7封目 瀬名の生きた世界
信じられなかった。けれどソレは目の前にいて。
「みい……?」
葉は幻覚だと言った。しっかりしろと。ここには猫などいないと。
なら――コレは、何?
――“ダイキ”
「みい……!」
みいだ。
――みいだ!
自分の名を呼んだ。笑って呼んでくれた!
「みい! 何で……!?」
駆け寄ろうとし、けれどそれは叶わなかった。こちらを見上げるみいの瞳に足が強張る。
その瞳はなぜか妙に悲しげで、そして……はっきりと自分を責めていた。
――“ダイキ……ボクね、とっても痛いの”
「え……?」
――“死んじゃってとっても、とっても痛いの”
「……!」
みいの言葉に記憶が雪崩れ込んでくる。
それは今にも雨が降り出しそうな日。
迫ってきた水の塊。
目の前で倒れているみいの姿。
軽くて小さなその身体。
抱き上げたときはまだ温もりがあって、けれど動かなくなって、ゆっくり、ゆっくりと温もりが消えていって――。
「や……だ……」
嫌だ。死んだなんて嫌だ。だってみいはここにいる。ここにいる!
――“……ダイキのせいだよ?”
「み、い?」
――“ダイキのせいで……ボクが死んじゃったんだ”
「――っ!」
立っていられなかった。震えが止まらない。
そんな自分にみいはそっと近づいてきた。触れはしないで見上げてくる。やはり悲しそうな瞳で。
――“何でボクが死んじゃって……ダイキがそこにいるんだろ……”
「…………っ」
――“ボク、……死にたくなかったよ。生きてね、もっと遊びたかったの。……美花ちゃんにももう一度会いたかった……”
美花。みいの元の飼い主。
その名を聞いて――何かが、ぷっつりと切れてしまったような気がした。
「ごめん……」
――“ダイキ?”
「ごめんっ……! みい、オレ……ごめっ……ごめんなさい……っ!」
ごめんなさい。ごめんなさい。
何度言っても言い足りないけれど。
「ごめん……なさい……っ」
絞り出すと、ふと何かが自分に触れた。それがみいの前足だと気づく。小さなそれは、気のせいなのか微かに温もりを伝えているようだった。
その温もりにすがりつきたい衝動に駆られたが、体は思うように動かない。すると微かにみいの前足に力が込められたような気がした。
――“……ダイキ。ボクと……一緒に来てくれる?”
「……え……?」
――“ボクね、独りじゃ寂しいの”
そう言ったみいがはにかんだように微笑う。その笑顔は思いがけず優しく、大樹は何も考えられないままうなずいた。
みいがまた微笑う。ふわりと柔らかく。
――“ダイキが一緒ならもう寂しくないよ”
「みい……」
――“ホラ。行こう?”
もう一度うなずく。が。
――“違ウ……”
どこからか別の声が響き、大樹はぼんやりと顔を上げた。
もう何も考えられない。考えたくない。
けれどその声は容赦なく耳に訴えてくる。
――“ソレハ違ウ……”
「ちがう……?」
――“ダイキ?”
呼ばれ、大樹はみいを見下ろした。
しばらく見つめている内に、ふと言葉を思い出す。
それは父がくれた言葉。
『忘れてはいけないよ』
『守ろうとする気持ちや、信じる気持ち、優しさ。それに……おまえに向けた想いも。忘れるな。おまえのためにも、その子猫のためにも』
『その子猫の存在も、想いも。おまえが覚え、受け止めていることで……きっと、意味を持つから。おまえの中に残るから。だから……忘れるんじゃないよ』
そして――みいがくれた言葉。
『ねえ、ダイキ。泣かないでよ。笑ってよ』
『ダイキが泣いたら……ボクも悲しいよ』
『ボクね、ダイキのことスキだよ。ダイスキだよ』
ダイスキだよ――。
「……ちが……う。みいじゃない!」
――“ダイキ?”
