1封目 六度目の正直は無効なり
(…………えーと)
日向春樹は、数分の間その場に立ち尽くしたままだった。
手には、さっき渡されたばかりの小さな紙を握っている。
クラスの席替えを行うためのクジだ。
ソレと黒板を交互に見つめ、最後に目の前の人物を見やる。
不機嫌そうな顔で椅子に腰を下ろしている彼を見たら自然と笑顔が張りついた。
といっても、どうも薄っぺらい笑みな気がしてならない。
自分ですら思うのだから間違いないだろう。
「……杉里くんが、僕の隣?」
おそるおそる尋ねると、彼――杉里蛍は、ただ無言でクジの紙を突き出した。
自分で見てみろということだろう。
春樹は遠慮がちにその紙を見つめ、中に書かれている番号を確認した。
その番号に心の中だけでため息をついておく。間違いない。
「そっか……。えっと、よろしくね」
「ああ」
短い返事に気まずさを感じながらも大人しく椅子へ腰を下ろす。
彼を直視する気にはなれず、じっと前の黒板に顔を向けた。
BGMと化しているクラスのざわめきに耳を傾け、知らずに小さな息が漏れる。
(何だかなあ……)
杉里蛍は、クラスでもどこか浮いた存在だった。
常に不機嫌そうにしているうえに、口数も少ない。そのせいでみんなと距離が開いている感じが拭えなかった。
それに、誰もはっきりと態度には出さないがどこかで恐れている。
空手を習っていて、しかもかなり強いだの上級生と喧嘩をして勝ったことがあるだのという噂が拍車をかけているようだった。
そんなにがっしりとした体格というわけでもないのだが、確かにオーラは少し怖いかもしれない。
しかし、春樹が気まずく思う原因はそれだけではなかった。
「……杉里くん?」
「…………」
彼は言葉を出さず、視線だけをこちらに向けた。
春樹はいつも以上に慎重に話すことを試みる。
「作文のことなんだけど、さ」
口ごもり、彼の反応をそっと窺う。
このセリフは実に六回目であった。
その先の言葉は、彼にもとっくに見当がついているだろう。
春樹の言う作文とは、先週授業で出された国語の宿題のことだ。
題材は「家族のこと」という、いかにも学校側が好みそうなものである。
それにはもちろん提出期限――要するに締め切りだ――があるわけで、みんなは文句を言いつつも個々に書き上げた。
そしてソレは、クラス委員である春樹の元へ渡されたのだ。
先生曰く、みんなの分をまとめて持って来い、というわけである。
そこまではいい。いいのだが。
「まだ……書けてないの?」
彼の分だけが、まだ春樹の元へ届けられていなかった。
提出期限はとっくに過ぎてしまっているにも関わらず。
仕方なく春樹は彼以外の者の作文を先生に提出した。
その際、先生に「どんなに遅れてもいいから」と、彼にも出してもらうように頼まれたのだ。
それにうなずいてしまった春樹はこうして何度も催促の声をかけるハメになってしまった。
それもことごとく「別に」や「さあな」と曖昧な返事で返される。五回連続で見事撃沈されたのだ。
春樹だってしつこくは言いたくない。
言いたくないが、こちらにも責任感というものがある。ついでに意地というものも。
「難しいことを書く必要はないんだから、とりあえず適当に……」
何とか説得しようとした春樹は、彼が一枚の紙を取り出したことに気づいた。
それが作文用紙だと知り、目を丸くする。三度目の正直ならず、六度目の正直だろうか。
そんな自分に、彼はその作文用紙をずいっと突きつけてきた。
「ほらよ」
「……杉里くん?」
宿題の条件は二枚提出だったはずだ。
怪訝に思って呼びかけても、彼はそれきりこちらを向かない。
仕方なく受け取った春樹は、悪いと思いながらもそっと中を見てみることにした。
嫌ならすぐに止めに入ってくるだろう。
隣にいるのだから自分のこの行動に気づかないはずもない。
多少のシワを丁寧に伸ばす。
それでも止めよとする気配はなく、春樹は中へ目を走らせた。
(?)
