7封目 真の儀式はパズルのように
「セイ坊の真価は、命令したときにある」
眼を細め、東雲が淡々と呟いた。
品定めでもするかのようにその眼差しは真剣だ。
「真価……って、今までのは? 今までだって、技出したりとか、命令してたっしょ?」
「そんなもん、命令とは言わんわ。お願いみたいなもんじゃな。強制力も何もない」
「ふぅん……?」
空は曖昧に呟く。
よく分からないが彼らなりの定義があるらしい。
それは空の与り知らぬところだ。
「セイ坊にとっての命令というのは、命を賭けて下されるものよ。なんと言ったら分かるかのぅ……。今まで繋いでいた"力"の鎖……命綱を断ち切る代わりに、互いの間を絆で繋ぐようなもんじゃ」
分かりやすさを考慮して説明してくれたらしいが、さっぱり分からない。
それを隠しもせずに腕を組むと、東雲が苦い顔をした。
それでも彼は諦めずに言葉を紡ぐ。
「今まではハー坊の"力"を供給源にしていたの。じゃからハー坊以上の力は発揮できん。まあ、ハー坊の容量なんて知れたもんじゃて」
「それが命令したら変わるって?」
「言ったじゃろ。"力"の鎖を断ち切るんじゃ。それは制限が解除されたことでもある……ハー坊に関係なく、セイ坊が自身の力そのものを使えることになるんじゃ」
セーガ自身の力。それは空には未知数だ。
しかし今までの非ではないのだろうと予想はついた。
それが開放されるというのであれば、頼もしいことこの上ない。
とはいえ、素直に喜んでいいものなのか疑問も残る。
「うーん、じいちゃん。俺はそんなに頭いいわけじゃないから、よく分かんないことも多いんだけどさ」
空は低く声を出す。
梢を窺うが、彼は特に何も咎めてはこなかった。
そのため話を続けることにする。
「春樹だってそれくらい知ってるだろ。でも今までやらなかった。……なんか、理由はあるんだろ?」
「ふん……」
横目でこちらを見やった彼は、ヒゲを梳く。
「命じるに当たって、確かにいくつかの問題はある。一つは……今までは、ハー坊の力を供給源にしてると言ったの。逆に言えば、その状態ならセイ坊自身の余力は十分にあることになる。……仮にハー坊が力尽きてもセイ坊は存在を保ってられるし、ハー坊が力尽きない限り、セイ坊はどんなに傷ついても時間をかければ回復できる」
しかし、その供給を断つのであれば、セーガはセーガ自身の力でしか存在を保てない。
「それって……」
「死ぬ可能性だって、出てくるのぅ」
「!」
それは。
(そりゃあ……あの春樹がそう易々と命令なんてできるはず、ねぇなぁ……)
万に一つあるかも疑わしい危険とはいえ、賭けるには大きすぎる代償だ。
春樹があの守護獣のことを本当に大切に思っていることは、空だってよく知っている。
「じゃがの、これは大した問題じゃない」
「え?」
「守護獣は主人を護るために存在しとるんじゃ。それが生きる意味じゃ。主人を先に亡くすより、主人を護って消えた方が、もしかすると奴らにとってはよっぽど幸せなのかもしれん」
「そんなの……」
「同意しろとは言わんよ。あくまでも、そういう生き方、在り方が彼らにはあるっちゅー話じゃ。わしらがそれを良しとするかどうかは全く別の問題じゃからな。わしらがその生き方に従う道理もない」
ちらり。彼は鏡を見る。
絶えず流れる映像。目映い獣。
「そもそも、セイ坊じゃぞ。強くて、優秀なセイ坊じゃ。主人を護り切れずに消えるだなんて、そんなことは万が一にもないわ」
それは、セーガの元主人としての誇りか。
「だから……セイ坊は、何度も……何回も、何人もの主人を見送ってきたんじゃろうな……」
「……じいちゃん」
東雲は緩く首を振る。
それで振り切ったかのように、再び話を続けた。
「まあ……あとは、二つ目の問題じゃがな。簡単なことじゃ。互いに絆があるかどうか」
「絆が?」
「言ったじゃろ。命令とは互いの間を絆で繋ぐ代わりに、今まで繋いでいた"力"の鎖を断ち切るもんじゃと。今までの鎖よりも強固に結ばれるか? それとも脆く破られてしまうか? ……鎖から放たれた獣は野獣も同然。飼い主に食いつく可能性だってある。それを制することができるかどうかは……やはり、飼い主次第じゃろうて」
***
誰もがその光景に目を奪われていた。
漆黒の獣が純白に染まるのは、あまりにも圧巻で。
獣はこちらに顔を向ける。
眼差しがぶつかり合う。
その眼差しに信頼を込め、春樹はゆっくりと呼びかけた。
「……セーガ」
"……"
彼は黙ったままこちらに歩み寄ってくる。
春樹を見下ろすようにし――一呼吸と数秒の間。
そして彼は、静かに頭を下げ、春樹の前に佇んだ。
それは、忠誠の証。
彼はどこか呆れたように口を開く。
"……待ちわびたぞ"
「ごめんね、こんな情けないご主人で」
