5封目 悪趣味と青い炎
「ん……」
ぼんやりと霧のかかった頭で、春樹はうっすらと目を開けた。
最初に感じた埃っぽさに顔をしかめたのも束の間、見慣れない光景に急速に意識が色づく。
(ここ……!? ――うわっ)
慌てて起き上がろうとし、後手に縛られていることに気づいた。
何が何だかわからず、どっと混乱が押し寄せてくる。
危うくパニックを起こしかけ、ひとまず深呼吸することで落ち着こうと試みた。
(僕、渡威に襲われて……?)
四苦八苦しながら上半身を起こし、周りを見回す。
ずい分古い建物のようだ。
電気は通っていないのだろうか、明かりがなく薄暗い。
全体がひんやりとした空気に包まれている。
所々壁に入ったヒビが、さらに寂れた雰囲気を強調させた。
「目が覚めたか」
「!?」
聞き覚えのない少年の声に、ギクリと肩が強張った。
どうして真っ先に気づかなかったのだろう。
こうして意識した今、その存在ははっきりと強く感じられるのに。
春樹はそっと彼を見上げた。
こちらを見下ろす、きつめの瞳。
背は自分より高いだろうか。
長めの黒い髪が、後ろで無造作に束ねられている。
それがすきま風でわずかに揺れていた。
顔も姿も見たことはない。声を聞いたこともない。
だが―――。
「……歌月、くん?」
「よくわかったな」
遠慮がちに声をかけた自分に、少年がわずかに目を見開いた。
春樹は曖昧な表情のまま小さくうなずく。
ただこんなことをする人物を考えたとき、他に心当たりがなかっただけだ。
「えっと歌月……」
「渚だ」
「……ご丁寧にどうも」
「おまえは日向春樹だな?」
「そうだけど……」
よくつかめないまま会話が進む。
今の状況も彼の目的もいまいちはっきりしなかった。
形にならない疑問だけがむくむくと膨らんでいく。
とりあえず。
「あの……」
「?」
「……歌月くんって悪趣味?」
「真面目な顔でアホなことぬかしてんじゃねえっ!」
スパン、と張りのある音が部屋中に響いた。痛い。
(~~何もハリセンで頭叩かなくても……)
普段ツッコミ側なので微妙に屈辱を感じる。
それにしても素早い反応であった。
一見クールに思えたが、実は激しくツッコミキャラなのではないだろうか。
しかもハリセンを常備しているときたもんだ。
自分とキャラが被るかもしれないのでやめてほしい。
いや、そんなことはどうでもいいとして。
「だって人が気絶してる間に縛り上げるなんて、どう考えても感心出来る趣味じゃないと思うけど」
「趣味じゃねえって言ってんだろ!」
「じゃあ何?」
「…………」
強気に出た自分に、渚が憎々しそうに押し黙る。
そのまま彼はムスッと口を閉ざしてしまった。
どうやら上手い言葉が見つからなかったようだ。
そんな彼の様子に、春樹はこっそり息をついた。
むやみに危害を加えるつもりはないらしい。
でなければ今頃、自分は問答無用で殴られるなり何なりされていただろう。
危険な賭けではあったが、少し彼の性格がわかった気がする。
(根っからの悪い人じゃないと思うけど……)
だが、やはり目的がわからない。
「……歌月くんって倭鏡の人間、だよね?」
「? ああ」
「どうやってここに?」
普通なら倭鏡の人間はこちらに来ることが出来ない。
春樹も当然こちらで倭鏡の人間を見たことはない。自分たちは例外として。
だが、渚は興味なさそうに肩をすくめた。
ギシギシと嫌な音をたてる椅子に腰を下ろす。
「親父が結界を張ってくれたからな」
「歌月くんのお父さんが……? でも……」
「俺のばーちゃんが日本人だから、そんなに強い影響は受けねえし」
「――ええ!? 歌月くんのおばあさんが!?」
意外な言葉に思わず声を上擦らせる。
知らなかった。何となく倭鏡にいる日本人は母の百合だけだと思い込んでいたのだ。
(誰もそんなこと教えてくれなかったし……いや、訊きもしなかったけど……)
