4封目 獣人のサガ
何が正しいのかなんて、わからないけれど。
「大樹」
「? ……春兄」
着替えてからぼんやりと窓の外を見ていた大樹が振り返る。
そんな彼を、春樹はしばし黙って見つめた。
よほど厳しい表情をしていたのだろう。
こちらを見る大樹の瞳が徐々に不安で曇ってくる。
「春兄……?」
「帽子はどうしたの?」
「え?」
「昨日かぶっていった帽子。帰ってきたときはかぶってなかったよね」
昨日の大樹はひどく元気がなく、春樹もあえて追及しなかった。
何に落ち込んでいるのかわからないが、それで出かけるのをやめるならそっとしておこうとも考えた。
けれど、また出かけようというのならそうは言っていられない。
「あ、えっと……帽子は落としちゃって……」
「どこに?」
「へっ? ……露店巡りしてる、とき」
「誰と?」
「と、友達だぜっ」
「何ていう子?」
「それは……。つか何なんだよさっきから!」
淡々と質問を繰り返す春樹に、大樹が苛立ったような声を上げた。
だが、それは彼なりの精一杯の防衛。
――嘘をつけない奴なのだ。わかりやすすぎる。
「大樹」
「だから何っ……」
「今日も獣人に会いに行くのか?」
「!?」
ビクリと彼の身体が強張った。瞳が揺れる。
「はるに……」
「知ってるよ。もっちーにも聞いた。……おまえ、わかってるのか? 獣人がどんな奴か知ってるのか?」
「春兄こそわかってんのかよ!?」
大樹が声を荒げ、逃げるかのように数歩後退った。
その様子に春樹は違和感を覚える。
何も知らないと思っていたがそうでもないようだ。
元気がなかった理由もやはり獣人が関係しているのか。
「……獣人は危険なんだよ? これ以上関わると取り返しがつかなくなるかもしれない」
「……だから何だっていうんだよ……」
「大樹……?」
「苦しんでいる友達を放っとくことなんて出来るかよ……っ!!」
「でも」
何とか説き伏せようと彼の腕をつかむと、大樹は激しく首を振った。
それはまるで、言葉をもてない子供が必死に「嫌だ」と抵抗しているようで。
――わかってはいた。大樹が簡単に譲るはずがないと。
『苦しんでいる友達を放っとくことなんて出来るかよ……っ!!』
大樹はそういう奴だ。長年兄弟をやっていたのだから、それは春樹がよく理解している。
だが、それはこちらも同じ。
――危険だとわかりきっている状況にいる弟を、兄としてどうして放っておくことが出来る?
「……わかった」
「え……?」
自分も大樹も、勝手なエゴでしかないかもしれないけれど。
「僕も一緒に行く」
◇ ◆ ◇
春樹の申し出はよほど予想外だったらしく、大樹は一瞬、全ての感情を無にしてしまったかのように見えた。
それでも「行くな」と言われるよりマシだと判断したのか、彼はぎこちなくうなずいたのだ。
――そして。
「ルナ!」
大樹の案内により、春樹は森奥の寂れた病院へ連れてこられた。
「大樹……!? どうして……」
「遊びに来たっ」
「……バカでしょ?」
「あ、ひでぇ!」
笑顔を向けた大樹に、ルナと呼ばれた少女はどこか悲しげに笑う。
彼女が大樹の言う“友達”なのだろう。
一目で獣人だとわかる耳や牙。そして金色に光を帯びる瞳。
「大樹、その人は……?」
「あ……オレの兄ちゃん」
「……日向春樹といいます」
「……大樹が心配で来たんですか?」
そう言った彼女は、思いがけず微笑んだ。
ほんの少し戸惑いつつも春樹はうなずく。
嘘をついても、その金色の瞳に全て見透かされてしまうような気がした。
「中へどうぞ」
「あ、はい。……!?」
促されるままに入った瞬間、悪寒が全身を貫いた。
「春兄?」
「いや……何でもない」
呟き、首を振る。
だが何でもないはずがなかった。
冷や汗が噴き出そうになる。
どうして大樹は平然としていられる?
