1封目 どっぺるげんがぁ
日向家の朝は忙しない。
午前六時を過ぎた頃に目覚まし時計が鳴り、すぐに日向家の次男・日向春樹がその体を起こす。
彼はまずぼんやりした頭で洗面所に向かい、そこで顔を洗うなどの作業を済ませるのが通常だ。
そして頭が機能し始めるとてきぱき着替えを終え、朝食作りに勤しむのである。
この家には今、自分と弟の大樹しかいない。
よって全ての家事を担うのは当然春樹となる。
大樹は基本的に家事に向かないのだ。
彼の不器用さはゼンマイの巻かれていないブリキのおもちゃに値する。
――要するに役に立たない。
さて、朝食作りといってもこれがなかなか大変だ。
中一の自分と小六の大樹としては、育ち盛りということもあり少しの量では足りなかったりもする。
特に大樹は小柄なくせに食欲旺盛だ。
それが成長に生かされればいいのだが、今のところまだ彼にその傾向は見られないようである。
それを口にすると怒るのは目に見えているので、春樹はあえて何も言わないが。
そんなわけで量を考えてつくらなければいけないのだが、加えて几帳面な性格の春樹は、栄養面まできっちり考えてしまう。
最近ではそのせいでレパトリーも大分増えた。
春樹自身としてはそんな主夫すぎる自分が時々妙に情けない。
ともかく、短い時間の中でそれら全てのノルマをクリアするのはハードなことである。
それが毎朝続いているので諦めはとっくについたが、やはり週末辺りはしんどい。
休日の土・日曜日は涙が出るほど嬉しいものだ。
その朝食作りが終わるのは、およそ七時。
しかし本当に忙しなくなるのはここからである。
まず、春樹は一度自分の部屋へ戻る。
そこで寝ている大樹を叩き起こすためだ。
寝起きの悪い彼との戦いは下手をすれば長期戦に持ち込まれる。
それでは無駄に体力を消耗するし効率も悪いので、春樹は毎朝秘密兵器を用いるようにしていた。
すなわち、彼に朝食の匂いを嗅がせて食欲を一気にそそる。
効果はテキメンで彼は大抵これ一発で起きる。
彼のすっきりした寝覚めに少しばかり苛立つのはきっと自分だけではないだろう。
すぐに「ハラへった」と騒ぐ大樹と共に朝食を食べ終えるのは、大体三十分後のこと。
朝食が洋食の場合、牛乳を飲みたくないなどと大樹が騒いで時にはもっとかかることもある。
大抵この勝負に折れるのが自分なのももはや見慣れた光景となりつつあったが一応春樹としては今後も彼に挑戦していくつもりだ。
目標は一日一杯。――馬鹿らしいが仕方ない。
食べ終えた後春樹は食器の片づけを始め、大樹は学校へ行く準備に取りかかる。
だが落ち着きのない大樹の準備にはやたら時間がかかってしまう。
彼はその準備の間に自分の周りを何往復しているのだろう。もはや数える気にもなれない。
そしてその忙しなさは、もちろん今日も健在なのである。
「春兄っ!」
準備をしていた大樹から悲鳴じみた声が上がった。
ちょうど片づけを終えた春樹は、うんざりとその声の方へ首を巡らせる。
「また何かやらかしたのか?」
「ないんだよ!」
「ない?」
「ローラースケートがないっ!」
必死な彼に目を丸くする。それは思ってもみないことだった。
彼はよく物をなくす方だが、ローラースケートではいくら何でも大きすぎる。
しかもそれは大樹が特に気に入っているものの一つだ。
「ちゃんと探したのか?」
「探したって! 一応部屋の中も! でもぜってー玄関に置いといたんだぜ!?」
「僕も昨日の夜は確かに見たけど」
戸締りをしたときにはあったはずだ。
だが、今春樹も見てみたがどこにも見当たらない。
まるで最初からそんなものはなかったかのように。