「みいは! みいはおまえじゃないっ……」
みいだったらあんなことは言わない。
みいは最後まで自分のことを気にかけてくれた。そして最後まで自分を好きでいてくれた。
だからこそ自分も「ありがとう」を伝えたかったのだ。
精一杯の気持ちを込めて「ありがとう」と。
――“ダイキ。何言ってるの?”
違う。ちがうちがうちがう!
――“ダイ……”
「おまえは誰だっ!?」
――叫ぶと、ソレは霧になって消えた。
半ばボーゼンとし、荒くなってしまった息で周りを見回す。そこには猫の姿など一つも見当たらなかった。
「……幻覚?」
葉の言う通り本当に幻覚だったのだろうか。
しかしあそこまではっきり見えて、しかもあんなに話したのに?
「……みい……」
呟き、振り払うように首を振る。
しかし微かな温もりがまだ残っているようで、拳をぎゅっと握り締めた。
すると軽く肩に手を置かれたような気がして、大樹は反射的に振り向いた。
◇ ◆ ◇
ソレは、変わらず微笑んでいた。何度も見てきた笑顔で。忘れられなかった笑顔で。
「……瀬名……なのか?」
あまりのことに言葉が震えた。
そんな自分より少々幼い彼はそっと微笑う。眼鏡の奥で瞳を細めて。
――“ひどいな。もう、僕の顔を忘れたの?”
「瀬名……」
――“葉。……久しぶりだね”
久しぶり。
それはそうなのだろう。彼の死からもう三年も経った。それともまだ三年と言うべきなのか。
(何なんだ?)
痛んできた頭の中で一人自問する。そうしている間にも、目の前のソレが消えることはなかった。
大樹に言ったように幻覚か? それとも夢? まさか――幽霊?
――“葉、変な顔してる”
「うるせえ。元からこんな顔だ」
舌打ちすると、彼はクスクスと楽しげに笑った。
つられたように葉の肩の力も抜けてくる。まるで昔のように。
くだらないことを言っては笑い合った。
時には真面目な話だってした。
そうしながら空を眺めていたあの頃――。
――“……葉、ごめんね”
「あ?」
――“僕のせいで……たくさん苦しめたね”
「……何言って……」
ふいに鼓動が速まった。背筋に冷たいものが這い回る。何度も何度も。
それは警鐘なのか、果たして。
「あれはおまえのせいじゃない。そうだろ?」
――“じゃあ……葉のせいなの?”
「……っ!?」
――“ねえ。僕が死んだのは……葉のせい?”
悲しげに瀬名が笑う。
葉は彼から目を逸らした。そんな顔の彼は見たくない。その願いがただの我侭だとしても。
――“……葉。約束、したよね? 力は使わないって……”
「あれは……」
――“僕、信じてたのに。どうして……? あの約束は、葉にとってどうでもいいものだったの?”
「違っ……瀬名!」
また? また繰り返しなのか?
どうしてそこで時が止まってしまったのだ。どうして先に進まない!
――“ねえ、葉。葉はどうして……どうして僕を裏切ったの……?”
「……瀬名、俺は」
――“どうしてこっち、見てくれないの? そんなの葉らしくない。後ろめたいから……? だからなの? ねえ!”
まくしたててくる彼に心が痛む。
――後ろめたい? それはあるかもしれない。けれど、それ以上に。
「瀬名。俺は……おまえに会いたくなかったよ……」
――“え……”
こうして瀬名の姿を見たとき、初めは驚愕の中にも一種の喜びを感じた。半信半疑ながらも、懐かしい彼の姿に淡い何かを期待した。
だが――そのすぐ後に襲ってきたものは、ただの絶望でしかなかった。
「だってそうだろ?」
低く、自嘲気味に呟く。泣き笑いを無理に歪めた苦笑が消えない。
「おまえがここにいるってことは……今でも成仏出来ていない証拠だ」
――“…………”
「おまえが死んだ理由なんて、正直よくわかんなくなっちまった。けど……おまえがここにいる理由は、きっと俺のせいなんだろうな」
今でも彼が苦しみ続けているのなら、それはきっと、葉のせい――。
「俺は一体、何をすればいい?」
それは何度も思ってきたこと。
一体彼は何を望んでいた? 自分は何をすれば良かった?