どうやら、自分の知らない“倭鏡”がまだまだたくさんあるらしい。
「……それじゃあ……本題に入りたいんだけど」
「あ?」
「この後……どうするつもり?」
声を低めて尋ねると、渚はちらりとこちらを見た。その目を細める。
そして椅子から腰を上げ、ツカツカとこちらへ歩み寄ってきた。
口を開くことも出来ず見上げていると、グイとやや乱暴に顔を近づけられる。
「俺の役目はおまえらを潰すことだ」
「……潰す?」
「と言っても、俺が直接手を下すわけじゃねえ。俺はとりあえずおまえらを親父のトコに連れてく」
「……何で? 何でそんなこと……」
「……何でだと?」
彼の目がますますきつくなった。
失言だったかと危惧した自分に対し、彼は思い切り吐き捨ててくる。
強い怒りを込めながら。
「ふざけんな! 知らねえとは言わせねーぞ!」
…………。
…………。
「いや、本当に知らないんだけど……」
「……は?」
思わずボーゼンと答えると、渚も同様に目を丸くした。
そんな彼に、春樹は言葉を選びつつ口を開く。
別に自分はふざけているわけでも、彼を馬鹿にしているわけでもないのだ。
このような状況でそんなことが出来るほど春樹の神経は太くない。大樹なら可能かもしれないが。
「正直、全く心当たりがなくて……僕たちみんな、途方に暮れてたんだよね。父さんも頭抱えちゃってるし……」
原因がわかっていればまだ対策の考えようがある。
しかしそれが全くないのだ。自分はもちろん、兄も両親も。
そのため今だって、自分のこの状況は理不尽な気がしてならない。あえてそこは我慢しておくが。
「何……だって? 知らない? 何も……?」
「あの……だから、差し支えがなければ教えてもらえないかなあ、なんて……」
「…………よ」
「え?」
「俺だって知らねえよっ!」
「――は?」
今度は春樹が目を丸くする番だった。
すぐには理解出来なくて、まじまじと彼の怒ったような顔を見る。
――知らない? 知らない!?
「ちょ……どーゆうこと!?」
じわりと理解が広がると、それはそれで混乱を大きくした。
納得出来ない、理不尽さに対する怒りが火をつけて膨れ上がる。
まるで沸騰石を入れずに沸騰させた湯の原理だ。
前触れも準備もない中で急な沸騰を防ぐことは出来ない。
「知らないのにこんなことしたの!? こんな悪趣味なこと!?」
「趣味じゃねえ!」
「だって!」
「親父が言ってたんだよ! おまえら日向家が悪いって! だから!」
「…………」
「…………」
二人はしばし黙り込み――同時にため息をつく。
何だか妙に疲れてしまった。
どうしてこうもマヌケな展開なのだろう。情けなくて涙が出る。
(でも……)
視線だけを渚に向ける。
――嘘はついていない、と思う。
彼は本当に何も知らされていないのだろう。
それは信じていいはずだ。
一寸考え、春樹は何とか体の向きを変えた。
しっかりと彼を見上げる。
「……妥協してくれない?」
「……何だと?」
ピクリ、と彼の片眉が跳ね上がった。
しかし春樹は目を逸らさない。じっと見つめる。
「このままじゃ納得出来ないよ」
「納得……?」
「歌月くんだって、何も知らないままじゃすっきりしないでしょ?」
「それは……」
図星なのか、渚の瞳が動揺に揺れる。
春樹はそれを見逃さなかった。
ここぞとばかりに言葉を紡ぐ。
「歌月くんがお父さんを信頼する気持ちはわかるよ。でもそれは僕も同じ。……このままじゃ、お互いどう動くべきかはっきりしないよね?」
「どう動くかなんて……」
「少なくとも、僕は理由もわからないのに張り合いたくなんてないよ」
「…………」
ピシャリと言い放つと、渚は気まずそうに口を閉ざした。
彼にも多少は同じ気持ちがあるのだろう。
彼の中にははっきり迷いが生じている。
きっともう一押しだ。あと少しで――。
ピー ピー
意気込んだところへ、ふいに妙な音が響いた。
時計のアラームだろうかと首を傾げていると、渚がハッとしたように立ち上がる。