ためらいがちに触れる春樹に、セーガは目を細めてみせる。
"全くもって厄介だ。だが……よく決断したな"
「……うん。まだ自分に自信は持てないけど……でも僕、セーガのことは信じてるから」
自分が彼に釣り合うのか。主としてやっていけるのか。
それを考えると自信はない。ひどく不安になる。
だけど、他の誰でもない、彼が自分に向ける眼差しは疑いようもない。
彼の寄せる信頼を信じることなら――きっと、できる。
"……本当に厄介だ"
やはり呆れたように呟いたセーガは、傍目には分からない程度に口角を上げた。
"だが、ご主人らしい"
――共に、歩もう。
そんな言葉が聞こえたような、気がした。
春樹はうなずく。
沸き起こる感情は様々で、この場で言い表せそうにもない。
ただ、目の前の相棒に、深く深く感謝した。
『……笑わせてくれる』
忌々しそうに相手が毒づくのを耳にし、そちらに意識を向ける。
春樹は息を吸った。声を張り上げる。
「これよりこの場を制する! ――頼んだよ、セーガ」
"御意"
セーガが場を駆ける。
向かってくるものをことごとく蹴散らしていく。
春樹は転がっていた鈴を拾った。
ストラップ状の部分を親指と人差し指でつまみ、軽く振れば、チリリと安っぽい音がする。
何せお茶についていたオマケらしいのだから仕方ない。
――けど、まあ。
ないよりマシかと苦笑し、封御にくくりつける。
それから前を見据えた。
それとほぼ同時に届く、葉の声。
『春樹。いいか、よく聞け』
葉の声は真剣だ。知らず春樹も集中する。
『そこには、いる。来てる。これは賭けだが……邪神とやらを追い出すチャンスだ』
「……いいよ。判断は葉兄に任せる」
『言ってくれるな。どうせお前も、その方法を考えついたんだろ?』
不敵に笑む兄の顔が脳裏に浮かぶ。
だが春樹は否定も肯定もしなかった。
この兄に何か言ったところであまり意味は成さない。彼はそういう人間だ。
『大樹が扉だとしたら、おまえは鍵だ』
「鍵?」
『こじ開けろ』
渡威が唸る。咆哮。怒気をはらみながら向かってくる。
葉の声が鋭く響いた。
『舞え!』
***
「神懸かりは一人じゃだめだと言ったの」
そんな東雲の独り言にも近い呟きにうなずきを返したのは、梢だった。
「ええ。神を見極める者、神を喚ぶ者が必要だと」
「面白いもんじゃな……お主らの子供にぴったりじゃないか」
「……じーちゃん、どーゆうこと?」
「あやつらの能力じゃよ」
くい、と顎で鏡の中を示してみせる。
「葉の小僧が視、ハー坊が喚び、ター坊が聴く。上手い具合に一連の流れができとる」
「あ……」
「誰か一人欠けても、真の儀式は成功しないのじゃろうな」
それは不思議なパズルのように。
「ター坊が、神の媒体となる扉だとすれば。ハー坊は……さしずめ、それを正しく開ける鍵になるか」
***
滑るように足をさばき、身を翻す。
手先、足先の神経にまで意識を注ぎ、空を切る。
迫ってくる渡威を流れのままに受け流す。
封御が鈴と共に弧を描く。
まるで全て組み込まれた動きのように。
『小癪な……!』
後ろから渡威が攻め込んでくる。
しかしそれは純白の翼に叩き落とされた。
次々とねじ伏せられていく渡威たち。
春樹はそれらを意識の外に追いやった。
気にならないわけではないが、しかし、セーガに任せる。信じる。自分は、自分にできることを。
『あの子供だ、まずはあの子供を徹底的に叩け!』
鋭い声に、バラバラだった渡威の動きが一斉にまとまり始めた。
それらは春樹の四方を囲み始める。
しかし春樹は止まらない。
渡威が攻め込んでくる。
正面から、右から、左から、背後から。
肉薄するその刹那、目映い光がそれらを全て蹴散らした。
後方で睨み据える、一匹の獣。
"ご主人に触れられると思うな"
それは、絶対的な警告。
大樹が歯噛みし、直接手を下そうというのか距離を詰めてくる。
しかしそれもまたセーガの攻撃が阻んだ。
翡磅で春樹の周囲を討ち落とす。
それはまるで、光の雨のようで。見ている者も息を呑む。
誰も近寄れない。寄せ付けない。
その光の中心で、春樹はきつく相手を睨めつけた。
「あまりセーガを……僕たちを、なめないでくれるかな」
『く……!』
圧倒的に場を支配し始めたことに焦りが生じたのだろうか。
大樹の表情が歪む。
『やめろ……!』
場に吹き荒れる、荒々しい風。
きっと彼はこちらの意図に気づいたのだろう。
一掃せんとばかりの風は味方であろう渡威すら吹き飛ばすほどの威力だが、今までと異なり威圧的なものではない。むしろ怯えすら感じさせる。
春樹はさらに踏み込む。
意識をギリギリまで研ぎ澄ませ四肢を操る。
やめられるはずがない。
やめてたまるか。
返してもらうのだ。
大樹を――奪い返す!
