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倭鏡伝  作者: あずさ
8話「過去と未来の狭間に眠れ」
71/153

7封目 瀬名の生きた世界

 信じられなかった。けれどソレは目の前にいて。


「みい……?」


 葉は幻覚だと言った。しっかりしろと。ここには猫などいないと。

 なら――コレは、何?


 ――“ダイキ”

「みい……!」


 みいだ。

 ――みいだ!

 自分の名を呼んだ。笑って呼んでくれた!


「みい! 何で……!?」


 駆け寄ろうとし、けれどそれは叶わなかった。こちらを見上げるみいの瞳に足が強張る。

 その瞳はなぜか妙に悲しげで、そして……はっきりと自分を責めていた。


 ――“ダイキ……ボクね、とっても痛いの”

「え……?」

 ――“死んじゃってとっても、とっても痛いの”

「……!」


 みいの言葉に記憶が雪崩れ込んでくる。


 それは今にも雨が降り出しそうな日。

 迫ってきた水の塊。

 目の前で倒れているみいの姿。

 軽くて小さなその身体。

 抱き上げたときはまだ温もりがあって、けれど動かなくなって、ゆっくり、ゆっくりと温もりが消えていって――。


「や……だ……」


 嫌だ。死んだなんて嫌だ。だってみいはここにいる。ここにいる!


 ――“……ダイキのせいだよ?”

「み、い?」

 ――“ダイキのせいで……ボクが死んじゃったんだ”

「――っ!」


 立っていられなかった。震えが止まらない。

 そんな自分にみいはそっと近づいてきた。触れはしないで見上げてくる。やはり悲しそうな瞳で。


 ――“何でボクが死んじゃって……ダイキがそこにいるんだろ……”

「…………っ」

 ――“ボク、……死にたくなかったよ。生きてね、もっと遊びたかったの。……美花ちゃんにももう一度会いたかった……”


 美花。みいの元の飼い主。

 その名を聞いて――何かが、ぷっつりと切れてしまったような気がした。


「ごめん……」

 ――“ダイキ?”

「ごめんっ……! みい、オレ……ごめっ……ごめんなさい……っ!」


 ごめんなさい。ごめんなさい。

 何度言っても言い足りないけれど。


「ごめん……なさい……っ」


 絞り出すと、ふと何かが自分に触れた。それがみいの前足だと気づく。小さなそれは、気のせいなのか微かに温もりを伝えているようだった。

 その温もりにすがりつきたい衝動に駆られたが、体は思うように動かない。すると微かにみいの前足に力が込められたような気がした。


 ――“……ダイキ。ボクと……一緒に来てくれる?”

「……え……?」

 ――“ボクね、独りじゃ寂しいの”


 そう言ったみいがはにかんだように微笑う。その笑顔は思いがけず優しく、大樹は何も考えられないままうなずいた。

 みいがまた微笑う。ふわりと柔らかく。


 ――“ダイキが一緒ならもう寂しくないよ”

「みい……」

 ――“ホラ。行こう?”


 もう一度うなずく。が。


 ――“違ウ……”


 どこからか別の声が響き、大樹はぼんやりと顔を上げた。

 もう何も考えられない。考えたくない。

 けれどその声は容赦なく耳に訴えてくる。


 ――“ソレハ違ウ……”

「ちがう……?」

 ――“ダイキ?”


 呼ばれ、大樹はみいを見下ろした。

 しばらく見つめている内に、ふと言葉を思い出す。

 それは父がくれた言葉。


『忘れてはいけないよ』

『守ろうとする気持ちや、信じる気持ち、優しさ。それに……おまえに向けた想いも。忘れるな。おまえのためにも、その子猫のためにも』

『その子猫の存在も、想いも。おまえが覚え、受け止めていることで……きっと、意味を持つから。おまえの中に残るから。だから……忘れるんじゃないよ』


 そして――みいがくれた言葉。


『ねえ、ダイキ。泣かないでよ。笑ってよ』

『ダイキが泣いたら……ボクも悲しいよ』

『ボクね、ダイキのことスキだよ。ダイスキだよ』


 ダイスキだよ――。


「……ちが……う。みいじゃない!」

 ――“ダイキ?”

