8封目 忘れない気持ち
「どうだった?」
顔を合わせた瞬間開口一番にそう言われ、春樹は多少面食らった。
その驚きをすぐに苦笑へ変える。
蛍が怪訝そうに顔を歪めたのを見て、ゆるゆると首を振った。
「……ダメだった」
「……そうか」
何の感情もないその返事は、興味がないわけではなく、ただ他の言葉が思いつかないためのようだった。
春樹は鞄を机に置き、椅子に腰を下ろす。
無意識にため息がこぼれた。
「……あのさ」
「何?」
「俺……親父に会ってみようと思うんだ」
「え?」
意外な言葉に、春樹は顔を上げて瞬いた。
それにしても蛍は“意外”が多いものだ。
単に自分が予想していないだけかもしれないが、まあそれはともかく。
今度から彼のことを意外クンと呼ぶ――のは、自分のセンスが疑われそうだからやめておこう。
「杉里くんの……お父さんに?」
「ああ。……後悔、しちゃいけないと思って」
「え……?」
「何か……昨日の日向弟が言ってたこと、聞いて。……不謹慎かもしれないけど、そう思ったんだ。独りでいたくないなら、誰かといたいなら……自分から動いていかなきゃって」
春樹は黙って聞いていた。蛍は尚しゃべり続ける。
少し照れくさいのか、気難しい顔をして。
「俺、最初は恥ずかしいと思ってたんだ。いくら離婚したからって、中一にもなってわざわざ親父に会いに行くなんて」
「……それは……」
「でも、後悔してからじゃ遅いだろ。いつでも会えなくなった分、逆にたくさん会うようにしなきゃって思うし……。だから……とりあえず今度、親父に会ってみようと思うんだ。母親の方は、あまりいい顔しないかもしれないけどな」
蛍が小さく苦笑する。
そんな彼に、春樹は思わず微笑を浮かべた。
「お父さん、きっと喜ぶよ」
「……だといいな」
つられたのか、彼にしてはすんなりと出てきた微笑。
「そういえば……日向、怪我の具合は?」
「おかげさまで何ともないよ。元々、そんなに深いものじゃなかったし」
「そっか、なら良かったな」
「うん。あ、タオルは洗って返すね」
「……そーゆうとこ、ほんとクソ真面目だな」
「いや……えーと」
反応に困る。
今のはけなされたのだろうか、褒められたのだろうか。
そう質問すると「半々だ」と答えられ、春樹はますます反応に困った。何とも言えない。
だが、そんな自分など気にした様子もなく蛍はあっさり次の話題へ移ってしまう。
「……それで、日向弟の方は?」
「ああ……うん」
春樹は曖昧にうなずいた。ため息をつく。
「まだ、落ち込んでるみたいなんだよね……」
「……そうだろうな。かなり仲、良かったみたいだし」
「うん……。あいつってさ、すごくわかりやすいから。喜んでるのはもちろん、落ち込んでるのも隠せなくて……正直、見ていられないんだよね」
あそこまで落ち込まれると見ているこちらまでつらかった。
けれど今の春樹にはそれを何とかしてやれる術もない。
それがどれだけもどかしいことか。
「早く立ち直ってくれるといいんだけど」
「……日向ってさ」
「え?」
「……何だかんだ言って、弟思いなんだな」
「なっ」
苦笑され、不覚にも言葉を失う。
何だかんだに当てはまるのは「生意気で短気で~……」のことだろう。
昨日、大樹のような弟がほしいと言った蛍にまくしたてた言葉だ。
「……杉里くんって、案外意地悪だね」
むすっとしてそう反論し――二人は、互いに小さく笑ってしまった。
◇ ◆ ◇
自分でもわかってはいた。
このままではダメなことも、早く立ち直らなければならないことも。
(みんなにも心配、かけちゃったもんな……)
学校でのことを思い出し、大樹はため息をついた。
自分なりにいつも通り振る舞っていたつもりなのに、よってたかってどうしたのかと問い詰められてしまった。
よほどひどかったのだと思う。
大体の事情を知った雪斗と椿には特に気を遣ってもらった。
雪斗はともかく椿まで優しいなんて気味悪いとのことを口走ったら――思い切りハリセンで引っぱたかれた。
痛かったが、そのいつも通りの反応にホッとしたのも事実だ。
それがわかっていて、彼女もそうしたのかもしれないけれど。
(…………)
大樹は小さく息を吸い込み、顔を上げた。
白いドアに白い壁。
そこについているプレートには――「日向梢」の文字。
自分でもどうしてここに来たのかわからなかった。
ただ、気づいたら足が向かっていたのだ。
その気持ちに逆らうこともせず、大樹はドアの取っ手に手をかける。
カチャリ、と耳に響いたのは頼りない金属音。
「大樹」
部屋の中にいた人物はいきなり入ってきた自分に驚いたようだった。
その丸く見開かれた目も、すぐに嬉しそうに細められる。
「どうしたんだ? ……今日は一人で来たのか?」