彼は壁に立て掛けてあった鏡の前まで歩み寄った。
そっと鏡に手を触れる。
ぼんやりと映り出す映像。
「大樹!?」
そこに映っていたのは紛れもなく大樹の姿だった。
一瞬どんな仕組みなのだろうと不思議に思ったが、何てことはない。
渡威が鏡に憑いているのだ。それならこの現象にもあっさり納得出来る。
(便利だな……)
――いや、そんな感心している場合じゃなくて。
「歌月くん、これって一体……?」
「……おまえの弟が乗り込んできたんだ。すでに一階は突破された……っ」
「大樹が……?」
舌打ちする彼には悪いが、やはり春樹としては嬉しかった。
後ろにセーガともっちーの姿を見つけ、その喜びはさらに増す。
だが、大樹の表情を見るなり、ふいに春樹の胸がざわめいた。
眉を寄せる。
(あれは……)
いや、だが、しかし――。
「くそっ」
渚の毒づいた声にハッとする。
春樹は慌てて彼を見上げたが、彼はじっと鏡を見たまま動かなかった。
思い切り顔をしかめている。
「何だよこいつ……別人みたいな動きしやがって!」
「……キレてるんだよ」
「はあ?」
ようやく渚が振り返った。
かなり怪訝そうにした彼は、不機嫌そうにこちらを睨んでくる。
そんな彼に、春樹は淡々と説明してやった。
目は鏡に映る大樹から離さずに。
「負に対する感情の限界が過ぎるとああなるんだ。普段からオーバーなほど感情の幅は広いから、そんな風になることは滅多にないんだけど……」
「感情の限界……だと?」
「そう。……そうなると、一時的に他の感情がほとんど停止しちゃうんだ。普段ならちょっとしたことでコロッと気分が変わるのに、そーゆうのも一切なくなる」
「……だから何だっていうんだ?」
渚がイライラと先を急かす。
だが春樹はペースを変えるつもりはなかった。あくまでも淡々と続ける。
「他の感情が停止しているから、違う何かに気を取られることはない。他に気を取られることがないから、余計な無駄がなくなる」
だからこそ、いつも感情豊かな彼と比べ別人のように思えるのだ。
極端すぎる面では確かに彼らしいのだが……。
「あいつは――炎と同じだよ」
「……炎?」
「紅く激しい炎が普段のあいつなら……今のあいつは青い、静かな炎なんだよ」
青く、静かに揺らめく――一方で、激しい熱さを秘めた炎。
「今、あいつを止められるのは僕くらいだよ」
きっぱり言い放ち、渚を見る。
渚は不満そうにその視線を受け止めた。ボソリと呟く。
「よくわかんねえけど……厄介そうだ。おまえの条件を呑んでやるよ」
「本当?」
「ああ。親父に理由を訊いてみりゃいいんだろ?」
ため息をつく彼に、春樹はホッと笑みを向けた。立ち上がる。
「交渉成立だね」
笑顔で手を差し出し――。
「お、おまえ……」
「え?」
渚がボーゼンと自分を指差してきた。
一瞬何だろうと首を傾げ、すぐその原因に気づく。
その原因であろうものを、春樹は笑顔で取り出した。
「ああ、これ?」
春樹が取り出したもの、それは春樹自身が縛られていたはずのロープ。
「僕、簡単な縄抜けなら出来るんだよね。昔父さんに教えてもらったから。今回も大して強く縛られてたわけじゃなかったし……案外すんなり解けたよ?」
「おまっ……じゃあ『悪趣味』だの何だのって散々わめいてたのは何だよ!?」
「だってそっちの出方がわからなかったし……それならバレないようにしばらく様子見ておいた方がいいかと思って」
「――――っ!! 嫌だ! おめーらみたいな兄弟なんて嫌だ!」
渚が悔しそうにわめき立てる。
春樹はそれを苦笑して眺めた。
やっぱり、クールぶっている面もあるが根は熱いのではないだろうか。
「歌月くん……ダメだよ。相手を仕留めるつもりならとことんやらないと」
「余計なお世話だっ!」
ごもっとも。
「ま……とにかく。僕は大樹を止めてくるよ」
「勝手にしろ」
「うん。それじゃ……」
バン!
