいのやら。
「朝、春兄に言われてさあ」
「ハルさんに~?」
きょとん、と雪斗が首を傾げた。
まだ状況が把握出来ていないのだろう。
ちなみに「ハルさん」というのは、もちろん春樹の呼び名である。
いつだったか、何だか年寄りくさい気がする、と春樹は苦笑していた。
けれど自分の幼馴染みということもあり、彼と雪斗の交流も比較的多い。
そのせいか文句を言うわけでもなく、この呼び名のままで落ち着いてしまったようだ。
まあ、その辺は自分が口出しするようなことでもない。
「よくわかんないんだけどー……何でそんなこと言われたのー?」
「何でって……春兄が片づけとかしてて、『猫の手も借りたい』って言ったんだよ。だから『オレが手伝ってやる』って言ったら、春兄が『おまえの手は猫じゃなくてもみじだ』って」
「あー……うん、何となくわかったかも~……」
雪斗が困ったように苦笑した。
大樹としては、なぜそこで困るのかわからない。
「なあ、もみじってことは……オレの手っていつか枯れるのか!?」
「え?」
「だってもみじだろ?」
「……えーっとぉ~……」
へにゃん、と気の抜ける笑みを浮かべて言いよどむ彼に、大樹はますます首を傾げた。
だから、なぜそこで困る?
「まあ……枯れないこともないかもー?」
「ばぁーか」
「!?」
突然割り込んできた声にぎょっとすると、ついでにべしっと鈍い音がした。
それと同時に後頭部に小さな痛みが走る。
「ってーな……、――椿!」
「もみじってのはモノの例えなの、タ・ト・エ。今までにあんたの手が枯れたことがあった?」
「う……っ、た、例えぇ?」
思い切り指摘され、たじろぎつつも目の前の女子を睨む。
黒髪ショートな彼女は、佐倉椿といってこのクラスの委員長だった。
元から委員長体質なのか、責任感はあるしハキハキしている。
また頭も良い方らしく、そのせいで大樹はよくバカにされる。
そう、まるで今のように。
「あんたの手助けじゃ頼りないってことじゃないの? 赤ちゃんみたいで」
「何ぃ!?」
「それと雪斗、あんたもいい加減なこと教えないでよ。大樹ってばバカ正直なんだから、そーゆうとこ」
「あははー……ごめんねー、委員長。でもそこがダイちゃんのいいところだから~」
「ってことはわかっててやってるのね、あんた……」
椿がはっきりと「呆れ」の表情を示す。
それでも雪斗は、「あははー」と彼独特の笑い声を上げただけだった。
「それに委員長~、ただの例えじゃないかもしれないよ~?」
「もみじが? ……どーゆうこと?」
「ほら、ダイちゃんの手って本当に小さいし~」
「ユキちゃんの手がデカいだけだろっ」
見て見て、とつかまれた手を慌てて振りほどく。
彼は一体どちらの味方なんだ。
ちなみに、雪斗の手が大きいというのも決して間違いではない。
何せ身長はクラスで一番高いのだ。
手の大きさまで一番とは言わないが、ある程度比例していると考えるのが普通だろう。
自分といるとしばしば「凸凹コンビ」と言われるが、それもわからなくもない。あまり認めたくない事実だが。
いや、それよりも。
「ってゆーか椿! 教科書で人の頭殴るなっ!」
「何よ、辞書の角にしなかっただけ感謝してよね」
「出来るか!」
そんなもので殴られてはひとたまりもない。
それくらい自分でもわかる。
「……そうね、ごめん。私が悪かったわ」
「!? ……つ、椿?」
ふう、とため息をつく彼女に戸惑う。
彼女が素直に謝るなんて!?
驚いたのは雪斗も同様のようだった。ぽかんと口を開いている。
いつもの彼女なら速攻で鋭く切り返し、相手を叩きのめしていることだろう。
――いや、これはいくら何でも言いすぎだが。
しかし彼女の口が達者だというのは周知の事実だった。
もちろん時と場合によるが、こうした「遊び」や「冗談」の場合、普段の彼女ならまず言い返すことを選択しているだろう。そして恐らく、この見識は間違っていない。
その証拠に、彼女はにやりと笑った。
「本当にごめんね。思わず叩きたくなるような位置に頭があったから、つい」
「んなっ」
それはつまり、自分がチビだと?