「償いは、今からでも出来るのか……?」
――“……もちろんだよ”
ふっと瀬名が微笑む。彼はこちらへ手を差し伸べた。色白い手。
「…………」
この手をつかめば、彼が救われるというのだろうか……?
――わからない。けれど。
「だ……ダメぇ――――っ!」
「!」
ふいに衝撃を感じ、葉はハッと我に返った。
「な、……チビ樹?」
見下ろせば、大樹が腰にしっかりしがみついている。あの衝撃は彼のタックルによるもののようだ。
「チビ樹。おまえ何して……」
「葉兄のアホ――――ッ!」
「あ゛?」
「だって葉兄、消えちゃうかもしれないって……! いっちゃうかもしれないって!」
「あー……わかった。わかったから泣くな。つかきついから手ぇ離せ」
ため息をついて促す。オーバーなほど涙目になっている大樹に肩をすくめ、改めて瀬名に向き直った。ぶち壊れた雰囲気に小さく笑ってしまう。
瀬名は、ただじっとこちらを見つめていた。
「……悪いな。そういうわけで、おまえと一緒に行くのは無理みたいだ」
――“葉……”
「――もう、お別れだ」
呟き、部屋の隅に封御を投げつける。
それは勢いを得、枯れそうな植物へと寸分狂わず突き刺さった。
カッ――!
部屋の中は光で覆われ、しかしすぐに元に戻る。
そこには葉と大樹、転がりでた玉、完璧に枯れきった植物だけが残っていた。
「葉兄……気づいてたのか? 渡威だって?」
ポカンとした表情で大樹がこちらを見上げてくる。
葉は玉を拾い上げ、複雑な表情で肩をすくめた。
「まあ、割と早い内にな。入る前から封御の反応はあったんだし当然だろ?」
「でも何であの花に憑いてるって……」
「入ってすぐ、妙に甘いにおいがしてたからよ。こんな枯れた花があそこまでにおいを放つなんて、普通じゃねぇからな」
正体がわかっていても、少し危険ではあったけれど。
「チビ樹こそどうした? あそこで止めに来るなんてよ」
周りからはきちんと状況を把握出来なかったはずだ。葉にみいが見えなかったように、大樹に瀬名の姿は見えていなかっただろう。それに、大樹は大樹で大変だったに違いない。
すると大樹は首を傾げた。曖昧な表情で、先ほどまで彼自身がいた場所を見る。
「うん……声、聞こえたような気がして」
「声?」
「オレがみいを見てたときに、それは違うって教えてくれたんだ。その後、葉兄が消えちゃいそうだから助けてあげて、って」
「…………」
「あ、それと……」
「まだあるのか?」
「今回は特別出張だって」
「は……?」
目を丸くし――ふいに笑いが込み上げてくる。
(ったく、敵わねぇな)
大樹の聞いた声が何なのか、はっきりと断定することは出来ない。可能性は低いが空耳ということも有り得るのだ。
それでも、きっと瀬名は大丈夫なのだろう。何せ特別出張ときたもんだ。
(こんなことでもなきゃ、下りてくる必要なんてないってか?)