「…………」
ドアを開けようとしていた春樹は、外から開けられたドアに危うく顔面をぶつけそうになった。
思わず全ての動きを止めてしまう。
(大樹……!)
もうここまで駆け上がってきたのだ。
さすがに渚もギョッとしたように立ちすくんでいる。
――まずい!
ドアが陰になってしまって、大樹には自分の姿が見えていない!
「だい……っ」
慌てて出ていこうとするのと、大樹が封御を握りしめたのは同時だった。
次の瞬間には大樹が間合いを詰め――渚に封御を突きつけている。
(速い……!?)
訪れたのは、ピンと張り詰めた糸のように緊迫した空気――。
「……てめぇか……?」
「なっ……!?」
「てめぇが春兄をさらってったのか……?」
渚が言葉を失う。
答えない彼に、大樹がさらに封御を握る手に力を込めた。
それはピタリと渚に定められ――。
「大樹っ!!」
春樹は慌てて大樹を羽交い絞めにした。
反射的に暴れようとした彼を必死に押さえ込む。
「大樹!」
「はなっ……!」
「大樹、僕だから! 落ち着け!」
「!?」
「僕は無事だから!!」
「……っ……春……兄?」
フ……ッと大樹の全身から力が抜けた。
それと同時に、彼の周りのピリピリした空気も消え失せる。
「春兄……? 春兄!?」
「僕はもう大丈夫だよ。ケガもしてない」
「……良かっ……」
ホッとしたのも束の間だった。
落ち着いたと思えた大樹が、今度は急に倒れ込んでしまったのだ。
慌てて支えるが起きる気配はない。全くといっていいほど。
「ちょっと……大樹? 大樹ってば!」
「無理ない。……大樹サン、限界以上の“力”使っとったさかい」
――“今まで気力でもっていたのが一気に切れたんだろうな”
「もっちー……セーガ……」
少し遅れて入ってきた一体と一匹をボーゼンと見やる。
それにしてもこのタイムラグは何なのだろう。
一緒に入ってきてくれれば、大樹が渚に封御を突きつけるのも止められたかもしれないのに。
そんな気持ちがしっかり伝わったらしく、もっちーが深いため息をついた。
力なく肩を落とす。
「大樹サン、すごい速さで先進んでくんやもん……全然止まってくれへんし」
「……置いていかれちゃったわけね」
どうやら大樹の暴走ぶりは半端でなかったようだ。
さすがと言うべきなのか、どうなのか。
そこで春樹は、未だ固まったままの渚に気づいた。
さすがに申し訳なさが先立ち、当たり障りのない笑みを浮かべておく。
「あー……ご、ごめんね?」
「いや……」
「とりあえず……大樹が起きない内に行った方がいいかも」
この様子だとしばらく起きそうにないが。
「……そうさせてもらうよ」
ため息をついた彼が、次の瞬間には黒猫の姿になっていた。
その姿のままスルリと建物の外へ出ていってしまう。
(……朝の猫、歌月くんだったんだ……)
消えていくのを見送りながら、どこかぼんやりとそう思う。
あれが彼の“力”なのだろう。
それにしても。
「……一件……落着?」
信じられない思いでセーガともっちーと目を合わせる。
セーガももっちーも、「ヤレヤレ」という顔つきで肩をすくめてみせた。
「ま、春樹サンが無事で何よりや」
「うん……ありがと。セーガもお疲れ様」
――“これくらい当然だ”
澄ましたセーガに小さく笑う。
しかし実際、彼がいなければ大樹ももっちーもこの場所はわからなかっただろう。大活躍だ。
「にしても……ホンマ大樹サンにはビックリしましたわ」
「もっちー……」
「今の寝顔からは想像出来ひんほどの動きやったもん」
「…………」
複雑な気持ちで大樹を見る。
自分の腕の中で眠る彼は、安心しきったように規則正しい呼吸をくり返していた。




