2封目 芋虫と日本人形
ふわふわとした気持ちだった。
広い森の中。
鬱蒼として空がよく見えない。
道もまたあるのかどうか曖昧だった。
でこぼこしていて、がさがさしていて、色々なものが邪魔をする。
それでも懸命に前に進み、どこか知っている場所に出ようとして――道のくぼみにつまずいた。
あっ、と思った次の瞬間には地面とこんにちはだ。
痛いだとか、そういう感情はもはやよく分からなかった。
ただじわじわと不安が込み上げ、涙と一緒に滲み出してくるのが嫌でも分かった。
「ふ、ぇ……」
いよいよ我慢ができなくなり感情が爆発しそうになった、その刹那。
"……どうしたの"
そんな声が、聞こえた気がした。
***
目が覚める、というよりは、ぼんやりと意識が浮き上がるようだった。
大樹はゆるゆると瞬き、寝ぼけた頭で思考する。
体の感覚がない。痺れたように動かない。
「夢……? てゆーか朝……にしては暗、っ!?」
どこだここ部屋じゃない!
唐突に気づいて飛び上がろうとし――
「!?」
体はちっとも動かなかった。
というより、先ほどの痺れたような感想も動かないという認識も全て間違ってはいなかった。
大樹は横になったまま自身を見下ろす。
ぐるぐるだ。ぐるぐる巻きだ。
こんな縛られた状態で長く横になっていれば、確かに痺れもするし動くことなど困難だろう。
何だこれ。何なんだこれ。
まとまらない思考で視線を巡らせる。
明かりが点いていないせいで部屋全体が薄暗い。
薄暗さを助長させる汚れたカーテン。
隅にはごちゃごちゃと押し寄せられた木造の机や椅子。
これは――。
「起きたか」
どこから降ってきたのか、気づけばそこには一人の少年が立っていた。
猫目を苛立たしげに細め、だらりと後ろ髪を一本に垂らした少年。
「シッポ!」
「言っとくが趣味じゃねーからな!」
「? 何も言ってねーよ」
いきなり大声で怒鳴られ、顔をしかめる。
怒鳴りたいのはこちらの方だ。
訳の分からない状態に放り込まれたあげく、ぐるぐる巻きだぞ。ぐるぐる巻き。
何がどうなっているのか。
大樹は歌月渚を睨むように見据えながら、懸命に思考をたぐった。
(確かオレ、お祭り行って……?)
春樹たちと祭りに行き、渡威が出た。
そこで野田仁が鉄筋の下敷きになり、助けを呼ぼうと……。
そこまで思い出し、背筋がぞっとした。
目の前で起きた、恐ろしい出来事。
あいつは大丈夫なのか。そして春樹は。
「おいシッポ!」
「シッポって呼ぶな!」
「あいつは!? 春兄はダイジョーブなのか!?」
「それなら心配ないですよ」
ドアから出てきたのは、頭にバンダナを巻いた青年。
丸い目が幼さをかもしだし、締まりのない笑みが緊張感を失わせる。
「もっちー……」
呆然と呟き、大樹はまじまじと相手を見つめた。
そうだ。助けを呼び、春樹たちの元に戻ろうとしたところで自分は彼に捕まったのだ。
「……心配ないって」
「春樹サンは怪我もしてませんし、あの野田という人でしたっけ? その人も入院はしていますが、命に別状はないようです。彼に限っては幸運でしたね。正直、こちらも駄目かと思いました」
「なに……っ、だって! だっ、で……でも、だって」
言葉が迷子になって出てこない。
だって、あれは。
彼は春樹をかばって下敷きになったのだ。
一歩遅ければ、違っていれば、大怪我をしていたのは春樹だったことになる。
それは信じたくなかった。
もちろん野田仁なら良かったというわけではないが、それでも、もっちーが春樹や自分たちをあそこまで危険な目に遭わせようとしただなんて――信じたくもない事実だった。
もっちーは小さく息をつく。
それから軽く首を鳴らした。
「渚。交代」
「……ふん」
不機嫌そうに鼻を鳴らした渚がドアの奥へ消えていく。
それを見送った後、もっちーは椅子に腰を下ろした。
木製のそれがガタガタと不快な音を立てる。
「もっちー」
大樹は声を硬くした。
それにも関わらず、もっちーの様子に変わりはない。
何でもないことのように。どうでもいいことのように。
「何です?」
「とりあえずこれ、ほどけよ」
「うーん、今はちょっと」
「だあああ! 今はちょっと、じゃねー! 痺れてんだよちくしょー! いいからほどけってば!」
苛立ちをたっぷり込めながらじったんばったんと全身でアピールしてみる。
