1
何度も言われ続けた言葉。
『お兄ちゃん』
最初はその響きにドキドキして。
不思議な使命感に胸を一杯にして。
けれど。
いつの日かそれは、チクリとした痛みを伴うことも多くなった。
『お兄ちゃんなんだから我慢しなさい』
何デ 我慢 スルノ ?
オ兄チャン ダカラ ?
お兄ちゃん。お兄ちゃん。
……何デ 僕 ハ オ兄チャン ナノ ?
モウ 嫌 ダヨ オ兄チャン ニ ナンカ ナリタクナイ
好きでなったわけではないのに。
いつまでも変わることのない、その事実。
†† 今昔 ††
ピピピピピ……ピッ
もう聞き慣れた目覚まし時計の音を、日向春樹は慣れた手つきで止めた。
まだはっきりしない頭で身体を起こす。
「……懐かしい夢見たな……」
ぼんやり呟き、思い切り身体を伸ばす。
カーテンの隙間からは眩しい光が漏れていた。
時計を見れば七時半。休日にしては少し早い寝覚めだ。
しかしちょっとした事情で両親が家にいない今、一切の家事を担っているのは彼であった。
起きてすぐ「ハラへったー!」と騒ぐ弟の大樹もいるのであまりぼんやりしている時間はない。
「さって」
景気づけに呟き、春樹は準備へととりかかった。
***
朝食を作り、大樹を叩き起こし、朝食を共に食べ。
台所の片づけを終えればひとまず休憩だ、というときであった。
大樹が慌ただしく駆け込んできたのは。
「春兄―――っ!!」
「? 大樹?」
何事かと思い、とりあえず水道を止める。悪いことではないのは確かだった。
それくらい彼の顔を見ればわかる。
案の定、大樹は嬉しそうに何かを取り出した。
「なっ、コレ見て!」
「それは……」
薄汚れた、怪獣のヌイグルミ――?
「なつかしーだろ?」
少し得意気に笑う彼からそっと受け取る。
その懐かしい感触に、春樹も小さく微笑んだ。
「こんなもの、よく見つけたな?」
「部屋の整理してたら出てきた」
「……部屋の整理?」
「おまえが?」という意味も込めて尋ねると、大樹はきょとんとしたままうなずいた。
春樹は半信半疑のまま部屋へ向かってみる。
ドアを開け――そして絶句するしかなかった。
何なんだ、これは?
「……大樹」
「ん?」
「部屋の整理、したんだよな?」
「したけど?」
「じゃあ……何で前よりもっと散らかってるんだ?」
これでは足の踏み場がない。
どんな悪質な泥棒だってここまで散らかすことはないだろう。
レベルで言えば、ものすごい夫婦喧嘩など……いわゆる修羅場の成れの果てに値する。
大樹にもようやく言いたいことがわかったらしい。
彼は慌てて弁解してきた。
「しょーがないじゃん! 探してたものがなかなか見つからなかったんだから!」
「それは部屋を漁ったと言うんだっ!」
間違っても「部屋を整理した」と言ってはいけない。
例え神が許しても春樹は許さない。
「ったく……後できちんと片づけろよ?」
「えぇ!?」
「……何、その『そんなことすっぱりさっぱり考えていませんでした。っていうか無理ですごめんなさい。むしろ助けろ』みたいな顔は」
「そ、そこまで読み取らなくてもいいだろっ!?」
真っ赤になって言い返す大樹にため息をつく。わかりやすい彼が悪いのだ。
「なあ、春兄~」
「自業自得」
人差し指をびしっと彼の額に突きつけると、大樹がぐっと息を呑んだ。
彼はやっぱり不満そうに、さっきのヌイグルミを取り出す。
「でも、そのおかげでコレが見つかったのに」
「おかげって……。……ってゆーかさ、大樹は憶えてるのか? このヌイグルミのこと」
これを買ったのは春樹が小学校に入ったばかりの頃だ。もう六年も前のことである。
忘れっぽい大樹のことだから、全く記憶に残っていなくても不思議ではないのに。
「そりゃな」
小さく呟いた大樹が、当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
「春兄があそこまで泣きわめいたのって初めてだったもん」
「泣きわめいたって……」
大樹の言葉に苦笑する。春樹はもう一度そのヌイグルミを眺めた。
少し丸々とした、男の子が持つにしては少々可愛すぎるような、けれど大好きだったソレ。
***
『おかあさん!!』
ドタバタと母の元へ駆け寄ると、台所に立っていた母は驚いたようにこちらを振り返った。