それは彼に未練がないからなのか。自分を信用してくれているのか。
――何にせよ、強い奴だ。
「……さ、封印も済んだし戻ろうぜ。春樹たちが待ちくたびれてる」
「おう! 外も暗くなってそうだしな♪」
大樹が笑顔で駆け出す。妙に外の暗さにこだわる彼に、葉は一人首を傾げた。
◇ ◆ ◇
「あ、おかえりなさい」
そう笑顔で迎えられ、葉は曖昧に笑い返した。
大樹がセーガの姿を見つけ、跳ねるように駆けていく。
「セーガ! 久しぶりーっ」
「……何でわざわざセーガを出した?」
「えっと……まあ、こっちにも色々あって」
首を傾げた自分に春樹が苦笑する。
歯切れの悪い返事にさらに首を捻ったが、それ以上答える様子が見られなかったので、葉はあまり気にしないでおくことにした。その辺の割り切りは早い方だ。
「渡威は封印出来たの?」
「まあな」
うなずき、春樹に封御を渡す。
受け取った彼はどこかホッとしたように「お疲れ様」と笑顔を向けてきた。
「で? 結局瀬名の見せたいものって何なんだ?」
頭を掻いて三人を見回す。渡威の件でうっかり忘れてしまいそうになったが、本当の目的はそれを確かめるためだったのだ。しかしこれといってそれらしきものなどない。
怪訝に思っていると、ふいに拓真が動いた。どこかぼんやりした様子の彼はそっと空を指差す。彼自身も目をそこへ向けて。
「上……見てみなよ」
「あ? 何――」
空一杯に煌く星――。
普段では見えないような光景が、そこにはあった。
街灯もないここだからこそそれははっきりと存在を主張していて。
圧倒される。
「……葉兄、よく瀬名さんと空を見てたんだよね?」
「あ? ああ……」
「だからきっと、この光景を葉兄にも見せたかったんだろうね。……屋上の空を分けてもらったお礼がしたかったんだ」
微笑まれ、そっと目を細める。何だか信じられなかった。あまりの強烈さに実感が湧いてこない。
「兄貴は……あんたに出会えたこと、本当に感謝してたんだね」
「拓真?」
「だってそうでしょ? あんたに会えたことに感謝して、嬉しくて。だからこんな……」
「…………」
きらり。きらり。星が静かに瞬く。
「あのな、瀬名、葉兄に言いたいこともあったんだぜ?」
「言いたいこと……?」
「そっ。ユキちゃんに教えてもらったんだけどさ」
ユキちゃん。その名前には聞き覚えがあった。大樹の幼馴染みだ。妙にのんびりしていた印象がある。
しかし、彼と瀬名に何の関係が?
「ユキちゃん、瀬名に会ったことがあるんだって」
「……何だって?」
「ユキちゃんも空とか星見るの好きでさ。よく家族で星見に行ったりするんだよな。オレも何回か連れてってもらったことあるし」
「それでここに来たとき、瀬名さんと会ったらしいんだ。意気投合したみたいで色々話したって言ってたよ」
弟たちの補足に目を丸くする。そんなところに繋がりがあるなど思いもしなかった。世界は案外狭いものだと妙に感心してしまう。
「……そのときに俺の話が出たってことか?」
「……うん」
うなずき、春樹がそっと空を見上げた。
言おうとし――拓真が春樹の肩に手を置く。
「俺に言わせて?」
「……そうですね」
微笑んだ春樹は素直に拓真に従った。譲ってもらった拓真は一呼吸置き、静かに、慎重に口を開く。まるで壊れ物を扱うかのように。
「『ここも、こんなに空は広がっているから。そんなに悪いことばかりじゃないよ。きっとここにしかないものもあるよ。だからこっちの世界のことも……少しでも好きになってほしいな』」
瀬名の生きた、この世界のことも――……。
よく、こちらの世界は窮屈だと漏らしたことがある。
それは事実だったし、今でもその考えはあまり変わっていない
けれど瀬名は、そのことを気にかけていたのだろうか。
「……オレ、倭鏡の空ってすっげーきれいだと思ってたけど。こっちにも、そーゆうのっていっぱいあるんだなっ」
「……そう、だな」
笑顔を向けてきた大樹にぎこちなく返す。それからポツリと呟いた。
「……渡威がたくさんいた理由、わかった気がするな……」
「……そうだね」
察した春樹が小さく笑う。
――音もなく流れ星が流れた。
「……この場所自体が、きっと瀬名さんの想いで強かったんだよ」




