プロローグ 7月下旬
ジリジリと暑い日差し。ムッとした熱気。耳に刺さる蝉の声。
どれもが精一杯に「夏だ!」と主張していて、日向春樹は思わず大きなため息をついた。
――暑い。心の底から暑い。
「茹でられる……」
「美味しそうだね!」
「わぁ!?」
ゴッ……
どこか鈍い音がし、春樹は一拍遅れて我に返った。ほんの少し血の気が引く。
「は……隼人くん! ごめん! 大丈夫!?」
「Oh……まさか辞書の角で殴られるとは思わなかったよ」
そう言って頭をさすったのは咲夜隼人。
彼はこの暑さでもいつも通り変人だ。それは先程春樹に抱きついてきたことからもよくわかる。
春樹が反射的に辞書で殴ってしまったのもある程度は仕方ないだろう。まあその理由にも色々あるだろうが、何よりも暑苦しいのだ、本当に。
「ところで春樹クン……春樹クンの成績表って模範生でつまらないね」
「って何勝手に見てるの!?」
どこから取り出したのか謎な自分の成績表を奪い取る。全く油断も隙もない。しかもかなり余計なお世話だ!
「蛍クンはどうだった?」
「は?」
帰り支度をしていた杉里蛍は、彼の机の上に鞄を置いた。その重みにか、それとも隼人の質問に対してか。顔をしかめる。
「体育くらいだな、良かったのは」
「スポーツマンだねぇ」
「別に……」
「あ、スポーツバカって言った方が良かったかい?」
「…………」
おどける隼人を、蛍がジロリと睨みつける。
しかし隼人の相手をするのは疲れると判断したのだろう、彼は取り合わず教室の外へ向かった。
「じゃあな」
「ええ!? 蛍クンもう帰るの!?」
「ああ。空手の練習もあるし」
「もう会えないんだからもう少し話そうよ!」
「……今生の別れじゃないんだから」
苦笑し、春樹は隼人を遮った。蛍に笑顔を向ける。
「またね。空手頑張って」
「……ああ」
小さくうなずき、そのまま教室を出ていく。
そんな態度に、「杉里くんらしいな」と春樹はしみじみ思ったりした。彼は口下手であまり感情を表に出さないのだ。
「さて……僕もそろそろ帰らなきゃ」
「春樹クンも!?」
「……そんな顔しないでよ」
好きな人に振られ、それでも相手を引き止めようとする顔や声をされても困る。何だかこちらが悪者になった気分ではないか。
「うぅ……また会うまで、オレのこと忘れないでくれよ!」
「ハイハイ」
大袈裟な隼人に笑い、春樹はようやく教室を後にした。
◇ ◆ ◇
外はますます太陽が近いようだった。
光が直接刺さってくるようで、春樹は一人、ため息をつく。
しかし――どんなに暑くても、心のどこかでは浮かれそうな自分がいるのも確かだった。家に近づくたびにその浮かれ具合は膨らんでくる。
と。
「春兄――っ!」
ふいに後ろから弟――日向大樹の声が響いた。
小六の彼は、平均より一回りは小さいだろう姿で一生懸命駆けてくる。彼が一歩進むごとに、彼の荷物がドコドコと悲鳴を上げた。
「あっ!?」
どさっ、バサバサッ
――彼が何かにつまずいた瞬間、彼の荷物は見事に道へぶちまけられた。
当の大樹は荷物に埋もれたようにその場に突っ伏している。
「……いってぇー」
「何やってるんだよ……」
呆れてため息しか出ない。毎度恥ずかしい奴だ。
「効率良く持って帰ってこいよ。何で毎年、終業式の日に全部持って帰ろうとするわけ?」
「うっ」
さすがに六年目にもなると学習してほしい。これは大樹自身のためにも。
「そ、それよりさ」
ぶちまけた荷物を掻き集めながら、大樹が笑顔で見上げてきた。
仕方なく拾うのを手伝っていた春樹は首を傾げる。
「帰ったら倭鏡に行くんだろ?」
「うん、そのつもりだけど……」
「泊まり?」
「しばらくはね」
「やたっ♪」
予想通りの答えに満足したのか、大樹がさらに笑顔になった。ガッツポーズまでし始める。
「よっしゃ、いっぱい遊ぶぞ~っ」
「宿題もやれよ……?」
毎年お馴染みのセリフを呟き、春樹は小さく笑った。眩しい空を見る。それははっきりと夏の色で、浮かれた子供の心を映すかのように広々としていた。
――そう、今日から夏休みなのだ。