「僕はいじってないし、ローラースケートが勝手に動くわけないし……」
「オレだって昨日は触ってねーよ。だから今日はソレで学校行こうと思ったのに~!」
大樹がもどかしそうに地団駄を踏んだ。そんな彼にため息をつく。
元気なのは結構だが、こんな朝っぱらから騒がないでほしい。ただでさえ彼の声は耳に響くのだから。
「今日は諦めて、帰ってきたらまた探しな。僕も手伝うから」
「そんなあっ」
「仕方ないだろ……って、あれ?」
机に手を伸ばした春樹は、思わずその手を止めた。腕時計がない。
「……大樹。僕の時計知らない?」
「はあ? 見てねーよ?」
「あれぇ……?」
首を傾げ、ぐるりと部屋を見回してみる。
だが目当てのものは結局見つからなかった。
そもそも、机に置いてから持ち運んだ記憶などない。
(おかしいな……確かに昨日、ここに置いておいたはずなのに)
自分は大樹と違い、その辺の管理はきちんとしている方だ。こんなことは珍しい。
「それよりオレのローラースケート~~~~っ!」
「~~~~後で探してやるって言ってるだろ……」
わめく大樹に、春樹はこめかみを押さえて呟いた。朝から疲れさせないでほしい。
「――って、ヤバ!」
ふと壁に掛けてある時計に目をやり、思わず叫ぶ。
時刻は八時をとっくに過ぎていた。
家から学校まで、歩くには約二十分弱。
もう出ないとそろそろヤバイ。とろとろ歩いていては確実に遅刻だ。
「大樹、早く行くぞ!」
「うわ、ちょっ、待てよ春兄!」
急いで鞄を取り家を出る自分に、大樹も急かされたように続いてくる。
彼が家を出るときっちり鍵を閉めた。これで戸締りは大丈夫だ。
「走るぞ!」
「おうっ」
ドタバタとした日常の中、二人は太陽の光の下を思い切り駆け出した。
◇ ◆ ◇
さすがに息が苦しい。
それでも春樹は、何とか予鈴と共に学校に入れて一安心することが出来た。
急いだおかげで大分余裕があったようだ。
大樹の小学校は春樹の中学校のすぐ隣なのできっと彼も大丈夫だろう。
それにしても学校まで全力疾走なんて朝からなかなかハードな運動をしてしまった。
「グッモーニン、春樹クン」
「あ、隼人くんおはよう」
ふいに現れた少年に笑顔を返す。
少年は満足そうに笑い、さらりと金髪を揺らした。
この金髪美少年は咲夜隼人。
以前に春樹のクラスに転校してきた、イギリスと日本のハーフである。
そのハッとするような綺麗な顔と比べ、中身はよくわからないテンションをぶちかましてくれる輩だ。
もしかすると顔の美しさととんちんかんなところは比例しているのかもしれない。
「ねえ、春樹クン。ドッペルゲンガーって知ってる?」
「え?」
隼人は今日も例外なく、いきなり妙な話題を口にしてきた。
しかし春樹も大分慣れている。
怖い話が大好きだという彼は、よくこういった類いの話を振ってくるのだ。
しかもやたら嬉しそうに。
「うーん……まあ、人並み程度になら知ってるけど……」
「Really?」
目を輝かせる彼に小さくうなずく。
どこまで知っているかと訊かれ、春樹は薄れた記憶を呼び起こした。
「ドッペルゲンガー……ドイツ語で『二重』の意味。英語では『Double』に相当。要するに分身ってことだよね。自分とそっくりの姿が見える現象で、自己像幻視とも言うみたいだけど。あと、そのそっくりなもの自体を指したりもするのかな? ドッペルゲンガーを見たら数日の内に死ぬって話も結構有名だし……あ、でも解釈によっては死期が近いと現れるっていう説も……」
「ストップ」
唐突に隼人の声が割り込んだ。
春樹はきょとんとしてその口を閉じる。
何か間違っていただろうか。
それに隼人の声が慌てているように聞こえたのは気のせいか?