パッと見た限り、ほとんどが白紙と言っても良かった。
不思議に思いながらも文字を追ってみる。
題名、学年、組、名前。
そして一マス空けて書かれた、たった一行の文。
(――え?)
慌てて彼を見たが、彼は変わらず、不機嫌に黒板を見ているだけであった。
◇ ◆ ◇
恒例の「起立―、礼」が終わって教室がざわめきに包まれると、春樹はどっと息を吐き出した。
居心地の悪さを常に感じていたため、普段の倍は体力が削られたのだ。
ストレスで胃に穴が開かないことを願いたい。
(ってゆーか)
掃除のため机をズルズルと下げていた春樹は、情けない気持ちでため息をついた。
すぐ隣にいるのに、話しかけるタイミングがつかめず結局放課後になってしまったとはどういうことか。
しかし、それも仕方ないのかもしれない。
授業中は基本的に春樹は授業に集中しているし、休み時間は蛍がことごとく睡眠を確保している。
――まあ、給食の時間にも話しかけられなかったのは、やっぱり自分に問題があるのかもしれないが。
「……あれ? 杉里くんは?」
「え? 杉里なら帰ったみたいだぜ」
「ええ!?」
あっさり返ってきた友達の答えに慌て、春樹は荷物をまとめると急いで彼の後を追った。
そんなさっさと帰られては困る。
今まで話しかけるタイミングを計っていた苦労がパアになってしまうではないか。
「――杉里くん!」
一気に廊下を駆け抜けると、靴箱の手前で彼の姿を見つけた。
彼がのんびりしていたのか自分が早かったのかはわからないが、すぐに見つけられたのは幸運である。
「……日向?」
「あのさ、作文のことなんだけど」
これで七回目のセリフか、とぼんやり頭の隅で思う。
いちいち数えている辺り、自分は暇人なのだろうか。そんなことはないと思うのだが。
そんな妙なことを考えていた自分に蛍がわずかに眉をつり上げた。
これも同じく七回目と言っても良い。
「朝出しただろ」
「でも、二枚分書かなきゃ先生に出せないから」
「……書くことなんて何もないんだよ」
「でも……」
「離婚の経緯を書けってか? 母親と父親の喧嘩がひどくて、一時は警察沙汰にまでなって。そしてとうとう、この前離婚が決まりました。俺は母親の方に引き取られるようです。……こんなことを二枚分、ひたすら書けって言うのか?」
吐き捨てるように言われ、春樹は言葉に迷った。
作文用紙に書かれていた、たった一文を思い出す。
『僕の父親は、家を出ていきました。』
確かに、そんなことがあってはこの作文のテーマはきついものがあるだろう。
書きたくない彼の気持ちにも納得がいく。
「あ……じゃあさ、先生に事情を説明しようよ。言えば、先生もわかってくれると思うから」
「……何なんだ? おまえ」
「え……?」
睨んでくる彼に戸惑う。そんな顔をされる理由がわからなかった。
「杉里くん……?」
「同情してるつもりか? 俺がかわいそうだから?」
「別にそんな……」
「そんな気の毒そうな顔されても、わざとらしいとしか思えねーんだよ。普通に平和な家庭で暮らしている奴に俺の気持ちがわかるわけないだろ。……そーゆうおせっかい、うざってえ」
いつもよりさらに不機嫌な顔で言われ、春樹は一瞬呆気に取られた。
だが、すぐに別の感情が湧き起こる。
その原因が彼の口調だったのか、内容だったのかはわからない。
わからないが――どうしようもなく腹が立つ。
気づいたときには、春樹は自分でも驚くほどの声を出していた。
「…………ふざけんな」
「は?」
「誰がおせっかいだよ。はっきり言って、僕には君のとこの家庭の事情なんてどうでもいいよ」
「日向……?」
「君が作文を提出しないで国語の成績が下がったとしても、それはただの自業自得。僕は同情なんてしない。……でもね、僕は先生に頼まれてるんだよ。君の作文も出してくれって。だからどうしても出さないって言うなら、その理由を説明してもらわなきゃ困るのは僕なワケ。誰のためでもない、自分のために言ってんの。
――だから、さっさと提出するなり先生に説明するなりしろ。以上」
一気にまくし立てると、蛍が呆気に取られてこちらを見ていた。
そんな彼を尻目に、春樹は靴を履き替えてさっさと学校を出てしまう。
が、校舎を出るととたんに我に返った。
彼に投げつけた言葉を思い出し、しゃがみ込んでしまいたい衝動を必死に抑える。
(うわあ……やっちゃった)
心にあることもないことも、思う存分吐き出してしまうなんて!
