プロローグ はじまりの雨
「ごめんね」
呟きと共に、“彼女”の涙がポタポタと自分の頬へ伝い落ちた。この冷たい雨の中、そこだけがやけに熱く感じる。
――泣かないで。
そう伝える言葉を持てないことに、ひどく痛みを覚えた。ただ顔を上げることしか出来ない。身体に広がる無力感。
「本当にごめんね……」
再び“彼女”が呟くと、一度、自分を強く抱きしめた。温かい、そして心地良い“彼女”の鼓動。
雨なんて気にならなかった。ただ、震える“彼女”の身だけが心配だった。
――泣かないで。
自分は、ホラ、大丈夫だから。
そう言う代わりにそっと“彼女”へ触れると、“彼女”は静かに自分を離した。涙をぬぐい、優しく自分の頭をなでる。その手すら微かに震えているのに、それを隠すように。
「……ごめん」
今にも崩れてしまいそうな、儚くて悲しい、けれど綺麗な笑み。
「バイバイ――……」
――それからどれくらい、こうしていたのか。
行き交う人々をぼんやり見ていたら、時間の感覚はとっくに失われていた。容赦なく打ちつけてくる雨が冷たい。
“彼女”が置いていってくれた可愛い傘は、いつの間にか風で飛ばされていた。けれど拾いに行く気にもなれず、結局ここを動かないままだった。いや、もしかしたら動けなかったのかもしれない。自分でもよくわからない。わかっているのは、たった一つのことだけだ。
悲しいときは、いつも雨。
「うわ、びしょ濡れ」
ふいに聞こえてきたのは、声変わり前の少年の声。
その声がすんなり飛び込んできたことに驚いた。そろりそろりと、顔を上げてみる。
「こんなところでどうしたんだ?」
――――…………。
自分は答えなかった。答えなど持ち合わせていなかった。
少年は気にした様子もなく、何かをポケットから引っ張り出す。
「風邪ひくぞ?」
そう言って、布のような何かでくしゃくしゃと自分の頭をなで回した。少しクラクラしたが、なぜか逆らう気になれず、自分はただじっとしていた。
ふと、少年の手が止まる。
「わかってる! 今行くーっ!」
どうやら誰かに呼ばれたらしい少年が、慌てたように立ち上がった。こちらへ笑う。
「じゃあな」
その笑顔に、心がひどく騒いだのはなぜなのか。
――……マッテ。
待って。お願い。
とっくに見えなくなったその背に呟き、身体に力を込める。少年が残していった布――白いハンカチのようだ――をくわえ、よろめきながらも歩き出した。
いつの間にか、空には光が射していた。