「……今のが『人並み程度』?」
「え? ……だって当然の知識だよね?」
「……日本の学生は博識なんだね」
皮肉なのか本気なのか、彼は真面目な顔でうなずいている。
春樹はあえてツッコまないようにしておいた。
「それはともかく……それで? ドッペルゲンガーがどうかしたの?」
自分の席に鞄を置こうとすると、隼人もぴったり後についてきた。
「そうそう」と相槌のようなものを打った彼は、楽しそうに話を戻す。
「出たんだよ」
「……出た?」
「ドッペルゲンガーが」
「……はあ?」
春樹は思わず怪訝な声を上げてしまった。
慌てて口を押さえるが、隼人に気にした様子はない。むしろ嬉しそうだ。
「信じられないだろ?」
「そりゃ、まあ……」
「でも、最近はそういった噂が多いらしいよ? 昨日もガールズが見たって、一部の間じゃ大騒ぎさ」
「それって学校の子?」
「Yes」
うなずく彼に眉を寄せる。
信じられない、というのとは別に違う不安があった。
「その子……」
「生きてるよ」
さらりと言われ、目を丸くする。
顔に出ていたのだろうか。訊きたいことを訊く前に答えられてしまった。
そんな自分に、隼人はきれいにウインクを決めてくれる。
「春樹クンの心配もわかるよ。オレも話を聞いて、それが真っ先に気になったからね」
「でも、大丈夫なんだよね?」
「今のところはね。ショックで学校は休んじゃってるみたいだけど」
「そっか……」
他人事だが、どうも心配せずにはいられなかった。
そもそもドッペルゲンガーだなんて本当に存在するのだろうか。
(……いないとも言えない、かな)
自分の中でそう結論づける。
何せ自分は、割と怪奇現象に遭遇しているのだ。
それらの正体は全てはっきりしているものの、ドッペルゲンガーだってそれに近いものがあるかもしれない。
ガラッ
……キーンコーンカーンコーン
「…………」
一瞬クラス中が静まり返った。
まさに「滑り込みセーフ」を演じてくれた少年に視線が集まる。
その注目を集めてしまった少年・杉里蛍は、どこか決まり悪そうに顔をしかめた。
そのままズカズカと席に歩み寄る。
何事かと見ていたみんなも、蛍に何の反応もないので再びざわめき始めた。
好き勝手に各々の話をする声は、あっという間に雑音の波となりクラスを呑み込んでしまう。
自分の隣の席の蛍は勢いよく鞄を下ろした。
深々と息を吐き深呼吸をくり返している。
よほど急いで来たのだろう、大分息が荒い。
「おはよう杉里くん。珍しいね、こんなにギリギリだなんて」
「ああ……」
疲れたようにうなずいた彼が、ふいに動きを止めた。
信じられなさそうにこちらを見たかと思うと――突然春樹の胸倉をつかんだ。
「うわ!?」
「日向……おまえが何でここにいる?」
「……は?」
何で、と言われても。
春樹は思わず苦笑いを浮かべた。
状況が全くもってつかめない。
学校があれば生徒の春樹が出席しているのは当然だろう。
それとも、自分がいてはいけない理由でもあっただろうか。
(えーと……それとも存在がウザイから消えろっていう脅し?)
そうだったら悲しすぎる。
だが、一方でそれはないだろうとも思った。
蛍は確かに怖い雰囲気もあるが、本当は口下手で照れ屋なのだと知っている。そんなことをするキャラではない。
「蛍クン、ゴングはまだ鳴ってないよ?」
ふいに隼人が割り込んだ。
助けてくれるのかと思ったが、彼の手になぜかゴングがあるのを見て冷や汗が伝う。
――鳴らす気か、おい。
「あ……悪い」
ハッとした蛍が慌てて手を離した。
ホッと息をついた春樹は、とりあえず隼人からゴングを取り上げておく。
どこから持ってきたんだ、こんなもの。
「あの……杉里くん? 僕には何が何だかわからないんだけど……」
「……おまえがここにいるはずないって思ったから」
「え?」
「春樹クンは予鈴のときにもういたよ?」
「……本当か?」
「うん、本当だけど……」
うなずくと、疑わしげだった蛍の目が丸くなった。
はっきりと動揺が現れる。
彼がこんなにはっきりと感情を出すのは珍しいことだ。
「何かあったのかい?」
興味深そうに隼人が蛍を覗き込んだ。
彼からあっさり目を逸らした蛍は、一度迷った後ぽつぽつと話し始める。
彼自身も確認するかのように。
「遅刻しそうだったのは単に寝坊したからなんだけどな……」
「遅くまでゲームでもしてたのかい? ダメだよ、睡眠不足は美容の敵だか……ふぐっ」
「隼人くん、お願いだから話の腰を折らないでね?」
笑顔でゴングを突きつけると、隼人はコクコクとうなずいた。
彼の顔色が多少悪く見えたのはきっと気のせいだろう。
春樹は一息つき、目だけで蛍を促した。