普段の春樹には珍しいことである。
大抵の場合は我慢出来るし、別段ひどく憤りとして感じることもない。
ただ、今回は様々なものが積み重なってしまったせいであんな形に小さく爆発を起こしてしまったのだろう。
塵も積もれば山となる。小さな怒りも、積もればやはり爆発するということだ。
(明日、杉里くんに謝らなきゃ……)
「日向くーん」
「?」
ため息をついた春樹は、聞き慣れない声に足を止めた。
何事かと振り返れば、そこには柄の悪そうな少年が二人。
クラスは違うが同じ学年の子たちであった。
ただしあまりいい噂を聞かないし、春樹自身に彼らとの交流は一度もない。
呼び止められる意味がわからなかった。
「あの……?」
「聞いたよ日向くん。この前のテスト、学年トップだったんだって? すごいじゃないか」
「はあ……」
そりゃどうも、と言いそうになるのを慌てて堪える。
彼らのわざとらしい言い方からしてそんなことを言えば神経を逆なでしてしまいそうだと思ったからだ。変に逆ギレされてもこちらが困る。
ちなみに、この前のテストが学年トップだったというのは嘘ではない。
しかし毎回その座を保持しているわけではないし、春樹としては「たまたま」という感覚が強かった。
たまたま勉強した範囲が多く出題され、たまたま他の人が思うように点数をとれなかっただけである。
だからというわけではないが、彼らがこんなことを言ってくる理由がわからない。
ロクなものではなさそうだが。
「やっぱ頭いい奴はいいよなあ」
「いや、別に……」
「なあ? 日向くん。そんなすごい君にお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「僕らにお金、貸してくれないかな?」
「――は?」
春樹は思わず目を丸くした。
わざとらしさの頂点を極めた一人称と上目づかいに気を取られ、すぐに内容が理解出来なかったのだ。
そもそも、あちらの方が身長はあるのに無理に上目で見てくるのが不思議で仕方ない。
「僕はお金なんて……」
「またまたぁ。そんなに頭いいんだから、お小遣いたっぷりもらってるんだろ?」
――どんな理屈なんだ。
頭が良くても家が貧乏なら貧乏だし、どんなにバカでも家が金持ちなら金持ちだろう。
大人になれば話は別だが、中一である春樹には頭の良し悪しが裕福さに関係しているとは言い難い。
その証拠に、春樹の家の家計は色んな意味でいっぱいいっぱいであった。
(結局はカツアゲなんだろうな、コレ……)
今日は厄日かも、とため息をつくと彼らの雰囲気が変わった。
恐らく痺れを切らしたのだろう。案の定、怖い顔で詰め寄ってくる。
「いいから早く金出せや」
「人がせっかく褒めてやってんだからよぉ」
――いや、別に褒めてほしいなんて思ってないし。
あくまでも心の中だけでツッコんだ春樹は、どうやってこの場を切り抜けようか悩んだ。
下手に騒ぎを大きくしたくない。かといってお金を渡す気もない。
「聞いてんのか!?」
「優等生だからって調子乗ってんじゃねーぞ」
「誰も調子になんか……」
「――春兄に何やってんだよ!?」
(だっ)
突然間に割り込んできた人物にぎょっとする。
あまりの唐突さに、春樹は悲鳴に近い声を上げていた。
「大樹!? どっからわいてきた!?」
だが、大樹と呼ばれた少年は答えない。
こちらに背を向けたまま、懸命に相手を睨みつけている。
「……何だ? このチビ。そこどけよ」
「うるせえっ! そっちこそ春兄に何やってたんだよ!?」
そう言って相手に突きつけた、長い棒状のものに愕然とする。
それは――封御!?
