1封目 お見舞い
「ふぅん」
むしゃむしゃとリンゴを噛み砕きながらの気の抜けた反応に、春樹は無言で肩を落とした。
目の前の男は気にした風もなくリンゴを租借し続ける。
何かあったのかと聞かれたから話したというのに。嫌になる。
男――野田仁は病院のベッドに横たわり、次のリンゴに手を伸ばした。
まだ食べるらしい。これでもう何個目だろうか。春樹はとうに数えるのをやめた。
見舞いがてらに切り分けてやったのは春樹だが、切り分けてやった甲斐があったというか、いっそ丸かじりしとけよと思ってしまうというか、何というか。
「で、その歌月ってやつの母親は、まあ、結局のところ、何だって急に現れたんだ」
「まあ……それもまた微妙というか突飛というかでして」
春樹は曖昧に首を傾げ、自分も皿に横たわったリンゴへフォークを突き刺した。一口。甘い。
仁がこうして入院しているのも、そもそもは歌月が解き放った渡威が原因だ。
そのため決して無関係とはいえず、しばし悩んだ末、春樹は再度口を開く。
――が、その前にもう一口。
シャリシャリとした食感が心地よい。
「歌月くんはいわゆる倭鏡と日本のクォーターみたいなもので……その親であるお母さんは、ハーフ、なんですよ」
倭鏡と日本のハーフ。
それは春樹たちもそうだった。
日本で生まれ育った百合と、倭鏡の王家として生まれ育った梢との間に生まれた子供。
日本――もっと言うなら地球には倭鏡と相反するエネルギーが存在しているらしく、倭鏡の人が日本へ来るには何らかの問題が生じる。
しかし、日本人としての血がそのエネルギーを相殺し、春樹たちはこうして日本で生活を送っている。
だから。
つまり。
* * *
「今までどうしてたか? そりゃ……日本をブラブラしてたのよ」
汐帆はいともあっさりと言ってのけた。
城の客間に該当する部屋で、中にいるのは彼女と、葉、そして春樹だ。
扉の向こうには見張りが控えているし、恐らく春樹に分からないだけでこの部屋の中にも近衛兵の類が潜んではいるのだろうが、それはともかく。
汐帆は椅子にどっかりと腰を下ろし、出されたお茶を一気に半分ほど飲み干してしまう。
その表情は美味しそうだ。
あの飲みっぷりでは味が分かっているのか怪しいところであるが。
「日本に……」
「ちょいと旦那と喧嘩してねぇ。せっかくだから飛び出したついでに日本の方を回ろうと思って。それなら追ってこられなくて煩わしくないし、私もあんまりゆっくり見て回ったことはなかったし。母親の生まれ育った場所を巡って頭の血を冷やそうかと思ってね」
春樹、葉は黙って顔を見合わせる。
「どうよ」と無言で問われ、春樹が答えに窮したとしても誰も責めはできないだろう。
どうよ、と言われても。
これが嘘であれば大したものだと思う。なんといっても大胆すぎる。
「ちなみに日本にはどれくらい……?」
「そうねぇ、だいたい半年くらいかねぇ」
春樹と葉は再び顔を見合わせる。
時期的に、そしてこの態度を見るからに、渡威騒動の前に彼女は日本に出たと推察できた。
だから彼女は歌月家と日向家が対立状態であることも知らないし、こうしてのほほんと家族の居場所を探しているのだ。
それにしても半年とは。なかなか大がかりな家出である。
どう反応していけばいいか悩んでいると、ふいに扉が開かれた。
中から出てきたのは、
「汐帆ちゃん!」
「おや、百合ちゃんじゃないか!」
弾けるような二人の声。
突然入ってきた百合と呼ばれた女性――ふわふわとした雰囲気や若々しい顔と体つきで下手をすると少女にも錯覚しかねない――は、春樹たちのれっきとした母親だった。
彼女は小走りでこちらに駆け寄り、勢いよく汐帆の肩に抱きつく。
「汐帆ちゃん、全然見ないから心配してたのよ」
「あっははは。百合ちゃんってば相変わらず可愛いねぇ! わたしゃこの通りピンピンしてるよ。日本で療養しまくったしね。百合ちゃんこそちょっと痩せたんじゃないかい?」
「え、やだ、汐帆ちゃんったら」
「褒めたっていうより心配だよ、ただでさえ細いんだから」
「もう、汐帆ちゃんこそ相変わらずね」
「ははっ、そりゃ何より。梢さんは?」
「今は病院よ。本当は来たがってたんだけど……」
「ああ、そういえば入院中だったか。無理はいけないよ。そうか、それで葉くんが跡を継いだんだっけ? 本当に百合ちゃんとこの子たちはしっかりしてるねぇ!」
きゃあきゃあと騒ぎ合う彼女らはまるで女子のソレだ。
母が元からやたらと若々しいのは承知していたが、状況が状況なだけに春樹の頭痛はより増してくる。
それにしても、と思う。
我ながら汐帆、渚の"母親"の存在を忘れていたのは迂闊だった。
考えてみれば汐帆の存在そのものは決しておかしくはない。
