4封目 大きな駄々っ子
翌日が休日だったのは、春樹にとっても、そして男にとっても都合が良かったのかもしれなかった。
玄関を開ければ、昨日と同じような姿で男はやはり立っている。
その光景は異様であり、不気味であり――そしてどうしようもなく腹立たしいものに感じられた。
気持ちを落ち着かせるために息をつく。
中にまだ大樹はいたが、念のために鍵をかけて一歩外に出た。
大樹にはあらかじめ「出かけてくる」と言ってある。
「……よくもまあ、飽きませんね」
感情のこもらない声で呟けば、男はわずかに目を丸くする。
春樹から話しかけたのはこれが初めてだ。そのことにおそらく驚いたのだろう。
男は片手を上げる。さも当然のように。
「よぉ。その様子じゃ、俺のこと、思い出したのか?」
「そうですね」
相も変わらず平坦な声で返し、春樹は相手に笑顔を叩きつけてやった。
「いかにも変質者らしい人が、本当に変質者だった。僕が思い出せたのはそれだけです」
「……なるほど、ああ、そうか、名乗ったこともないもんなぁ」
「そういう問題じゃないです」
すぐに表情を打ち消し、春樹は男の前に立つ。
「あいにくですが、家に入れる気はありません。正直今すぐにでも立ち去ってほしいくらいですがあなたのしつこさはここ数日で分かっていますので無駄な時間を過ごしたくもありません。とりあえず場所、移しましょう」
「お前、よくそんなに早口で喋れるな」
的外れなことばかり言う相手をじろりと睨み上げる。
その的外れさが意図的だったのかどうかは定かでないが、大げさに肩をすくめた男はすかした風にため息をついた。
「分かった、分かった、文句があるわけじゃない。この通りを抜けたところに喫茶店みたいなとこあったろ、そこでどうだ」
「……そうですね」
人目はあった方が、いい。
男の提案に小さくうなずき、春樹は男の隣に立って歩き出した。
――決して隣に並びたかったわけではないが、男に背中を向けるのが嫌だったのだ。
それは明らかな警戒。
春樹はすでに、男を敵とみなしていた。
着いたのは確かに喫茶店で、入るなり笑顔で出迎えてくれたウェイトレスにより奥の席へ案内される。
休日だからだろうか、思ったよりも混んでいて店内に流れるBGMや話し声で賑やかだ。
腰を下ろしたところで水が運ばれ、さらに注文を訊かれたので流れのままにメニューを開いた。
本当は何も口にする気分ではなかったが、入店しておいて注文をしないというのも気が引ける。
仕方なく春樹はウーロン茶を一杯注文した。
「そちらのお客様は……」
「イチゴパフェ一つ」
「かしこまりました。ウーロン茶が一つ、イチゴパフェが一つですね」
ウェイトレスーは笑顔と共に去っていく。
――イチゴパフェって。この空気で、イチゴパフェって。
気力が削がれそうになるのを必死に堪え、春樹はテーブルに落としたくなる視線をかろうじて上げた。
正直なところ、この男と向かい合うなどもってのほか、そもそも話したくもないし見たくもない。
さらに言うなら存在を認識したくもない。
だが、負けてなるものかという一つの意地が春樹をしっかりと支えていた。
「……あのですね」
「ん、何だ、春樹」
「……気安く呼ばないでください」
「あぁ、名乗ってなかったってさっきも言ったよな。俺は野田仁だ。野田でも仁でも何でもいいぞ」
「……」
この男は話す気があるのだろうか。先ほどから会話が全く噛み合わない。
わざとなのか、天然なのか。どちらにせよ春樹の神経を容赦なく苛立たせていく。
「どうでもいいです、あなたの名前に興味はありません。それより何ですか、どうして僕の前に現れたんですか」
「どうして、って言われてもだな」
「謝りに来ただなんて言ってましたけど……アレを、謝って済まそうだなんて馬鹿馬鹿しいことを本気で言ってるんですか?」
「いや、別に。あれは何というか、まあ、口実で言っただけだしな」
「口実、って」
「謝るようなことをしたつもりもないし」
平然と言ってのける。そのことに愕然とした。
――謝るようなことをしたつもりが、ない?