『やめろぉおお!』
一歩、また一歩。舞を進める。闇を討つように、邪を祓うように。静粛に、厳粛に。
ちりり、ちりり。
鈴の音が後を追う。音がこの場を舞い上がる。
ちり、りりり、
リン!
――空気を静かに裂いた、気がした。
安っぽい鈴の音とは明らかに違う響きが鳴り渡り、誰もが驚きに目をみはる。
それと同時に大樹の動きが止まった。
ただただ立ち尽くしている。
表情は見えない。それはどこか不気味な沈黙。
「大樹サン……?」
おそるおそる、もっちーが呼びかける。
その呼びかけにゆっくりと顔を上げた彼は、
「……」
――ふわりと笑んだ。
それは邪神のものでは到底ない。
しかし、大樹のものでもなかった。
彼はゆっくりと瞬き、春樹にそっと向き直る。
一歩一歩、確かな足取りで歩み寄ってきた。
春樹は動けない。
目の前の相手に気圧されていた。
相手は決して、こちらを屈服させようなどとしているわけでもなく、ただただ自然であるというのに。
音もなく、刻々と漆黒を取り戻しつつあるセーガが寄り添う。
その感触に春樹は我に返り、小さく息を飲んだ。
しっかりしろ。大丈夫だ。
――何が「大丈夫」なのか、自分でも分からないけれど。
そんな周りの緊張に頓着した様子もなく、大樹がすぐ近く、手を伸ばせば触れられる位置までやって来た。
彼はゆるりと見上げてくる。
『お兄さんだね』
「え……」
柔らかな雰囲気を纏い、涼やかに話す相手。
「君は……いえ、あなたは……」
調子を改めた春樹に、相手はクスクスと笑い声をこぼした。
『こんにちは』
「こ、こんにちは……?」
『わたしは、あなたたちのこと、いつも見てたよ。本当は今日だって見てるだけのつもりだった。けど、呼ばれたから』
「……はい」
『大樹のことは……ごめんね。負担はかけたくなかったんだけど……アイツが中にいたら邪魔をするから、わたしが入ることで追い出すしかなかったの。大丈夫、すぐに返してあげる』
「ありがとう……ございます……」
他に何と言っていいものか。
戸惑う春樹に、相手は幼さの見える表情で微笑んだ。
それから相手は振り返る。
視線の先には、呆然と立ち尽くすもっちーの姿。
『あなたたちは……理解を得るのは、大変だと思う』
「え……」
『でも、見る目は確かだよ』
「……」
『がんばってね』
「……はい」
それは、神託なのか。
相手の言葉にもっちーが深々と頭を下げた。
それを満足げに眺め、相手は再び春樹に向き直る。
無邪気な、屈託のない笑顔。
『キレイな鈴の音を、ありがとう』
その言葉と共に大樹の体が崩れ落ちた。
とっさに抱き止めるが、どこか心地は不思議なまま。
しかし徐々に空気は日常的なものに戻りつつあるようだった。
様々な音が、においが、感覚として戻ってくる。
「大樹……?」
そっと呼びかけ揺すってみるが、返事はない。
しかし規則正しい呼吸音と、じわりと伝わる腕の温もりを感じ――春樹はようやく安堵した。
戻ってきた。
やっと、戻ってきた。
ふいに奥から足音が聞こえてきた。
みんなが一斉に振り返る。
いち早く反応したのは渚だった。
「親父!」
ただただ立ち尽くしている人影。
奥は薄暗くて表情はあまりつかめない。
「歌月くんの……お父さん……」
そして、全ての原因を作り出した男。
緊張が走る。
その緊張をかき乱すかのように自分たちの背後から多くの物音がやって来た。
近衛兵だ。ようやく渡威の壁を突破してきたらしい。
「春樹さん!」
先頭を切ったルナが駆けてくる。
彼女は大樹の姿を見つけるなりホッと表情を緩めた。
春樹たちをかばう位置にやって来た近衛兵が、歌月航一郎に向かって油断なく構える。
それでも男に動きはない。
場に漂うのは、不気味な沈黙だった。