(歌月くん、親父が親父が、って言ってたからなぁ……)
何かあるごとに「親父が」と口走っていた猫目の少年を思い浮かべる。
ファザコンなのだろうかと思ったが、そのせいで母親の存在を失念するはめになるとは。
びっくりだ。色々な意味で。
ひとしきり騒いで満足したらしい百合が、ほうと静かなため息をつく。
幾分か弱々しい微笑みを浮かべて。
「……本当に良かった……汐帆ちゃんが変わってなくて。航一郎さんがあんなことになっちゃったから、どうしているのかって心配してたの」
汐帆が瞬き、強気そうな眉をひそめる。
「それなんだけど。さっきからこの子たちってば反応が鈍いっていうか、はっきりしないんだよ。うちの馬鹿共に何かあったのかい」
「……それは」
率直な問いに、三人は次の言葉を探す。
しかし何をどう説明すればいいのか、それはあやふやすぎて出てこなかった。
その雰囲気を肌で感じ取ったのか、汐帆はひょいと肩をすくめてみせる。
「ふぅん、まあ、それもあるけど。そういや、百合ちゃん」
「え……なぁに?」
「もう一人いたろう。大樹くんだっけ。今日はあの子は一緒じゃないのかい?」
それは奇しくも、春樹たちが言えなかったことの核心に迫るもので。
珍しく百合が顔色を変え、言葉をなくしてしまったとしても――やはり、誰も責められはしないと、春樹は思うのだった。
* * *
「……で、まぁ、どうだったんだ、その辺に関しては」
「……結局ありのままを説明しました。けど、やはり汐帆さんは何も知らなくて」
仁に説明を促され、春樹はそっと眉をひそめる。
初めに笑い飛ばし、それから徐々に驚きに色を変えていった汐帆の様子がありありと脳裏に蘇った。
その一連の流れも決して嘘をついているようには見えず、結果、春樹たちは何も情報を得られていない。
「あー……そういえば。汐帆さんいわく、まさか夫婦喧嘩の腹いせじゃないだろうね、とは口走ってましたけど」
「は?」
「汐帆さんが日本に出る前の喧嘩、結構ド派手だったらしくて。そのとき、僕の父親のことを引き合いに出したらしいんですよ。比較して、それはもうボロクソに旦那さんのことを罵倒したと。まさかそれで日向家に恨みを持ったんじゃないだろうね、とか何とか」
「それが事実なら壮大すぎる喧嘩だろ。犬も食わないぞ、なあ。ああ、おまえのとこのワンコは食うか?」
「ワンコって言うな」
春樹の能力である召喚獣を引き合いに出され、思わずムッとする。
確かにセーガは犬に酷似しているが、「ワンコ」では決してないし、彼にそう呼ばれる筋合いもない。そもそも食べない。
そこまでのやりとりを終え、春樹はため息をついた。
椅子から静かに立ち上がる。
「とりあえず、またあちらに戻ります。何か進展があるかもしれませんし」
「ああ、なんだ、お見舞いありがとうな」
「……別にお見舞いのつもりでもないですが」
素っ気なく返すと、相手はクツクツと低く喉を震わせた。
しかしそれに苛立つのも相手のツボなわけで、春樹は表情を変えずに一礼する。
去ろうと背を向け――しかし、ふいに伸びてきた手がその動きを止めさせた。
「そうだ、忘れてた」
「? 何ですか。用がないなら腕をつかまないでください」
「お前、こっちの話聞く気、ないだろ、なあ」
いつもの平坦でぼんやりとした口調のまま、仁は肩をすくめる仕草をしてみせる。
春樹はあえてそれに反応をしなかった。
なにせこの男相手である。多少は毒を吐きたくなるというものだ。
「せっかくだから、ちょっと、やろうと思って」
「やる?」
「ほら」
そう言って春樹の手に握らせたもの。
それは小さな鈴、であった。
瞬き、手の中で軽く転がす。
チリンと心細げに鳴った他、特に変わったこともない。
しかしどこかで見たような。
「……これは?」
「なんていうか、まあ、お守りみたいなもんだ」
「……お守り?」
それこそ予想外の言葉で、春樹の瞬きはさらに増える。
意味が分からなかった。男の意図も、鈴である理由も、あまりにも突飛すぎて。
しかし仁は気にしていないのだろう。大きな欠伸なんかをかみ殺している。
訳も分からずチリンと再び鈴を鳴らし、――気づいた。
「これ、お茶についてたオマケでしょう」
「なんだ、バレたか」
「……」
ペットボトルのお茶にオマケとしてついてくるものだ。
売店に寄ったときに並んでいるのを見かけた。
要するにこの男は、要らないオマケを春樹に押しつけただけなのだ。「お守り」だなんて称しておきながら。
なんとも人を食った奴だと春樹はため息をつく。
しかしこれ以上相手にするのは労力の無駄だとひしひしと感じ、特に文句も言わず、無造作に上着のポケットに突っ込んでおくことにした。
やれやれ、だ。どいつも、こいつも。