幼い子供に対して誘拐まがいのことをしておいて?
「……野田さん」
「だって別に、俺、お前に直接暴力を振るったりとかしてないだろ。きちんと家にも帰したし」
「いたいけな子供に一生物のトラウマを植え付けておいてよくもまあそんなことが言えますね」
口調に棘が混じるが、やめるつもりはない。
男――野田仁の主張はこうだ。
自分は直接暴力を振るっていない。だから傷つけていない。
だから、謝ることはおろか、悪いことは何もしていない。
しかしその理屈が世間に通じるはずもない。
春樹からすれば子供を半ば力づくで連れ去り、一時的にとはいえ閉じ込め、脅す――その行為はもはや犯罪である。
だというのに、仁は不満そうに口を尖らせた。
「あれだろ、そのトラウマとやらって、お前の前でカラスを絞め殺したことだろ」
「……」
「あれは、だって、お前が泣かないから」
だから、お前が悪い。
そう言いたいのだ。この、目の前の大人は。
自分よりもずっと図体の大きなこの大人は、何の悪びれもなくそう言おうとしているのだ。
春樹ははっきりと目眩を感じた。話が通じない。
そこにウェイトレスがウーロン茶を持ってやって来た。
春樹の目の前に置いていく。
こんなときでも反射的に春樹はウェイトレスに小さくお礼を言い、軽く頭を下げていた。
それに気を良くしたらしいウェイトレスもまた笑顔で離れていく。
一時休戦とばかりに春樹はそのウーロン茶へ口をつけた。
――とにかく、まずは落ち着きたい。
渇き始めていた喉を滑るウーロン茶はこんなときだからこそ余計に美味しく感じられた。
まだ氷が溶けていないため多少のぬるさはあるが、今の春樹にとってそんなものは些細なものだ。
それよりも目の前の男から感じる奇妙な生ぬるさをどうにかしたい。
「……何で今頃になって来たのか知りませんが」
四分の一ほど減ったウーロン茶を傍らに置き、春樹は声のトーンを低くした。
「事前にはっきりと言っておきますが今さらまた変なことは考えないでくださいね。僕に何かしようとしたらそこの犬に容赦なく噛み付かせますから」
その言葉を言い終えた頃には、今まで何の気配もなかった場所に一匹の犬が鎮座していた。
否、犬に酷似しているがただの犬のはずもなく――それは春樹の“力”で召喚された守護獣、セーガだ。
黒々とした毛並みを纏い、春樹の傍に控える彼ははっきりと仁を警戒している。
仁は突然現れた生き物に驚きを隠せないようでぱちくりと瞬きを繰り返した。
それはそうだろう。彼の行う手品のように種や仕掛けがあるわけでもない、一般の人からすれば超常現象だ。
本来であれば倭鏡に関わりのない相手に“力”を見せることなどない。
少なくとも春樹はそう心がけてきた。
しかし、今の春樹の心境としては「構うものか」という幾分ヤケが入ったものだった。
目の前の相手に今さら何をどう思われようが構わないし、彼がこの秘密にも近い能力を他人にバラしたところで到底信じてもらえるはずがない。
むしろ仁の正気が疑われるだけだ。
(……あのときも、セーガを出せれば良かったのに)
ぽつりと、所在ないことを思う。
もしもあのとき、今の自分だったら、春樹は問答無用で仁にセーガをぶち込んでいたことだろう。
それくらいの度胸と覚悟があるくらいには成長してきた。
もちろん幼い頃から“力”はあった。仁と初めて接触した頃もセーガを召喚することはできた。
しかし昔は今のように思うだけで呼び出すことはできず、また、呼び出すためには相当の集中力も必要だったのだ。
何より、あのときの春樹はどうしていいか分からなかった。
セーガを無事に呼び出せたとして、目の前の男をどう倒すのか、倒せるのか、それから逃げることはできるのか、相手が突然怒り出して暴れ出すのではないか――不安と恐怖で冷静な判断ができなくなっていた。
そう。過去の春樹は、確かに目の前の男に恐怖していたのだ。
その事実が、またどうしようもなく腹立たしい。
「犬? いや、でも、さっきまでそんな……って、おい、おい春樹、噛んでる、こいつすでに俺の足噛んでるぞ」
「僕に何かしたら噛み付かせるとは言いましたが、自主的に噛むのはセーガの判断なので僕からは何も言えませんね」
「いや、そこは躾ちゃんとしようぜ、なあ」
仁の声にわずかながら情けなさが混じるが春樹は取り合わなかった。
