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倭鏡伝  作者: あずさ
3話「君はここにいる」
24/153

7封目 おわらない雨

 迫り来る水の塊。

 春樹の叫び声。

 驚きに満ちた蛍の顔。


 それらをしっかり認識することは出来たのに、なぜか足は凍りついたように動かすことが出来なかった。

 代わりに手で顔をかばい、反射的にきつく目を閉じる。

 無意識に身体が強張った。

 怖い、などと思う余裕すらなかったのに。


(来る……っ!!)


 思わず封御を持つ手に力を込める。

 ……が。


「――――……?」


 いつまで経っても、覚悟した衝撃は来なかった。

 そろそろと手を下ろし、そっと目を開け――驚きに目を見開く。

 頭が真っ白になる、とはこのことを言うのかもしれなかった。

 全ての色が失われたような、気の遠くなるようなその感覚。


「え……?」


 自分が平気だった理由。

 一つしかないそれは、すぐ目の前に転がっているのに。


「や……」


 自分の中の全てが、ソレを認めることを、信じることを、何もかもを拒否する。

 認めることなんて出来ない。信じたくない。

 嘘だ。これは夢だ。

 でなければ。

 そうでないと、いうならば。


「……や……だ…っ」


 あの――――目の前で倒れているものは、ナニ?


「やだああああああっ!!」


「大樹!?」

「日向!」


 自分の悲鳴はひどく遠く感じた。自分でも叫んだとわからないほどに。

 そんな自分の叫び声に反応したのだろうか、再び水が鋭くこちらへ向かう。

 それはどんどん鋭さを増し、しまいには刃と相違ないものと化す。

 だが、それがどんなにすごい勢いで向かってきても、今の大樹の視界には入らない。

 彼の目に映るのを許されたのは、ただ一点。

 力なく横たわる――みいの姿。


 一瞬早く、蛍が前に飛び出した。

 大樹を突き飛ばすような形で彼ごと地面に伏す。

 数秒の差で横切る、水の刃。


「っ」

「おい、日向! しっかりしろ!」


 地面に打ちつけられた痛み。

 切羽詰まった蛍の声。

 後方で弾けた、大量の水。


 それらが急に身に染みてきて大樹もようやく我に返った。

 とたんに、ひどく焦りが生じる。


「みい……みい! みいっ!!」

「日向!?」


 蛍の止める声は耳に入らなかった。

 慌てて春樹が駆けつけてきたことにも気づかなかった。

 全てを振り切るかのようにみいの元へ駆け寄る。

 浅く速い呼吸をくり返す苦しげな姿を見て、大樹は身体が震えるのを止められなかった。


「“みい……何で! 何で飛び出してきたりしたんだよ!?”」

 ――“なんで……だろ……”

「“待ってろって言っただろ!? なあ!?”」

 ――“ダイキの役に……立ちたかったから、かなあ?”

「“なんで……っ”」


 声を絞り出すように押し出したが、みいはそれに答えてくれなかった。

 みい自身にもよくわかっていないのかもしれない。

 きっと反射的なもので、考えるより先に身体が動いていたのだ。


 大樹はその場に立ち尽くした。

 わからない。今のこの状況も、みいの気持ちも、周りのことも何もかも。

 わからなくて――ズキズキする。


「何で……だよ……?」

「……大樹……」

「コイツは……ただ独りでいたくなかっただけなのに……誰かといたかっただけなのに! 一生懸命生きてっ……幸せになりたくて! ただそれだけなのに! なのに何で!? 何で……何でコイツから全部奪ってくんだよ……っ!!」


 親もいなくて、飼い主にも捨てられて。

 それでもみいは信じることをやめなかった。求めることを諦めなかった。

 温もりを、優しさを求めることが悪いとは思えない。

 むしろもっと求めてもいいと思う。

 ――大切なもの、なのだから。


「……ゆるせない……」


 不甲斐ない自分も、みいを傷つけた渡威も。


「許さないっ!」

「大樹!? だから、ソレはおまえには……っ!」


 切羽詰まった春樹の制止はもはや無に等しかった。

 周りの音など雑音と相違ない。

 狙うは、ただ一つ。渡威の核のみ!


 ――“壊ス……壊レル……全部壊レロ!”