自分があのヌイグルミを握り締めていることに気づき、嬉しそうにしゃがみ込む。
『春ちゃん、どうしたの?』
『大樹が!』
『大ちゃんが……?』
次の言葉を言おうと息を吸い込んだとき、どこか危なっかしい足取りで大樹もやってきた。
彼に限っては今にも泣きそうだ。
そんな彼に、春樹は無性に腹立たしくなった。
『はるに……』
『やらないって言ってるだろ!?』
怒鳴りつける自分に、ビクッと大樹が固まる。母もかなり驚いたようだった。
元から感情をはっきり出すことは少なかった春樹だ。それも仕方ない。
『これは僕のなの! おまえにはあげないっ』
それで母にも事情が飲み込めた。
今日春樹に買ってあげたヌイグルミを、大樹も欲しいと駄々をこねたということに。
そして、春樹がそれを嫌がっているということに。
『大ちゃん? 大ちゃんにも同じの買ってあげるから。ね?』
『やだあっ。あれがいいーっ』
本格的に泣き始めそうな雰囲気に、春樹は再び苛立ちを覚えた。
母も困ったようにそれをなだめる。
『大ちゃん。あれは春ちゃんのなのよ?』
『やーっ』
大樹は決して聞かなかった。困り果てた母が、ちらりとこちらを振り返る。
すまなそうな、目。
その瞬間、春樹は無意識にヌイグルミを抱きしめた。母の言いたいことがわかったのだ。
『春ちゃん……それ、大ちゃんにあげて? 春ちゃんにはまた新しいの買ってあげるから』
『やだ!!』
せっかく母に買ってもらえたものなのだ。仕方なく買ってくれた「代わり」では嫌だった。
これだからいい、という気持ちは春樹も同じである。いや、それなら大樹よりも強い。
『春ちゃん』
『やだっ』
母を困らせるのも嫌だった。でも、それ以上にこれは譲れなくて。
『お兄ちゃんでしょ?』
――ずしりと響く、胸の痛み。
『……え……?』
『春ちゃんは大ちゃんよりもお兄ちゃんでしょ? 春ちゃんなら我慢……出来るよね?』
優しい口調の母を、春樹は黙って見上げた。
――頭の中がぐしゃぐしゃになる。
何で僕が我慢しなきゃいけないの?
悪いのは、何でも欲しがる大樹なのに?
お兄ちゃんって理由だけで?
ずっと……ずっと我慢しなきゃいけないの?
――大樹がいるせいで?
『……じゃ……ない……』
『春ちゃん?』
『好きでお兄ちゃんになったんじゃないっ!』
一度叫んでしまえば、もう止まらなかった。
堰を切ったように次から次へと言葉が溢れてくる。
自分でもどうしようもないほどに。
『何で!? みんな僕が悪いの!? お兄ちゃんだから!? 好きでお兄ちゃんになったわけじゃないのに……別にお兄ちゃんになんかなりたくないのに! 大樹のせいで!
……っ大樹なんかいなければ良かったんだっ!!』
『春ちゃん!!』
ハッとしたときには、母の怒ったような……悲しそうな顔があった。
言い過ぎたと自分でもわかったが、色んな感情が込み上げてきてどうにもならない。
『……っ、こんなものいらない!』
叫ぶように大樹の方へヌイグルミを投げつけ、春樹はその場を駆け出した。
***
「……うわあ」
色々と思い出した春樹は、何とも言えず微妙な声を出した。大樹が怪訝そうに見てくる。
「どうした、春兄?」
「いや……何か、確かに泣きわめいたかも」
厳密には泣いてはいない。だが似たようなものだろう。
「だろ? オレ、すっげービックリしたもん。それくらいしか憶えてないんだけどさー」
「……頼むからそこを一番に忘れてくれ」
何で一番嫌なところを憶えているのだろう。
それだけ印象に残っているということだろうが、正直やめてほしい。
それにしても、我ながら爆発したもんだ。いくら小さなときとはいえ。
(あの後は確か……母さんがなだめてくれたんだよなあ……)
***
コンコン
部屋に閉じこもっていた春樹は、ドアをノックされても返事をすることはなかった。
相手は母だとわかっている。今は顔を合わせたくない。
『春ちゃん。入っていい?』
『……ヤダ』
くぐもった声でそう返すと、カチャ、と静かにドアの開く音がした。
机に突っ伏していた春樹は慌てて顔を上げる。
『おかあさん! 嫌だって……へっ?』
ゆっくり入ってきた人物に、春樹は思わず間の抜けた声を上げた。無意識に凝視してしまう。
声は紛れもなく母のものだ。体型も彼女に違いない。
だが――その仮面はなんだ?