しかし比較的すぐにセーガは仁から離れ、春樹の傍に寄り添う。
その瞳はどこか責めているようで――ただ、気遣わしげでもあった。
セーガは春樹が忘れていた過去も覚えている。
だからこそあれほどまでに警告していたのだろう。
そして仁と向き合っている今、春樹はセーガの警告を無視してしまったことになるのだ。
それは春樹としても心苦しい。
けれどきっちり正面からケリをつけないと、この男が諦めてくれるとも思えない。
そこへイチゴパフェが運ばれてきた。
仁は嬉しそうに受け取り、噛まれていた足などなかったかのようにパフェをスプーンで突き始める。
元々セーガも威嚇のつもりでさほど強く噛んでいたわけではないのだろう。
ちなみにセーガは上手く物陰に隠れウェイトレスの視界からは消えたので、二人は特に中断されることもなく話を戻す。
「ん、まあ、安心しな。別にどうこうするつもりはないから、まあ、ピリピリするなっていうか。いただきます」
「それを信じろというのも難しい話ですけどね……。……それと一つ、訊いてもいいですか?」
「ん?」
「……ああいうこと、今もやってるんですか」
――春樹自身のことについては、半ば諦めている。
許すつもりは毛頭ないが、昔の話であるし、証拠らしい証拠を出すこともできない。
だが、もし今も続けているのであれば。
新たな被害者が出るのを防ぐためにも、春樹は通報なり何なりするべきだと密かに決意する。
しかし仁はあっさりと首を振った。
スプーンに大きなイチゴを乗せ、一口で頬張る。
「いや、今は別に。というか、そうだな、お前が最後だったな」
「……僕が?」
「お前は俺の原点だからな」
「……はあ?」
意味が分からない。
怪訝な表情で仁を見ていると、彼は気にした風もなくスプーンで幾重にも飾られたホイップクリームを突き、軽快に口に運び始める。猫背な背中をますます丸くしながら。
「まぁ、そうだな、せっかくだし少しは俺の話もしようか」
「は……? 別に興味は」
「いいだろ、ほら、昔は俺がお前の話を聞いてやったんだ」
「……話したくて話したわけじゃないですけど」
「そうだなぁ、俺の家は昔、すごく貧乏だったわけだ」
こちらの話を聞いていない。嫌になるほど。
春樹は仕方なく肩の力を抜き、楽になるよう姿勢を変えた。
興味がないとは言ったものの、それがこの現状に関わる話であれば知っておくのもいいかもしれない。
それに理不尽な過去に理由があるのなら、少しは春樹の気持ちも軽くなる――かどうかは正直なところ自信がないが、知る権利くらいはあるのだろう。
仁は感慨深そうな口調でも何でもなく、ただぼんやりと言葉を続ける。
「貧乏だったから、我慢ばかりさせられたな。両親に怒られることなんてしょっちゅうだった。今でもあいつらのことを思い出そうとすると、鬼というか、そう、怒り狂ってんじゃないのかっつー顔しか思い出せん。少しでもワガママを言えば殴られたし、怒鳴られたし、飯を抜かれたこともあったか。だから俺は何も言えなかった、というか、言う気になれなかった。それに、泣くとまた怒るんだ、あいつらは。うるさいって。お前が泣くと頭が痛いから黙れって」
ざくり、と仁はスプーンをパフェに突き刺した。
下の層に入っていたコーンフレークがばりばりと音を立てている。
「そんなもんだったから、両親が死んだとき、俺は解放されたと思ったな。それと同時に知った、手を伸ばせばたいがいのものには届くって。昔はあいつらの冷たさに、手を伸ばすなんてこと考えもしなかったけど、やろうと思えばできるって」
口調がだんだん熱を帯びてくる。
春樹は口を挟むこともできず、居心地の悪い思いで手持ち無沙汰にストローをぐるりと回した。
カラリ、と溶けかけた氷が音を立てる。
「反動、だったのかもしれんなぁ。それからは欲しいものは何が何でも手に入れようとして、俺自身がびっくりするくらい、なんというか、とにかく我武者羅だった。それで、俺は一つ、無性に欲しくなったものがあったんだ」
「……?」
「子供の泣いた顔とか、泣き声とか、そういうのが無性に見たくて、聞きたくて、仕方なくなったんだ」
「っ――」
それは。
思いがけない話題の転換で、春樹は無意識に体を強張らせた。
そこで繋がるというのか? アレに?