「みいは! みいはおまえじゃないっ……」


 みいだったらあんなことは言わない。

 みいは最後まで自分のことを気にかけてくれた。そして最後まで自分を好きでいてくれた。

 だからこそ自分も「ありがとう」を伝えたかったのだ。

 精一杯の気持ちを込めて「ありがとう」と。


 ――“ダイキ。何言ってるの?”

 違う。ちがうちがうちがう!

 ――“ダイ……”

「おまえは誰だっ!?」


 ――叫ぶと、ソレは霧になって消えた。

 半ばボーゼンとし、荒くなってしまった息で周りを見回す。そこには猫の姿など一つも見当たらなかった。


「……幻覚?」


 葉の言う通り本当に幻覚だったのだろうか。

 しかしあそこまではっきり見えて、しかもあんなに話したのに?


「……みい……」


 呟き、振り払うように首を振る。

 しかし微かな温もりがまだ残っているようで、拳をぎゅっと握り締めた。

 すると軽く肩に手を置かれたような気がして、大樹は反射的に振り向いた。



◇ ◆ ◇



 ソレは、変わらず微笑んでいた。何度も見てきた笑顔で。忘れられなかった笑顔で。


「……瀬名……なのか?」


 あまりのことに言葉が震えた。

 そんな自分より少々幼い彼はそっと微笑う。眼鏡の奥で瞳を細めて。


 ――“ひどいな。もう、僕の顔を忘れたの?”

「瀬名……」

 ――“葉。……久しぶりだね”


 久しぶり。

 それはそうなのだろう。彼の死からもう三年も経った。それともまだ三年と言うべきなのか。


(何なんだ?)


 痛んできた頭の中で一人自問する。そうしている間にも、目の前のソレが消えることはなかった。

 大樹に言ったように幻覚か? それとも夢? まさか――幽霊?


 ――“葉、変な顔してる”

「うるせえ。元からこんな顔だ」


 舌打ちすると、彼はクスクスと楽しげに笑った。

 つられたように葉の肩の力も抜けてくる。まるで昔のように。


 くだらないことを言っては笑い合った。

 時には真面目な話だってした。

 そうしながら空を眺めていたあの頃――。


 ――“……葉、ごめんね”

「あ?」

 ――“僕のせいで……たくさん苦しめたね”

「……何言って……」


 ふいに鼓動が速まった。背筋に冷たいものが這い回る。何度も何度も。

 それは警鐘なのか、果たして。


「あれはおまえのせいじゃない。そうだろ?」

 ――“じゃあ……葉のせいなの?”

「……っ!?」

 ――“ねえ。僕が死んだのは……葉のせい?”


 悲しげに瀬名が笑う。

 葉は彼から目を逸らした。そんな顔の彼は見たくない。その願いがただの我侭だとしても。


 ――“……葉。約束、したよね? 力は使わないって……”

「あれは……」

 ――“僕、信じてたのに。どうして……? あの約束は、葉にとってどうでもいいものだったの?”

「違っ……瀬名!」


 また? また繰り返しなのか?

 どうしてそこで時が止まってしまったのだ。どうして先に進まない!


 ――“ねえ、葉。葉はどうして……どうして僕を裏切ったの……?”

「……瀬名、俺は」

 ――“どうしてこっち、見てくれないの? そんなの葉らしくない。後ろめたいから……? だからなの? ねえ!”


 まくしたててくる彼に心が痛む。

 ――後ろめたい? それはあるかもしれない。けれど、それ以上に。


「瀬名。俺は……おまえに会いたくなかったよ……」

 ――“え……”


 こうして瀬名の姿を見たとき、初めは驚愕の中にも一種の喜びを感じた。半信半疑ながらも、懐かしい彼の姿に淡い何かを期待した。

 だが――そのすぐ後に襲ってきたものは、ただの絶望でしかなかった。


「だってそうだろ?」


 低く、自嘲気味に呟く。泣き笑いを無理に歪めた苦笑が消えない。


「おまえがここにいるってことは……今でも成仏出来ていない証拠だ」

 ――“…………”

「おまえが死んだ理由なんて、正直よくわかんなくなっちまった。けど……おまえがここにいる理由は、きっと俺のせいなんだろうな」


 今でも彼が苦しみ続けているのなら、それはきっと、葉のせい――。


「俺は一体、何をすればいい?」


 それは何度も思ってきたこと。

 一体彼は何を望んでいた? 自分は何をすれば良かった?