ハラハラする自分とは反対に、彼らは顔を見合わせた。
毒気が抜かれたような顔で肩をすくめる。
「……変な邪魔のせいでやる気失せちまった。もう行こうぜ、めんどくせー」
「そうだな。他の奴探すべ」
やれやれ、などと言いながら彼らがその場を離れていく。
それはこちらのセリフな気もしたが、春樹は黙って見送ることにした。
彼らの姿が完全に見えなくなるまで、じっとその場に立っている。
(…………は~~~~~……)
彼らが見えなくなると、春樹はようやく安堵の息をついた。
それからすぐに、目の前の頭をべしりとはたく。
「いてっ。何すんだよ!?」
「このバカ! 封御を人に向けるな!」
「だって春兄がっ!」
「そーゆう問題じゃないっ!」
こちらの剣幕に大樹が負けた。
彼は「だって……」と不満げに呟き、そのまま押し黙ってしまう。
このふてくされてしまった少年は、日向大樹。
すぐ隣の小学校に通う、春樹の一つ下の弟である。
自分と違い何かと猪突猛進するタイプなので、彼の保護者も兼ねている自分は大変苦労を強いられる。
「封御を向けるのは渡威の前だけにしろよ」
「……わかってるよ」
渋々うなずいた彼は、封御と呼ばれる槍に似たソレをぐっと縮めた。
ある程度の長さになったのを確認し、ゴソゴソと鞄の中へしまい込む。
――「封御」や「渡威」という一般の人には聞き慣れない単語の説明をするには、まず自分たちの説明から入らないといけない。
パッと見た限り、一般の日本人と何ら変わらない自分たちは、厳密には純粋に日本人とは呼べなかった。
父親が“倭鏡”という、鏡を通して存在する異世界の住人なのだ。
とはいえ倭鏡と日本は比較的共通する部分も多い。
言語も地形もほぼ同じと言っていいだろう。
したがって二つの世界を行き来しても別段困るようなことはなかった。
ただし、このことを知っている者はごくわずかに限られている。
そして渡威についてだが、これは倭鏡の生き物である。
かなり未知数ではあるが、人や物に憑いて悪さをするので封印されていた。
しかしある日、歌月家によって渡威の何体かが盗まれたのだ。
その一部がこちらの世界へ逃げてしまったという知らせを受けて、春樹と大樹は渡威を封印する仕事が割り当てられた。
その渡威を封印するのに使用するものが、例の封御という武器である。
ちなみに、歌月家の所在はまだわかっていないようだ。
さらに蛇足ながら付け加えておくと、自分たちが今まで封印した渡威の数はたったの二体である。
まあ、何体こちらへ逃げ込んだのかもよくわかっていないようだが……。
「だいたいさあ」
前を歩く大樹が声を上げ、春樹は意識をそちらに戻した。
頭の後ろで手を組んでいる彼は、納得いかない様子でこちらを見てくる。
「何で春兄、怒らねーの? あいつら悪いことしようとしたんだろ?」
「悪いことっていうか……」
いいことではないのは確かだ。
「春兄はそーゆうとこ鈍すぎっ!」
「おまえには言われたくないよ」
春樹はきっぱりと言い返した。大樹の鈍さは天下一品だ。
それでいて直感力はなかなか優れているなんて矛盾する気もするが……まあ、現実なんてそんなものなのだろう。
「オレのことはどうでもいいだろ! 今は春兄の問題なんだからっ」
「そりゃそうだけど……」
「あーゆうのにはがつんと言わねーと、どんどん調子に乗ってくるぜ?」
「わかってるけど」
ただし「がつん」の度合いによっては、逆に相手を怒らせる可能性が高い。
そして大樹は間違いなく、加減を知らず相手を怒らせるタイプだろう。
自分としてはそっちの方が心配である。
「まあ……今回はおまえが来てくれて助かったかもね」
「だろ!?」
ポツリと呟いた自分に、大樹が嬉しそうに笑う。
そんな彼を見て春樹は苦笑した。
こんな反応を示すとわかっていて、いや、わかっていたからこそ言ったのだが。
やっぱり自分は、少し彼に甘いのかもしれない。
そう思わずにはいられない春樹であった。