「変な話だよなぁ。俺はさ、正直、怒られるのが怖くて泣くこともままならない。それは今でも。……なぁ、お前、知ってるか? 虐待する親ってのは、その親自身も虐待されてたケースが多いんだってよ。それ以外の経験がないし、それをなぞるように繰り返しちまうケースは結構あるんだと。だったら、俺はふつう、子供の泣き声なんて嫌なはずだよな? うるさくて、イラつくはずだよな」
混ぜてぐちゃぐちゃになった塊を仁は大きく頬張った。
咀嚼し、ぞんざいに落ちてきた髪をかき上げる。
「だけど……まあ、なんだ、どこかで捻じ曲がったんだろうなぁ。俺はむしろ、自分が泣けないのを埋めるようにガキが泣くことを欲したんだ。痛いのは好きじゃねぇから、まあ、暴力とかじゃなくて間接的にだけど」
「……十分非道ですよ」
ボソリと呟く。
そこで仁はようやく顔を上げ、まじまじと春樹を見た。
「色んなガキを見て泣かせてきたけど、最後まで泣かなかったのは結局お前だけだったな」
「……それは」
「お前はさ、俺に言ったよな。泣けない、泣き方を忘れた、だからごめんなさいって」
昨日思い出した記憶と照らし合わせてみてもそれは事実だった。
理由は蛍たちに話したことと相違ない。
「話を聞いてみりゃ、まあ……変な話だ、拍子抜けするくらい。何だこいつアホかと、そう、俺は思ったわけだ」
「あなたには言われたくないです」
「だけど明らかに怖がってるし、嘘を言ってる風でもない。俺とは違って、そういう訳の分からない理由で泣けない奴もいるのかって、俺はある意味感心した」
「あの、バカにしてます? してますよね?」
「……拍子抜けしたし、泣けないってのはある意味仲間みたいなもんだし、結局俺はお前をそのまま帰したよ。そのとき、お前、俺に笑いかけたんだ。話を聞いてくれたことは、ありがとうございます、って」
「……」
――春樹は、思わずテーブルに突っ伏した。頭を抱える。
何だそれ。何だ自分。
確かに幼い頃、あまり悩みを打ち明けることはできなかった。
打ち明けるほどの悩みかどうかすら判断がつかずにただ抱えていたのだ。
だからおそらく、泣けないことを口にした相手は仁が初めてだったのだろう。
口にしたというよりも説明を強要されて言わざるをえなかっただけの気もするが、幼い自分にとって悩みを表に出せたこと、それ自体は良かったことになるのだろう。
だが、だからって。
だからって礼を言うか。むしろ責めたっていいくらいのことを自分はされたはずだ。
「おい、どうした」
「……過去の自分の健気さに泣きたくなっただけです」
「泣けないくせに」
「黙れ」
乱暴に言い捨て、春樹は無理矢理体を起こした。ここで挫けても仕方ない。
「……俺は、ビックリしたよ」
「僕もビックリですよ」
「俺自身に笑顔を向けられたことって、記憶の中じゃ、全然なかった、その時が多分初めてだったんだ。それで俺は、あぁ、そうか、笑顔もいいかもしれないと感銘を受けたわけだ」
「……」
「それからどうしたら笑ってもらえるか、色々考えて、道中で手品やってる奴らがいるのを見かけて」
春樹は曖昧に納得した。少なくとも彼が手品をやり始めた経緯はおぼろげに理解した。
単純すぎる、という以外に特に感想はないが、そもそもこの男の軸全てが危なっかしいほどにぶれているようなものだ。
それにしても、と残っていたウーロン茶を飲み干し、隠し切れなかったため息をつく。
昔の自分には本当に頭を抱えたくなるが――そのおかげでこれ以上被害者が出ないようになったのだとすれば、褒めてあげた方がいいのだろうか。
しかし、だからこそ仁は春樹を忘れず「原点」だのと言ってくるのだ。