『春ちゃん、顔合わせたくないだろうから。仮面被ってみたの。どう?』
『ど、どうって言われても……』
第一、母が被る意味があるのだろうか。この場合、合わせる顔がない立場なのは春樹の方なのに。
まあ、頼まれてもそんなジェイソンが着けているような仮面は遠慮したいが。
『……春ちゃん、ごめんね?』
『え……?』
『春ちゃん、いつも我慢してたもんね。
お母さんが頼んでたから、大ちゃんの面倒、たくさん見ててくれたもんね?』
『……うん……』
『大変だったよね』
仮面を外した母がにっこり笑い、そっと春樹を抱きしめた。
『ありがとう』
『お……かあさん……』
優しく言われ、春樹は無性に泣きたくなった。ごめんなさい、と声にならなかったが呟く。
そんな春樹に、母は再び微笑った。
『あのね、春ちゃん。私、春ちゃんも大ちゃんも大好きなの』
『うん……』
『でも、春ちゃんの方が先に生まれたから……春ちゃんの方が一杯お母さんといるよね?』
春樹はハタと気づいた。言われてみればそうだ。当たり前ではあるけれど。
『だからね、その分まで大ちゃんに愛情を注いであげるのがお兄ちゃんの役目』
『僕の……役目?』
『そう。春ちゃんのものを何でもあげろとは言わないから。嫌だったら、嫌だって言っていいから。ただ……大ちゃんの気持ちもわかってあげてね? 大ちゃんも、春ちゃんのことが大好きなんだから』
『…………』
『みんな、春ちゃんのこと、好きだからね?』
***
「あー……」
「今度は何だよ」
またもや微妙な反応をした春樹に、今度は心配そうに大樹が顔を覗き込んだ。
何でもない、と首を振っておく。
「思い出すたびに恥ずかしくなってくる……」
「はあ?」
「いや。……そっかー。僕、あの頃っておまえに嫉妬してたんだよな」
「しっとぉ? 春兄が? オレに?」
意味がわからない、と大樹が首を傾げる。そんな彼に春樹は苦笑した。
あの頃は、みんなが大樹ばかりを見ているような気がした。
自分なんてどうでもいい存在なんだと思えた。
何かあるたびに「お兄ちゃんなんだから」と言われ。
自分の気持ちを考えてくれる人なんていないような気がして。
けれど、ワガママを言って嫌われるのも怖くて。
「僕、おまえと違って損な性格だしねー……」
「? 春兄、オレ春兄の言ってることさっぱりわかんねーんだけど……」
「ううん。ただ、母さんは僕の気持ちわかってたんだなってこと」
「……も、もっとわかんねえ」
頭を抱える大樹に小さく笑う。春樹はふと、そのヌイグルミの埃を払った。
どこに埋もれていたのか知らないが、さすがに半端ではない。
「結局、次の日は何事もなかったように振る舞ってたよな。お互い」
「そうだったっけ?」
「うん。その辺のことはよく憶えてる」
「……何で?」
不思議そうに首を傾げる大樹に、春樹は思わず苦笑した。
「おまえと似たような理由だよ。おまえが初めて泣いて謝ったから」
「へ?」
「泣きわめくのだけはよくあったけど。おまえが謝ったのはあのときが初めてだったんだ。少なくとも、僕が憶えてる限りでは」
そう言って思い出し、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
――あのとき差し伸べられた手を、自分はどうした?