「オレと五センチしか変わらねーだろ!?」
「たかが五センチ、されど五センチ。――牛乳飲もうね、クラスで一番小さな大樹くん♪」
「~~~~っ!!」
何か言い返したいのだが、感情が先立って言葉が出て来ない。
そんな自分を見て椿は満足そうに笑った。
歌なんぞ歌いながら離れていく。
そう、やはり彼女は彼女でしかないのだ。
口が達者で小生意気な、しっかり者の委員長。
「くっそー……」
「まあまあ。女子には口ゲンカじゃ勝てないよー」
のほほん、と言ってくれるがあまり慰めになっていない。
そんな雪斗はふと視線をずらした。
その先には、さっき離れていったばかりの椿がいる。
今度は女子と話しているようだ。時折笑い声が聞こえてくる。
「それにしても今日の委員長、やけにゴキゲンだよねー」
「うん? 椿が?」
言われ、大樹は少し考え込んだ。
そう言われればそうかもしれない。
会話や行動は普段と大して変わりないが、どことなく声は弾んでいたし、やけに楽しそうだ。
「何かあったのかなあ?」
「まあ、何かはあったんじゃねーの?」
それが何かまではわかるはずもないが。
「変わったことって言えばさー」
「ん?」
「渡威はどうなってるのー?」
「ああ……んっと」
他の人には聞き慣れないであろう単語を言われ、大樹は少し言葉に迷った。
雪斗は自分のちょっとした秘密を知る唯一の者なのだ。
自分の父親が「倭鏡」という異世界の住人だということ、そのせいか自分にはある不思議な能力があること、そして日向家というのは倭鏡では王家に値すること。
彼だけはこれら全てを知っている。
ついでに補足しておくと、現在倭鏡を治めているのは七つ上の兄・日向葉だ。
彼は極度の面倒嫌いで、王の座もさっさと自分か春樹に継がせたがっているのだが……まあ、その辺は省略するとしよう。
とにかく彼の言う「渡威」とは、倭鏡からこちらの世界へ逃げ出した謎の生き物(と言っていいのかさえ定かでない)なのである。
「この前一つ封印したけど、それきりだぜ?」
「この前のは二宮金次郎の銅像に憑いてたんでしょー?」
「そっ。ハタ迷惑だよなー、にのきん」
「ダイちゃん……いい加減二宮金次郎って言ってあげようよ~」
「にのきんはにのきんだろ」
「だからー、まず『にのきん』自体が間違ってるわけでー……」
そこまで言い、雪斗は肩をすくめた。
何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
さすが幼稚園以来の付き合いだ。よくわかっている。
「でも、僕も渡威見てみたかったなあ」
「はあ?」
「だって倭鏡の生き物なんて、普段見れないでしょ~?」
「ユキちゃんって物好きだな……」
はっきり言って、渡威は面倒な存在なのだ。
人や物に憑きそれらに何らかの異常を起こす。
周囲の人間にとっては迷惑極まりない。
そんなものをわざわざ見てみたいだなんて、物好きの他に何と言えよう。
「だって」
ぽつり、と雪斗が呟いた。
彼はいつもと変わらない笑顔を向ける。
「そうすれば、ダイちゃんがいつも話してくれる倭鏡が、もっと身近に感じるじゃない?」
「え……?」
「ダイちゃんのことも、もっとよくわかるよね?」
「……ユキちゃん……っ!」
大樹はがしっと彼の手を握った。
「……結局どーゆう意味だ?」
「あははー。ダイちゃん、今のはフツー感動する場面だよー」
そうなのだろうか。何だかよくわからないのだが。
「だって渡威に……ってゆーかにのきんに追われたいのか?」
「だからそうじゃなくて~」
「しかも『勉強しろ』とか説教してくるんだぜ?」
「それはダイちゃんが勉強しないせいでもあるんじゃ……あ。勉強っていえば、次の時間の算数、ダイちゃん当たるよー? 宿題だったところ~」
「ウッソマジ!?」
そんなことすっかり忘れていた!
「え、どっ、どーしよう!? ユキちゃん頼む! 見せて!」
「そー言うと思ったー」
雪斗が笑いながら鞄を探る。
貸してもらえそうな雰囲気に、大樹の顔がパッと輝いた。
さすがユキちゃんである。持つべきものは幼馴染みだ。
しかし、そう思ったその瞬間。
「そーゆう不正行為は一切なしっ!」
再び割り込んできた声と共に、「すぱーん!」と小気味良い音が響き渡った。
「ったぁ~~~……またおまえかよ!?」
「委員長ひどい~」
二人が一斉に顔を上げると、そこには案の定、椿が仁王立ちでこちらを見据えていた。
大樹としては、何でハリセン(そんなもの)を持っているのか問い詰めたい。どこから取り出したんだ。
「ひどい、じゃないでしょ! 私の目の前でそーゆうズルは許さないんだから」
「委員長ってば地獄耳だね~」
「あんたの……てゆーか大樹の声がデカいだけ」
「オレ!?」
「まあ、元気な証拠でしょー」
いいことだよー、と雪斗が笑う。
それを見て椿は肩をすくめた。
大樹も微妙な気持ちでそれを聞き流す。否定してはくれないのか。
「とにかく、不正行為なんて許さないからね」
「何だよふせーこういって! 宿題教えてもらうくらいいいだろ!?」
「あんたの場合丸写すだけでしょーが」
「だからって人の頭をハリセンで引っぱたくなっ」
「ズルするからいけないんでしょ!」
「ボーリョク女!」
「チビっ!」
無駄な言い争いは授業が始まるまで続いた。
さすがの雪斗も途方に暮れた様子でそれを眺めている。
「まあー……ケンカするほど仲がいいって言うしねー……」
ヤレヤレ、と呟いた雪斗の言葉も、二人には全く届いていなかった。