この濁った空気に、舐めるような数々の視線に気づかないのか?
「……春樹さん、でしたよね」
「はい?」
「落ち着いてください」
「……え?」
「私たち獣人は殺意や警戒心に敏感です。あなたがピリピリしていれば、それは周りにも伝染しますから」
「はあ……」
ルナに諭され、春樹は曖昧にうなずいた。何とも難しい注文だ。この状況で警戒するなだなんて。
とりあえず努力しつつ周りを見回していると、大樹に駆け寄る一つの影に気づいた。
「大樹! また来たのか」
「ギャラ!」
「相変わらず美味そうな顔しやがって」
「どんな顔だよ!?」
「まあまあ。な、そろそろ腕の一本くらい」
「ダメって言ってんだろ!」
「じゃあ足」
「そーゆう問題じゃねー!」
「わかった。百歩譲って舐めるだけ!」
「だぁ! しつこいっ!」
……すごい会話だ。
(でも……)
会話の内容はともかく、その様子は親しげだった。ハタから見れば、それはまるで兄弟のようで。
春樹は複雑な表情で見ていることしか出来なかった。
――そんな兄の気持ちに気づくことなく、大樹はギャラに深々とため息をついてみせた。全く。相変わらずふざけた奴だ。
「大樹」
「なん……」
何だよ。そう言いかけ、気づく。ギャラの真面目な表情に。
「ギャラ……?」
「ルナのこと、ありがとな」
「え?」
それは思ってもみなかった言葉。
「……ルナの奴、父親がヒトじゃん? だからヒト食うのに抵抗あって、すっげー悩んでたんだよ。俺はもう割り切っちまってるけど……」
「…………」
「生きるために他の奴を食う。それはヒトだって同じじゃねぇか」
「それは……」
確かにそう、なのだけれど。
「ほとんどの獣人は割り切ってる。そうしなきゃ生きていくのがつらいだけなんだ。ただ……ルナ以外にも、どうしてもヒトの部分を捨て切れない奴ってのもいてよ。苦しむんだよな、……獣の血の強さに」
呟いた彼が自嘲気味に口元を歪める。
大樹は何と言っていいかわからなかった。
昨日のルナを見ているだけに言葉がない。
「でもよ」
「?」
「おまえが来てから、ルナもたくさん笑うようになったと思うんだよな」
「……でもオレ……」
昨日はルナを苦しめてしまった。
喜ばせようと思ったのに、逆に彼女を泣かせてしまった。
「――さぁて! 真面目な話はこれで終わり!」
「ええ!?」
そんな中途半端な!