あまり迫力があるようには思えないが仕方ない。今の大樹ではこれが精一杯だ。
それを見たもっちーがやんわりと苦笑した。
「そんな、打ち上げられた魚じゃあるまいし」
「だからほどけってば!」
「だって大樹サン、ほどいたら逃げるでしょ」
「だったらこのままでも逃げてやるからなアホー!」
ぎゃんぎゃんと腹の底から叫び、もぞもぞと移動を開始する。
負け惜しみでも何でもなく本気だった。
大樹はやると言ったらやるのだ。やってやるのだ。
"芋虫みたいなの"
"いもむしー"
「うわ!?」
前振りもなく出てきた人形にぎょっとする。ぎしりと体が強ばった。
何で人形が喋っているのかと混乱が押し寄せる。
いきなり髪でも伸び出しそうな、おかっぱ頭の典型的な日本人形。
それがニ体。
表情があるためにそれほど怖くはないが、それにしたっていきなり出てこられたら驚くのが当然で――。
そこで気づく。特殊に浮き出ている、額の模様。
「と、い?」
人形が首を傾げる。このままでは言葉が通じないのだと遅れてわかった。
大樹はごくりと唾を飲み、意識を澄ませる。
その意識を人形に向け、恐る恐る口を開いた。
「"渡威なのか?"」
"バレたの"
"そうなのー"
思いがけず朗らかに答えられ、大樹はぱちぱちと瞬いた。
穴が空くほど目の前の人形を見つめてしまう。
照れたように人形が身じろぎしたのは目の錯覚だろうか。
「……えーと」
"大樹なの?"
"君なの?"
「"そ、そうなの"」
――つられた。うっかり。
調子が狂って仕方ない。
助けを求めてもっちーを探せば、近くに立ったままだった彼はにこりと笑んだ。
「大樹サンのお守り役です」
「おも……!?」
何だそれバカにしやがって!
そうカッとなり身を起こそうとした瞬間、ニ体の人形に思い切りのし掛かられた。
勢い余ってべしゃりと床に潰れる。痛い。
「~~!」
"きゃー"
"キャー"
「"きゃー、じゃない! いってぇな! 何すんだよ!?"」
"じっとしてなきゃなの"
"わたしたちとお喋りするの"
「"うええええ!?"」
冗談じゃない。そんな悠長なことをしている場合か。
そうツッコミを入れたいのだが、いかんせん、大樹の頭は状況処理能力に長けていなかった。
だからニコニコとした人形を、呆然と、言葉もなく見つめるしかなく――。
"黙ってちゃわからないのー"
"にらめっこなの?"
「"ちょ、髪とか耳とか引っ張んな! おいこら背中で動くなくすぐった……ぅあははは!? こらっ、おま、うえええ!?"」
よく分からない悲鳴がその部屋に響いていたとか、何とか。
***
渚は苛立ちを踏みしめながら廊下を進んでいた。
周りにはうようよと渡威がいる。
無関心なのもいれば興味深そうにこちらに視線を飛ばしてくるものもおり、文字通り様々だ。
混沌とした奇妙な光景。
正直なところ、薄気味悪いし胸くそ悪い。
父が集めたものでなければ渚は近寄ろうともしなかっただろう。
(それにしたって……)
渚はふいに足を止める。
――不安は、あった。
何をしようというのか。どこに進んでいるというのか。
渚は何も知らされていない。
あのヘンテコな渡威は知らされているようだというのに!
込み上げる不愉快さに眉を寄せる。
舌打ちも加えてやれば、周りの渡威は不思議そうにこちらを見てくるだけだった。
それがますますうっとうしい。
それらの腹立たしさを抱えたまま再び乱暴に足を進める。
見えてきたドアに手をかける。
そこで渚は息を吸い――発散しきれなかった苛立ちも、丸ごと飲み込んだ。
ドアを開ける。
響くのは、耳障りな音。
「親父」
声をかけると、影が顔だけ振り向いた。
目が合いそうになり、とっさに言葉を詰まらせる。
それを不思議に思ったのか、相手――椅子に黙って座っていた父は低く声を漏らした。
「どうした」
「……あいつが、起きた」
「そうか」
言うなり父は席を立った。
口元は笑みを形作っているようにも見えたが、すぐに顔を下に向けた渚にはよく分からない。
こちらに向かってくる父の足を凝視する。
その足は迷いもなく渚の横をすり抜けていく。
父が黙って横を抜け、廊下へ歩いていく。
ドアがやはり耳障りな音を立てるのを聞き届け、渚は何度目かの舌打ちを鳴らした。
面白くない。なぜか分からないが、とにかく――面白くない。