「償いは、今からでも出来るのか……?」

 ――“……もちろんだよ”


 ふっと瀬名が微笑む。彼はこちらへ手を差し伸べた。色白い手。


「…………」


 この手をつかめば、彼が救われるというのだろうか……?

 ――わからない。けれど。


「だ……ダメぇ――――っ!」

「!」


 ふいに衝撃を感じ、葉はハッと我に返った。


「な、……チビ樹?」


 見下ろせば、大樹が腰にしっかりしがみついている。あの衝撃は彼のタックルによるもののようだ。


「チビ樹。おまえ何して……」

「葉兄のアホ――――ッ!」

「あ゛?」

「だって葉兄、消えちゃうかもしれないって……! いっちゃうかもしれないって!」

「あー……わかった。わかったから泣くな。つかきついから手ぇ離せ」


 ため息をついて促す。オーバーなほど涙目になっている大樹に肩をすくめ、改めて瀬名に向き直った。ぶち壊れた雰囲気に小さく笑ってしまう。

 瀬名は、ただじっとこちらを見つめていた。


「……悪いな。そういうわけで、おまえと一緒に行くのは無理みたいだ」

 ――“葉……”

「――もう、お別れだ」


 呟き、部屋の隅に封御を投げつける。

 それは勢いを得、枯れそうな植物へと寸分狂わず突き刺さった。


 カッ――!

 部屋の中は光で覆われ、しかしすぐに元に戻る。

 そこには葉と大樹、転がりでた玉、完璧に枯れきった植物だけが残っていた。

「葉兄……気づいてたのか? 渡威だって?」


 ポカンとした表情で大樹がこちらを見上げてくる。

 葉は玉を拾い上げ、複雑な表情で肩をすくめた。


「まあ、割と早い内にな。入る前から封御の反応はあったんだし当然だろ?」

「でも何であの花に憑いてるって……」

「入ってすぐ、妙に甘いにおいがしてたからよ。こんな枯れた花があそこまでにおいを放つなんて、普通じゃねぇからな」


 正体がわかっていても、少し危険ではあったけれど。


「チビ樹こそどうした? あそこで止めに来るなんてよ」


 周りからはきちんと状況を把握出来なかったはずだ。葉にみいが見えなかったように、大樹に瀬名の姿は見えていなかっただろう。それに、大樹は大樹で大変だったに違いない。

 すると大樹は首を傾げた。曖昧な表情で、先ほどまで彼自身がいた場所を見る。


「うん……声、聞こえたような気がして」

「声?」

「オレがみいを見てたときに、それは違うって教えてくれたんだ。その後、葉兄が消えちゃいそうだから助けてあげて、って」

「…………」

「あ、それと……」

「まだあるのか?」

「今回は特別出張だって」

「は……?」


 目を丸くし――ふいに笑いが込み上げてくる。


(ったく、敵わねぇな)


 大樹の聞いた声が何なのか、はっきりと断定することは出来ない。可能性は低いが空耳ということも有り得るのだ。

 それでも、きっと瀬名は大丈夫なのだろう。何せ特別出張ときたもんだ。


(こんなことでもなきゃ、下りてくる必要なんてないってか?)