「俺は腹ごしらえに行ってくるぜ」
「待ってギャラ」
「……ルナ?」
そそくさと出て行こうとするギャラに、ルナが駆け寄ってくる。
ギャラは早く行きたいのかわずかに顔をしかめた。
「何だ?」
「私たちも途中まで行く」
「へっ?」
私たち。ということは、恐らく春樹と大樹も含まれているはずだ。
急にどうしたのかと、大樹とギャラは顔を見合わせた。
◇ ◆ ◇
――全ては春樹のためだった。
「春兄……ダイジョーブか?」
「な、何とか」
顔を覗き込めば、返ってくるのは疲れ切った苦笑。
どうもあそこの空気とは合わないらしく、彼の顔色は優れない。
そんな彼に気づいたルナが、自然に出て行く口実としてギャラについていくことを選んだのだ。
「ごめんなさい」
「ルナが謝ることねーよ。無理についてきたのは春兄なんだし」
「……悪かったな」
ルナをフォローしたつもりが、春樹にジト目で睨まれる。
だが本当のことだ。いや、本当だからこそ春樹もムキになっているのかもしれない。
「大樹、仕方ないよ。お兄さんが大樹を心配するの、わかるもん」
「ルナ……。優しいな! 春兄と違って♪」
「……大樹、もう食事作らないぞ?」
「んなぁ!? ご、ごめんって! ジョーダンに決まってんだろーっ!?」
悲鳴を上げるが、春樹は涼しい顔をして聞かぬフリ。
ルナとギャラが思わず吹き出す。
その場の雰囲気がとたんに和やかになった。
――“タス……ケテ……”
「……ん?」
ふと聞こえた声。それは本当に小さく、聞き逃してもおかしくないほどで。
一瞬空耳かと思った。
だが、ルナとギャラも顔を見合わせている。
獣の耳を持った二人にははっきりと聞こえたのだ。
「獲物のにおい、だな」
ボソリと呟いたギャラが駆け出す。その際に見えた横顔は妙に楽しげだった。
「ギャラ!?」
「おっとルナ。横取りはすんなよ?」
「しないけど!」
「なら目、閉じとけよ」
「……わかってる……」
ギャラを追うルナの足がピタリと止まった。
反射的に追っていた大樹、春樹も慌てて止まる。
だが、ギャラはそのまま草陰の向こうへと姿を消した。
――“タスケテ……”
また聞こえる。今度はもっと近い。
(……ギャラが行った方か?)
首を傾げ、大樹は茂みを掻き分けた。
少々手こずりながらも向こう側へ出る。
「あ」
そこにいたのは、一頭の小鹿だった。
怪我をして歩けないのだろう、苦しそうに佇んでいる。
こちらに向けた瞳には怯えを浮かべながら。
「うあ、血出てるじゃん! 早く手当てしてやんねぇと……」
「――やりぃ」
「え?」
奇妙な声に顔を上げると、ギャラが口角を上げて立っている。
その声の低さ、そして紺碧の瞳が真っ赤になっていることに背筋が凍った。
「ギャラ……」
「来んなチビ。俺の邪魔をしたら食うぜ」
言うより早くギャラが飛び出した。
素早く小鹿の正面にまで駆け出し、その首を荒々しくつかむ。
小鹿がつらそうに悲鳴を上げた。
「何す……」
どすっ――
(え……!?)
手刀が、小鹿へ食い込んだ。散る血。悲鳴。
ギャラが――小鹿の首へ食らいつく。
「何っ……」
あまりのことに言葉を失った。
遅れてやって来た春樹も、青ざめたように口元を覆ったまま動かない。
小鹿が暴れる。もがく。
けれどギャラは離さない。
さらに食いちぎり、とどめを刺すかのように牙を突き立てる。
小鹿が――甲高い声を上げた。
「やっ……!」
大樹は反射的に耳をふさいだ。きつく目を閉じる。だが震えは止まらない。
「大樹……? 大丈夫か!?」
「や……っ、春に……!」
「大樹!?」
「痛いっ……」
「え……」
「声――痛い……っ!!」
小鹿の声が。叫びが。
言葉となって――痛みとなって流れ込んでくる!
「……大樹、息吸って。肩の力抜いて。“力”が乱れてるから集中しないと……」
「……っ!!」
何とか落ち着かせようとする春樹に激しく首を振る。
自分でも“力”が暴動しているのはわかった。けれど止められない。
息を吸えば生臭い血のにおいが。力を抜こうとすれば貫くような小鹿の痛みが。容赦なく襲いかかってくる。
――ふいに、思い切り腕を引っ張られた。
「! ……ルナっ……」
「ここから離れて。早く」
「でもあの鹿がっ……」
「…………」
ルナは何も言わなかった。ただ大樹を引っ張っていく。
不思議と、力の暴動が落ち着いたような気がした。
『……獣人はね、血を見ると理性が一気にコントロール出来なくなるの』
ふいに思い出された言葉が、何だかやけに悲しかった。