そう考えるとやっぱり笑顔なんて向けるべきではなかった、ような、気がする。
綺麗にパフェを食べ終えた仁が顔を上げた。
春樹の疲れたような表情を見て不思議そうに瞬く。
「なんだ、何か言いたそうだな」
「いえ別に。心の中でひっそり何言ってんだこの変態野郎だなんて思ってませんから」
「思ってんじゃねぇか」
「嘘は言ってません。心の中でひっそりではなく実際に口に出しました」
貼り付けたような空虚な笑顔で容赦なく言い放つ。
しかし仁は気に触った風でもなく、「ふぅん」と空のパフェの容器にスプーンを突っ込んだ。
動かすたびにカチャカチャと耳障りな音が響く。行儀が悪い。
「……あ。しまった」
「え?」
「財布がない」
「……え」
え。
唐突、かつ不穏なセリフに思わず貼り付けていた笑顔も忘れて固まった。
「え、ちょ、野田さん?」
「いや、勘違いするな、金はある」
「あ……そ、そうですか。それなら……」
「家に」
「こらぁ!?」
立ち上がりかけ、寸でで理性が働きかろうじて堪えた。
しかし堪え切れなかった怒りがふつふつと体を震わせる。
家にって。それでは困ることに変わりない。
とっさに出た大声にウェイトレスがちらと視線を寄越してきたがそれに反応する勇気はなく、春樹は仕方なく自分の鞄から財布を引っ張り出した。
少しばかり動揺しながら中を覗き――ホッと息をつく。
先日買い物をしたばかりで「もしや」と思ったが、何とかウーロン茶とパフェの料金を払えるくらいの分は残っていたようだ。
「はぁ、なんだ、ケーキも食いたい」
「……は? 何ふざけたこと言ってんですか。ここの代金払うだけで精一杯ですよ。というか真っ先に飲食店を指定しておきながら財布を持ってないってどういう了見ですか」
「忘れてたんだって、わざとじゃねぇ。それにだ、今食えないと思うとますます食いたくなる」
言いながら仁が注文ボタンに手を伸ばすものだから、慌ててそれを引き寄せた。
春樹には信じられないが、彼の淡々とした口調だと本気で押そうとしたようにしか思えない。
「お金がないんだから無理言わないでください。食い逃げする気ですか」
「すればいい」
「何っ――」
「何で邪魔をする? 俺が食いたいって言ってるのに、今、今すぐ、食いたいって言ってるのに。甘いものが食べたいんだ、長く話すと疲れるだろ、だから食いたいんだよ、俺は今、ケーキが食いたいんだ」
熱に浮かされたように言葉を押し流し、語気を次第に強めていく。
その異様な空気にたじろいだ。
答えに迷っていると思っていたよりも太い腕が首に伸びてくる。
「――!?」
この手が、この腕が――昔、カラスを絞め殺した。
思い出したくもない記憶が鮮明に蘇りそうで、絞められる苦しさとは別に意識が遠のきかけた。
しかし傍らに寄り添うセーガの存在を目に入れ、込み上げてくる悪寒を必死に振りほどく。
首を圧迫する力はそこまで強くない。おそらく、まだ警告の段階なのだ。
だから飛び掛ろうとしたセーガを「まだだ」とその場で留め、ともかく腕を引き剥がそうと両手を手首にかけるが、どうしても力では負ける。引き剥がせない。
「邪魔をするな、するなら……」
「迷惑、でしょうが」
声は、出る。
押し寄せてくる圧迫感に顔をしかめながらも春樹は仁を睨みつけた。
「あなたがお金を払わなければお店の人は迷惑します。いいですか、食い逃げは犯罪です。悪いことなんです」
「そんなのいつ、誰が決めた? 俺はな、そんな決まりに賛成した覚えはないぞ、誰かが勝手に決めたことだろ」
「それがルールです。ルールは守るものだって教わらなかったんですか。郷に入れば郷に従え、って言うでしょう」