***
母が部屋を出ていっても、しばらく春樹はぼうっとしていた。
母が自分のこともきちんと気にかけてくれていたこと、
我慢するのを苦しんでいた自分に気づいてくれていたこと。
そして、その負担をほんの少し軽くしてくれたことを繰り返し思い出していた。
やがて春樹は立ち上がった。
そっと部屋を出ようとし――ドアのすぐ近くに座っていた人影に気づく。
ドアが開いたのに気づき、その影は慌てて立ち上がった。
『はるにい』
『……大樹』
いつからそこにたのかはわからない。
だが彼の腕にあのヌイグルミがあるのを見たとき、奇妙な感情が込み上げてくるのを感じた。
構わずに通り過ぎようとする。
『はるにいっ』
彼は勢い良くあのヌイグルミを差し出してきた。
『これ……っ』
『……いらないって言ったろ』
『はるにい!』
そのまま行こうとすると、ぎゅっと服をつかまれた。
振り向くと、彼は泣きそうな顔でこちらを見上げている。
――その小さな手は、微かに震えていた。
『ごめ、なさ……っ。はるにい、ごめんなさぃ……っ!! ごめっ……』
言っている内に感情が高ぶったのか、彼はとうとう泣き出してしまった。
春樹はそれを複雑な気持ちで眺める。
大樹の気持ちも痛いほどわかった。母の言葉を忘れたわけでもなかった。
ただ――それをすんなり受け入れるには、自分は幼すぎ、また、妙に大人びてもいた。
『…………』
『はるにいっ! ……っ…ふっ……ぅえ――――……』
――大樹の泣き声が聞こえたとき、春樹は振り払った手をぎゅっと握り締めた。
***
「……本当に、いろんな意味で感慨深いよね、このヌイグルミ……」
子供心ながら、あれらの出来事には難しいことを考えさせられた気がする。
「だな。じゃあどうする?」
「んー……せっかくだし部屋にでも飾っておこうか。後でちゃんとキレイにして」
「オッケー」
楽しそうに了解した大樹が、部屋に視線を戻したとたん小さく呻いた。
悲惨なこの状況を思い出したらしい。
「これ、明日までに戻せると思う?」
「戻すしかないだろ。明日は学校なんだし、この部屋じゃ勉強も出来ないんだし」
自信なさそうに尋ねてきた大樹に、呆れて返す。
春樹はため息をついて部屋の中へ入っていった。足場の確保だけでも大変だ。
「ほら」
手を差し伸べた自分を、大樹がきょとんとした面持ちで見つめる。
まるで、その行動の意味がわからないというように。
「春兄?」
「部屋、片づけるんだろ?」
「手伝ってくれるのか!?」
「しょーがないだろ。おまえに任せてちゃ、終わるものも終わらないし」
下手すればもっと悪化してしまう。
しかし、大樹は素直に嬉しいようだった。笑顔で春樹の手をつかむ。
「春兄、サンキュッ♪」
「――……」
あの次の日も、彼はこんな笑顔で「はるにい、オハヨー」と言ってきた。
それを思い出すと妙に笑いが込み上げてくる。
もっとも、あれは大樹がその出来事を忘れていたからではなく、
母にそうしろと言われたかららしいのだが。
「春ちゃんはちょっと素直になれないだけよ。明日、いつも通りおはようって言ってごらん?」だなんて――――本当に母には敵わない。
現に春樹は、戸惑いながらもおはようと返してしまった。
そしてまた、今日まで何とかやってきたのだ。
(……別にあの日の罪滅ぼしってわけじゃないけどさ)
――あのとき振り払ってしまった手を、今つかもう。
そして、これからも。
*
「なあ、春兄」
「んー?」
「この怪獣の名前、『もっちー』で決定な♪」
「もっちぃ? 何でまた?」
「丸くてもちもちしてそうだから!」
「そんな安直な……。そんなことより、手動かせって。ほら、これそこに戻して」
「はーい。……春兄、ホントありがと」
改まって礼を述べた大樹に、春樹は妙な気持ちで苦笑した。
照れ隠しもあり、小さく呟く。
「……別にいつものことだし……」
今も、昔も。
そしてこれからも。
「おまえのお兄ちゃんだしね、僕」
■幕間「今昔」了