 飛んでくる攻撃を大樹はことごとく避けた。

 当たるとは思わなかった。考えすらしなかった。

 紙一重でそれらを避け、ほぼ一直線に突っ切り――至近距離で封御を突き出す!

 再び封御が強い光を放ったが、大樹はそれを問題としなかった。

 押し戻してくるなら、それ以上に押し返してやる!


 握る手にぐっと力を込める。

 負けられない。許せない。

 許せるもんか!


「邪魔……すんなあっ」


 叫ぶと同時に全体重をかけて押し出すと、――ふいに光の色が変わった。

 とたんに今までの抵抗が一切消え、封御が勢い良く突き立てられる。

 狙いは寸分違わず、渡威の核へ。


 カッ――!


 一瞬眩(まばゆ)い光を発したソレからコロリと転がり落ちるものがあった。

 ビー玉のようなソレは渡威が封印された状態の“(ギョク)”である。

 だが大樹はそれに目もくれず、一目散に駆け戻る。

 封印してしまった今、もはや彼の頭の中に渡威のことなど全く残っていなかった。


「みい!!」

「大樹……」

「春兄、みいは!?」


 詰め寄るように訊ねると、春樹は力なくかぶりを振った。

 言葉もなく立ち尽くす自分に気遣わしげな視線を向けてくる。


「動物病院に連れていこうとしたんだけど……嫌がるんだ。多分、おまえの側を離れたくないんだと思う」

「え……?」

「今、杉里くんが病院に連絡してるけど……このままじゃ、もう……」


 きっと間に合わない、という最後の呟きは耳に入らなかった。

 大樹は春樹を押し退けるようにしてみいを抱き上げる。

 その瞬間ギクリ、とした。

 みいの身体は――こんなにも、軽かっただろうか?


「“みい……! しっかりしろよ、おい!”」

 ――“ダイキ……?”

「“ダイジョーブだからな!? 頑張れよっ……ぜってー死ぬな!”」

 ――“うん……ごめんね”


 なぜ謝られるのかわからなかった。

 まるで「無理だ」と言われているようで耳をふさぎたい衝動に駆られる。

 そんな言葉は聞きたくない!


「“何……なんだよ……。この後遊ぶって言ったろ!? 泊まりに来るって言ったよな!? オレ、オレ……おまえのこと守ってやるって言って……っ! 約束、守れよ……守らせろよぉっ!!”」


 責めるような言葉しか出てこない自分がもどかしい。

 本当に言いたいのは、こんなことではないはずなのに。


 ――“……泣かないで”

「“みい……?”」

 ――“ねえ、ダイキ。泣かないでよ。笑ってよ”


 一言、一言。苦しいだろうに、しっかりと。


 ――“あのね、サヨナラは悲しいことじゃないよ。最初は、シクシク痛いけどね、でも……すぐにコンニチハがやって来るの”

「“でも……っ!”」

 ――“ボクも、そうだったよ。美花ちゃんのときはシクシクしたけど、ダイキが来てくれたの。だから、悲しくなかったよ”


 ぎこちないしゃべり方がやけに痛々しい。

 それでもみいは尚しゃべり続ける。

 大樹もそれを止めることは出来なかった。

 本当は少しでも体力を使わずじっとしているべきなのに。


 それはどこかで、大樹自身ももう無理だと思っていたせいなのかもしれない。

 それならば少しでもみいの想いを受け止めようと、そう思ったのかもしれない。


 だって――こんなにボロボロで、苦しげで……どうして「大丈夫」だなんて思える?


 ――“だから……ねえ、ダイキ。笑ってよ”

「“んなの……無理に決まってんだろぉ……っ?”」

 ――“ダイキが泣いたら……ボクも悲しいよ”

「…………っ」


 言われ、心がひどく痛かった。

 けれど、これが自分に出来る精一杯のことだと思うと、どうしようもなくて。


 その事実にもたまらなく泣きたくなったが、大樹は乱暴に目をこすった。

 ――きちんと笑えている自信は、これっぽっちもなかったけれど。


 ――“……ありがとう、ダイキ”

「“みい……”」

 ――“あのね”


 大切そうに、紡ぎ出される言葉。優しい響き。


 ――“ボクね、ダイキのことスキだよ。ダイスキだよ”

「“み、い……?”」

 ――“ありがとう”