「……父……さん……」
穏やかな笑顔。
低い、ゆったりとした落ち着く声。
それらを真っ直ぐに向けられ、大樹は我慢していた何かがするすると溶けていくのを感じた。
一度あんなに泣いたのに、みいに泣かないでと言われたのに、――なぜか、視界がぼやけるのを止められない。
父――日向梢は驚きを微笑で打ち消した。
歩み寄った自分の頭に彼の大きな手を優しく乗せる。
そこからじんわりと温かさが伝わってくるようで、大樹は思わず彼を見上げた。
「どうした?」
「み、いが……」
「みい?」
「オレ……オレのせいで……っ」
一度言葉にすると、それはとめどもなく溢れてくる。自分の意思とは無関係に。
泣きじゃくる自分に、梢はただ黙って耳を傾けていた。
先を促すことも聞き返すこともせず、ただひたすらと。
「オレが勝手なことしたから……だからみい、あんな……っ! 守ってやれなかった! オレ、みいと約束したのに……っ。守ってやるって、いつか……いつか倭鏡にも連れてきてやるって!」
守るどころか、守られてしまったのだ。
あの、一生懸命な小さな身体に。
「言いたいことも言えなかっ……オレだって、オレ……っ、『ありがとう』って言いたかったのに! 助けてくれてありがとうって……ごめんって、ちゃんと言いたかったのに……っ! 最後の……最後の言葉だって聞こえてたのかわかんな……っ……」
大好き。
その言葉は、ちゃんとみいの元に届いてた?
ほんの少しでも、自分の想いは伝わった?
それすらも、もはやわかることのない事実。
「――忘れてはいけないよ」
「……え……?」
ふいに向けられたのは、慰めでも、励ましでもない言葉。
大樹はボーゼンと梢を見上げた。
そんな自分に、梢が優しく微笑いかける。
「その子猫が残してくれたもの、忘れてはいけないよ」
「みいが……残したもの……?」
「守ろうとする気持ちや、信じる気持ち、優しさ。それに……おまえに向けた想いも。忘れるな。おまえのためにも、その子猫のためにも」
「みいのため……?」
「そう。その子猫の死を、無駄にしちゃいけないよ」
「――――っ!」
改めて突きつけられた事実は、やはり重かった。
けれど、大樹はしっかりうなずく。
一瞬のためらいも、つらさも全て押し退けて。
「その子猫の存在も、想いも。おまえが覚え、受け止めていることで……きっと、意味を持つから。おまえの中に残るから。だから……忘れるんじゃないよ」
「……うん。忘れない」
「それでこそ私の息子だ」
そう言って頭をなでる手は、やっぱり大きくて温かかった。
大樹はごしごしと目をこすり、大きく息を吸い込む。
目は多少赤くなっているかもしれないが大して気にならなかった。
吸った息をまた大きく吐き出す。
大樹はようやく笑顔を返した。
「……父さん、サンキュ! オレ、父さんも大好きだぜっ」
「改まって言われると、何だか照れるな」
「へへっ♪」
困ったように笑う梢にVサインを向ける。
彼は眩しそうに目を細め、口元に微笑を広げた。
「ホントありがと! また来るっ!」
「もう帰るのか?」
「ん。春兄にも葉兄にも言わないで来ちゃったから」
「それは心配しているかもしれないな。気をつけて帰りなさい」
「おう!」
元気に返事をし、病室を出る。
しかし完全に出る前に、大樹はもう一度振り返った。
多少ためらいがちに彼の目を見る。
「オレ……ホントは最初、どうすれば忘れることが出来るのかって悩んでたんだ。忘れなきゃって何度も言い聞かせてさ。いつまでも落ち込んでるわけにはいかねーし、みいもそんなウジウジしてるのなんて嫌だろうし。だから忘れようって頑張って、でも忘れることなんて無理で」
「……そうか」
「でも……忘れなくて、いいんだよな? オレ……憶えてて、いいんだよな?」
「……ああ。もちろんだ」
微笑まれ、大樹は笑顔をこぼす。
今度こそ別れを告げ、一気に駆け出した。
◇ ◆ ◇
「あらあら」
大樹と入れ違うように病室へ入ってきた百合がドアを閉めながら小さく笑った。
「大ちゃんったらバタバタ走っちゃって。あなた、何を話してたの?」
「後でゆっくり話すが……大好きと言われたよ」
「まあ」
百合が軽く目を瞠る。
それから小さく頬を膨らませた。
「ズルイ」
「百合も一緒にいれば良かったな」
「本当ね。ああ、それか今そこでとっ捕まえれば良かった……」
何やら微妙な発言をする百合を、梢は笑って流しておいた。
いつものことだ。いちいち気にしていたらキリがない。
「それにしても、あんなに走って……病院の人に怒られないといいけどな」
「あら」
百合が微笑う。楽しそうに、嬉しそうに。
「大ちゃんは元気が一番よ」
「――……そうだな」