蛍も慌てたように話を戻す。
「あ、……それで走って学校に行こうとしたんだけど、途中で日向に会ったんだ」
「……僕に?」
そんな覚えはない。
「声、かけたんだけど何も反応なくて。聞こえてないだけかと思って気にしなかったんだけど……ただ、中学じゃなくて隣の小学校の方に向かってたんだ。弟に用でもあるのかと思ったんだけどよ……とりあえず俺、おまえのこと追い抜かして」
追い抜かしたうえに春樹は小学校の方に向かっていた。
しかも話によると、その出来事は予鈴より後のことだという。
となると。
「……おかしいだろ? 日向が俺より先に学校に着いてるなんて」
「……顔、ちゃんと見たの? 見間違いじゃなくて?」
「いや……あれは日向だった」
八割は、と小さく付け加える。やはり絶対とは言い切れないらしい。
だが、割と慎重なタイプの蛍の「八割」は「絶対」に値すると思っても良かった。
「でもそれ、僕のはずがないよ。今日は大樹と学校に来たんだし……」
「じゃあ誰だったんだ? そっくりさん……?」
「…………」
ふと訪れた、嫌な沈黙。
考えたことはみんな一緒だったのだろう。
本物の春樹とは違うところで、違うことをしていたもう一人の春樹。
それはもしかしたら。
「ドッペルゲンガーだね!」
嬉々とした声で沈黙を破ったのは隼人だった。彼は目を輝かせて手を握ってくる。
「グレイト! すごいね春樹クン!」
「いや、僕としては嬉しくないんだけど……」
「是非見てみたいなぁ、ドッペルゲンガー!」
「見て死んじゃったらどうするの……」
うんざりとため息をつく。
やっぱり隼人については理解出来ない言動が多かった。困ったものだ。
「あー……おまえら」
突然男の声が飛んできた。三人はギクリとして動きを止める。
「仲がいいのはわかったが、そろそろ周りの空気も読んでくれないか」
そう言って呆れた顔をしていたのは、いつの間にかやって来た担任の先生だった。
◇ ◆ ◇
一方の大樹は、少し時間が経って昼休み、春樹と似たような話を聞かされていた。
「どっぺるげんがぁ?」
あまり聞き慣れない単語に首を傾げる。
話の提供者であり幼馴染みでもある沢田雪斗は、へにゃりと笑みを浮かべてうなずいた。
「自分とソックリな人が現れるってやつだよ~。聞いたことないー?」
「あるような気はするけど……」
「そのドッペルゲンガーがね、最近出るんだって~」
「……ウワサだろ?」
やたら語尾ののびた彼を、怪訝な顔で見上げる。
だが雪斗は相変わらず気の抜けるような笑みを浮かべるだけだった。
長年の付き合いだから慣れているとはいえ、こういったときの彼は何を考えているかわからない。
「そうだけどー。昨日も『見た』って人が多いらしいよ~? しかもハルさんの学校の子~」
「春兄の?」
そんなに近くなのかと驚愕する。
春樹の学校なんてここから目と鼻の先だ。
もちろん発見した場所が学校の側とは限らないが。
「……なあユキちゃん。そのドッペルってのに会ったらどうなるんだ?」
「あははー。ダイちゃん、『ゲンガー』を忘れちゃかわいそうだよー」
「い、いいだろ別に! ちょっと省略しただけじゃん!」
「僕は別にいいけどね~……。んーと、ドッペルゲンガーに会ったら? 確かー……死んじゃうんじゃなかったっけ?」
「マジで!?」
思わずギョッとしたが、彼の口調からはどうも切迫した感じはしない。
そもそも彼に切迫したものを求めるのがいけないのだろうか。何でも「あははー」で済ませてしまうのだから。
「すげーんだな、ドッペルゲンガーって……」
会っただけで相手を死なせてしまうなんて無敵ではないか。
「あははー怖い?」
「な!? 怖くなんかねーよ!」
さらりと質問してきた雪斗に牙をむく。
そんな自分に、雪斗は「そうだよねー」とまるで感情のこもっていない声を返してきた。
全くもって信じていない。しかも楽しんでいる。
「ユキちゃん!?」
「あはは、そんな顔しないでよ。冗談だから~」
「冗談ってあのな……」
「あ、廊下の角にもう一人のダイちゃんが!」
「わあああっ!?」
…………。
…………。
…………?
「ダイちゃーん?」
思わず雪斗にしがみついていた大樹は彼の声でハッとした。
おそるおそる顔を上げれば、楽しそうな彼とばっちり目が合う。
その顔は今にも吹き出しそうで……。
――はめられた!!
「ばっ、ユキちゃん!?」
「あははははー」
「っ、笑うなあ!」
「だってだって~、あんまりにも想像通りの反応だったからぁ~」
「うるせーっ!」
ひぃひぃと苦しげな彼にわめく。
全く何て奴だ。いくら幼馴染みといえども許せない。
(純情な男心を踏みにじりやがって!)