「“オレも……みいのこと、大好きだぜ?”」


 そう告げたとき、どうしようもない泣き笑いになるのは止められなかった。

 声が震えるのを抑えることも出来なかった。

 それでも懸命に、必死に絞り出したのは紛れもない自分の本心。

 本当に言いたかったことの、一つ。


 訪れたのは静かな沈黙だった。

 大樹は唐突に気づく。

 みいがすでに、全ての動きを止めていることに。


「みい……?」


 ボーゼンとこぼれた呟きは、自分のものだったのかすらわからない。

 最期の言葉がやけにハッキリしていた分、何一つとして実感はなかった。

 動かないみいも、目を瞠った春樹も、遠くから駆けてきた蛍も。

 そして……静かに降り注ぎ始めた雨すらも現実のものとは思えなかった。


 ただ微かに残る腕の中の温もりだけが、やけにリアルだった。




◇ ◆ ◇



 雨は次第に、確実に強くなっていた。

 春樹はそれを窓から確認しながら、ひんやりしたドアの取っ手に手をかける。

 少し力を入れて押すと、カラン、と微かに音をたてた。


「……大樹」

「…………」


 呼びかけても大樹は全く口を開かなかった。

 ただ黙ったまま、のそのそと歩み寄ってくる。

 その重い足取りに、春樹は口を開いて何か言いかけた。

 だが、それは言葉に出来ず曖昧なまま消えていく。

 仕方なくそれらを呑み込み、春樹は一本の傘を開いた。

 病院側が親切にくれたビニール傘だ。どこにでも売っている安物である。


「帰るぞ」

「…………」


 やはり反応は、ない。

 春樹は小さく嘆息した。

 彼の手首を軽くつかみ、外へ促す。

 大樹は抵抗することもなく、かといってペースを速めるわけでもなくそれに従った。

 そんな彼に、濡れないよう傘を傾けてやる。

 ゆっくり一歩ずつ足を進めると、一歩遅れて彼も踏み出してきた。


 ――あの後、二人は急いで動物病院に向かった。

 もしかしたらまだ間に合うかもしれない、と淡い期待のようなものを捨てきれなかったのだ。

 諦めることなど、出来るはずがなかった。


 最初は蛍も付き添おうとしたが、それは春樹が断った。

 彼はこの後空手の練習が入っていたのだ。

 こちらの都合にこれ以上付き合わせるわけにはいかない。

 「それでも構わない」と粘る彼を、「言い合いする時間もないから」とやんわり遮り、そこでお互い別れた。

 ただし明日にはちゃんと報告すること、という条件つきで。


 そして二人は近くの動物病院に駆け込み、医者にみいを手渡した。

 医者はとても優しそうな眼鏡をかけたおじさんであった。

 みいを一目見て、ひどいと思ったのか顔色が微かに険しくなっていたと思う。

 すぐに治療に入り、二人は待合室のようなところで待たされることになった。


 待っていた時間はどれくらいだったのだろうか。

 もはや感覚ではわからない。時計を見る気にもなれなかった。

 ただ、普段ソワソワしている大樹がひたすらじっとしていたのは、強く印象に残っている。


 治療中、悪い予想を何度も頭の中で思い描いてしまった。

 そのたびに打ち消そうとしたがそれらが途切れることもなかった。

 自分でもこうなのだから大樹のことを思うと途方もない。


 そうしている内に医者が出て来て、二人に概ねを伝えた。

 無情にも――悪い予想に裏切られることは、なかった。


 残念だったな、なんて他人事すぎて。

 気にするな、なんて残酷すぎて。


 かける言葉が見つからない春樹はただ無言で歩いていることしか出来なかった。

 そんな自分を情けなく思いながら、そっと傘の間から空を見上げる。


 どんより立ち込める雲。

 ざあざあ、容赦なく降り注ぐ雨。


「…………あ……」


 ふいに大樹から小さな呟きがこぼれた。

 二、三歩進んでしまった春樹は怪訝に振り返る。


「……大樹?」


 彼には自分の声が届いていないようだった。

 ボーゼンと立ち尽くし、あるところを見て目を瞠っている。

 そして濡れるにも関わらず、一気に傘の中から飛び出した。


「ちょ、大樹!? ……あれ……?」


(女の、人?)