 それは彼に未練がないからなのか。自分を信用してくれているのか。

 ――何にせよ、強い奴だ。


「……さ、封印も済んだし戻ろうぜ。春樹たちが待ちくたびれてる」

「おう! 外も暗くなってそうだしな♪」


 大樹が笑顔で駆け出す。妙に外の暗さにこだわる彼に、葉は一人首を傾げた。



◇ ◆ ◇



「あ、おかえりなさい」


 そう笑顔で迎えられ、葉は曖昧に笑い返した。

 大樹がセーガの姿を見つけ、跳ねるように駆けていく。


「セーガ! 久しぶりーっ」

「……何でわざわざセーガを出した?」

「えっと……まあ、こっちにも色々あって」


 首を傾げた自分に春樹が苦笑する。

 歯切れの悪い返事にさらに首を捻ったが、それ以上答える様子が見られなかったので、葉はあまり気にしないでおくことにした。その辺の割り切りは早い方だ。


「渡威は封印出来たの?」

「まあな」


 うなずき、春樹に封御を渡す。

 受け取った彼はどこかホッとしたように「お疲れ様」と笑顔を向けてきた。


「で? 結局瀬名の見せたいものって何なんだ?」


 頭を掻いて三人を見回す。渡威の件でうっかり忘れてしまいそうになったが、本当の目的はそれを確かめるためだったのだ。しかしこれといってそれらしきものなどない。

 怪訝に思っていると、ふいに拓真が動いた。どこかぼんやりした様子の彼はそっと空を指差す。彼自身も目をそこへ向けて。


「上……見てみなよ」

「あ? 何――」


 空一杯に煌く星――。


 普段では見えないような光景が、そこにはあった。

 街灯もないここだからこそそれははっきりと存在を主張していて。


 圧倒される。


「……葉兄、よく瀬名さんと空を見てたんだよね?」

「あ? ああ……」

「だからきっと、この光景を葉兄にも見せたかったんだろうね。……屋上の空を分けてもらったお礼がしたかったんだ」


 微笑まれ、そっと目を細める。何だか信じられなかった。あまりの強烈さに実感が湧いてこない。


「兄貴は……あんたに出会えたこと、本当に感謝してたんだね」

「拓真?」

「だってそうでしょ? あんたに会えたことに感謝して、嬉しくて。だからこんな……」

「…………」


 きらり。きらり。星が静かに瞬く。


「あのな、瀬名、葉兄に言いたいこともあったんだぜ?」

「言いたいこと……?」

「そっ。ユキちゃんに教えてもらったんだけどさ」


 ユキちゃん。その名前には聞き覚えがあった。大樹の幼馴染みだ。妙にのんびりしていた印象がある。

 しかし、彼と瀬名に何の関係が?


「ユキちゃん、瀬名に会ったことがあるんだって」

「……何だって?」

「ユキちゃんも空とか星見るの好きでさ。よく家族で星見に行ったりするんだよな。オレも何回か連れてってもらったことあるし」

「それでここに来たとき、瀬名さんと会ったらしいんだ。意気投合したみたいで色々話したって言ってたよ」


 弟たちの補足に目を丸くする。そんなところに繋がりがあるなど思いもしなかった。世界は案外狭いものだと妙に感心してしまう。


「……そのときに俺の話が出たってことか?」

「……うん」


 うなずき、春樹がそっと空を見上げた。

 言おうとし――拓真が春樹の肩に手を置く。


「俺に言わせて?」

「……そうですね」


 微笑んだ春樹は素直に拓真に従った。譲ってもらった拓真は一呼吸置き、静かに、慎重に口を開く。まるで壊れ物を扱うかのように。


「『ここも、こんなに空は広がっているから。そんなに悪いことばかりじゃないよ。きっとここにしかないものもあるよ。だからこっちの世界のことも……少しでも好きになってほしいな』」


 瀬名の生きた、この世界のことも――……。


 よく、こちらの世界は窮屈だと漏らしたことがある。

 それは事実だったし、今でもその考えはあまり変わっていない

 けれど瀬名は、そのことを気にかけていたのだろうか。


「……オレ、倭鏡の空ってすっげーきれいだと思ってたけど。こっちにも、そーゆうのっていっぱいあるんだなっ」

「……そう、だな」


 笑顔を向けてきた大樹にぎこちなく返す。それからポツリと呟いた。


「……渡威がたくさんいた理由、わかった気がするな……」

「……そうだね」


 察した春樹が小さく笑う。

 ――音もなく流れ星が流れた。


「……この場所自体が、きっと瀬名さんの想いで強かったんだよ」

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