明らかに使い方を間違えたことを本気で思い、大樹はさっさと歩き出した。
大股で教室へ向かう。もう知るもんか!
「あ、待ってよダイちゃん~!」
雪斗が慌てたように追ってきたが、大樹はそれをきっぱり無視した。
怒りに任せて教室のドアを開けようとし――
ガラッ
――先に中の誰かに開けられた。
拍子抜けして見上げたそこには、黒髪の一人の少女。
彼女も驚いたのか、呆けたようにこちらを見ている。
「……何だよ、椿か」
彼女の名は佐倉椿。大樹のクラスの委員長だ。
真面目でしっかり者だが、時にはっちゃけたり毒舌であるのも否めない。
そんな彼女は、我に返った瞬間いきなりつかみかかってきた。
そのままガクガクと力任せに揺さぶってくる。
「あんたどうしたの!? 変なものでも食べた!?」
「は?」
「頭大丈夫!?」
そっくりそのまま返してやりたいと思ったのは、果たして自分だけだろうか。
いきなり訳のわからないことをまくし立てる椿に、大樹は怒りも忘れて呆気に取られた。
段々目が回ってきたのを他人事のように感じる。
「何のことだよ?」
「あんた、さっきこの問題解いたでしょ!」
「へっ……?」
手が離れた代わりに差し出されたのは、一冊の問題集。
今日先生が「素敵なお土産」として笑顔で渡してくれたものだ。はっきり言っていらない。
「私たちが答えわからなくて悩んでたら、いきなり来てさっさと解いちゃったでしょ! どうしたのよ一体!?」
――ちょっと待て。
「オレが問題解けたらおかしいのかよ!?」
「おかしいに決まってるでしょ、こんな難問! 天変地異の訪れよ!」
「何でそうなるんだよ!? それじゃオレがバカみてーじゃねえかっ」
「自覚してない分もっとタチ悪いって……」
「って急に冷静になるなよ!」
ヤレヤレ、と首を振る彼女にショックを受ける。
直接「バカ」と言われるよりダメージは大きいような気がした。
「はい、ストップ~」
「……雪斗」
「ユキちゃん……」
まるでレフェリーのように割り込んだ雪斗により、二人もとりあえず口を閉じた。
確かにこんな言い争いをしていても話は進まない。むしろ後退する勢いだ。
「ねえ、ダイちゃん。ダイちゃんは本当にその問題解けるの~?」
「え? うーん……」
じっと例の問題集を睨む。
それにはやたら細かい文字が躍っていた。見ているだけで目眩がしそうだ。
しばらく眺めた後、大樹はふるふると首を横に振った。
出来ないと認めるのは悔しかったが紛れもない事実だ。仕方ない。
「こんなのわかるわけねーじゃん」
「だってさっきは確かに……!」
「……委員長~。一つ気になるんだけど、それっていつの話ー?」
「え……本当についさっきだけど? 五分も経ってないかも」
「…………」
大樹は思わず雪斗を見た。
彼も困ったような笑顔ででこちらを見てくる。
一人首を傾げているのは椿だ。
「あのね、委員長~」
「オレ、昼休みの間ずっとユキちゃんといたんだぜ?」
「え? ……ええええっ!?」
彼女は心底驚いたようだった。
その驚きの余りかいきなりハリセンを取り出し……。
スパーン!
「な……何すんだよ!? いてーだろ!?」
「……夢でも嘘でもないみたいね……」
「たりめーだ! っつーか人の頭で確かめんなっ!」
そもそも、彼女はどこにハリセンを持ち込んでいるのだろう。
とはいってもこれは毎度のことだ。もはやハリセンは彼女の必需品と言ってもいい。
ちなみに春樹も常備しているようだ。はた迷惑な話である。ツッコまれる身としてはたまったものではない。
何気にあれは痛いのだ。
「委員長、信じられない気持ちもわかるけど~……」
「…………」
「委員長ー?」
「? 椿?」
急に考え込んだ椿に、大樹と雪斗は再び顔を見合わせる。
彼女の顔は打って変わって真剣だった。
「……ねえ……じゃあ、私たちが見た大樹は何だったの?」
「それは……」
「――ドッペルゲンガー?」
そう呟いたのは雪斗だったのか、椿だったのか。
あまりの展開に、大樹はただ言葉を失うしかなかった。