 大樹が向かった先には傘をさした一人の少女が立っている。

 高校生くらいだろうか。

 腰にまで届きそうな長い髪が風にさらわれてサラサラと揺れては傘の外に出、その水の重たさに負けて沈んでいく。


 そんなことを冷静に観察しながら、春樹は慌てて大樹の腕をとった。

 自分の方に引き寄せる。


「大樹、何やって……!」

「『美花』?」


(……え?)


 彼の口から出た名前らしきソレに、春樹は手の力を緩めた。

 大樹、少女と交互に見やる。

 少女が驚いたように振り返った。


「え……君、どうして私の名前?」


 そう応えた少女に、大樹の目が微かに見開かれる。

 自分で訊ねたことなのに、まさか本当にそうだとは思っていなかったのかもしれない。


「ホントに……? ホントに『美花』か? みいの飼い主のっ?」


(みいの……!?)


 浴びせるような彼の質問にハッとする。

 これで大樹の反応にもどこか納得がいった。

 春樹は見守るように、大樹と少女の反応を待つ。


 少女は不思議そうに、困ったように……けれど柔らかく笑んだ。


「そうだよ。君たちは……みいのこと、知ってるの?」

「あの、……拾ったんです。捨てられていたみたいでしたから……」

「そっか。……家の都合で、どうしてもみいを飼えなくなって……私、泣く泣くここにみいを置き去りにしたの。こんなの、言い訳でしかないけど……本当にみいのことは大好きで。だからやっぱり不安で、様子を見に来たらもういなかったから……どうしたのか心配だったけど。君たちが拾ってくれたんだね。ありがとう」

「いえ、その……」


 ホッとしたように言われ、春樹は言葉を濁らせた。

 この先は言いにくい。

 だが、言わないわけにもいかない。


「みい……死んじゃったんです」

「!」

「……死ん、だ?」


 少女が反応を示すより早く、大樹の肩がビクリと震えた。

 春樹は目を伏せ、それでもしっかり言葉を紡ぐ。


「僕らの不注意のせいで。病院には連れていったんですけど……でも、ダメで。……すいません」

「……そっか」


 少女はぼんやりと呟いた。

 多少の落胆は見えるものの、それ以外の感情は見えない。

 まだ頭が情報の処理に対処出来ていないのだろう。

 それだけ彼女にとってもショックな出来事だったのだ。


「すいません……」

「――ううん。君が謝ることじゃないよ」


 無理に明るく笑われると、余計に心苦しかった。

 なかなか下げた頭を上げられない。


「でも、そっか……。私、結局みいに何もしてあげられなかったんだね……」

「そんなこと……!」


 ない、と思う。

 春樹にはその根拠も何もなかったが、みいと大樹のやり取りを見ていると自然にそう思えた。

 だが、なぜか否定する言葉がこれ以上続かない。


 すると――さっきまで黙っていた大樹が、ぎゅっと少女の服の裾をつかんだ。

 うつむいているので表情は見えない。

 ただ、つかんでいる手が小刻みに震えている。


「…………『ダイスキ』」

「え……?」

「『ダイスキ』って言ってた。みいが……言ってた」

「……そう……」


 ふと、少女が肩の力を抜いた。

 軽く屈み、大樹と目線の高さを合わせる。

 そこに浮かぶのは、寂しさの入り混じった――きれいな笑み。


「教えてくれてありがとう、君」




◇ ◆ ◇



「…………っ」

「……大樹……」


 少女が去った後も、二人はまだそこを動けずにいた。

 大樹がきつく拳を握る。

 まるで、何かに負けないよう必死に耐えているみたいに。


「……春兄……あいつ、本当に言ってたんだ。捨てられたのに、独りにされたのに……っ。それに最後だって、『ありがとう』って……あんな状態で! あんなときに! 『ダイスキだよ』『ありがとう』って……っ」


 つらそうに、悔しそうに大樹が一気にまくしたてる。

 そんな彼に、春樹はわずかに目を細めた。


「みいはきっと……幸せだったんだよ。あの人と暮らせて。――おまえに拾われて」

「はる、に……」

「……大好きって……言ってたんだろ?」

「……ふ……っ……」


 くしゃり、と大樹の顔が歪んだ。

 張り詰めていた糸が切れたように泣き出す。

 一度溢れてしまえば止まらない。


 春樹は黙って、彼の頭に傘を差し出した。


 ――雨は、まだ止みそうにない。


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