「だからそんなの」
「それが嫌ならご自分でルールを変えるだけの努力でもしたらどうですか。偉くなってみんなが納得するようなルールを決めてみればいいじゃないですか。そうでもなくただ嫌だと喚くなんて、っぐ」
癪に障ったのだろうか、力が増した。
呼吸が一時できなくなり、表情が苦痛に歪む。
「訊くけどよ。じゃあお前は、貧困に喘いで今を生きるのだけで精一杯な、そんな奴らにもそう言うのか。なあ、そんな偉そうな、正論めいた上から目線のことを吐くのか。だから諦めろって、そう切り捨てるのか」
絞めてくる腕が震えている。
それは怒りなのか、ギリギリで力をセーブしようとしているからなのか。
仁の目は血走り、濁って見えた。
それでも春樹はその目から視線を逸らさない。
しかし声が出せずにいると――それに気づいたらしく、ほんの少し、本当に少しだけ絞める力が緩んだ。
ぁ、と試しに声を出す。
苦しくても言葉になることが可能だと分かり、改めて春樹は仁の視線を射抜いた。
「では、逆に問います」
「なに……?」
半ば無理矢理にも近い力で揺らぎなく言葉を吐き出せば、それが意外だったらしく仁の手がさらに緩む。
それをこじ開けるようにし、春樹は細く息を吐いた。
弱さなどは見せてやらない。
もう、こちらはずい分前から腹が立っているのだ。
「今、この場で、その仮定が必要ですか? 少しでもあなたはその状況に重なっていますか? 違うでしょう。あなたにはルールを守る余裕があります。今手持ちがないというだけでお金があります。払うことができます。反骨心があるのではなく面倒なだけです。今我慢すればそれで済むのに、その我慢をしようとしないだけです。いいですか、論旨を摩り替えてもらっては困ります。お金がないのだから今は我慢をして、家に戻ってから好きなケーキを買うなり何なりしてください」
「……」
「あなたのそれは、ただの屁理屈です。駄々をこねる子供のワガママです」
はっきりと、迷いなどなく、ただあるがままに事実を。
容赦なく突きつけた春樹に今度こそキレるだろうかと身構え――しかし予想外にも、仁は腕をだらりと下げた。
彼はすとんと大人しく腰を落とす。
「……分かった。今は諦める」
唐突に勢いをなくして席に戻った仁に、春樹はしばし言葉がなかった。
――まるで子供なのだ。
ブレーキが外れると手の届かないものを欲しいと駄々をこねる、小さな子供。
そしてそれを無理矢理に押さえつける圧力はあっても、きちんと叱り、導いてくれる人はいなかったのだろう。
だからこれほど大きくなっても彼のバランスはおかしなまま。
そこまで考え、春樹はぞっとした。
その子供のような執着心が、春樹自身に向かっているのだとしたら。
(冗談じゃない……)
消えない喉の圧迫感に咳き込み、溶けた氷しか残っていなかったウーロン茶の中身を飲み干す。
あまり効果があるとは言えなかったが、それでも冷たいものが喉を滑り込む感触に、ようやく生きた心地で息を吐いた。
下に視線を向ければ、こちらを見上げるセーガの瞳が何とも言いがたいほどに責めている。
無茶をしやがって、ということらしい。
「お客様……?」
ビクビクとでも表現するのがふさわしい様子でウェイトレスが声を掛けてきた。
やはり奥の席といえども目立ったらしい。当たり前だ。
舌打ちの一つでもしてやりたいほどまだ不快な気持ちが残っていたが、この店には何の罪もない。
笑顔を取り繕い、春樹は伝票を手に取った。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。会計、お願いします」
――しばらくあの店は使えないだろう。
元々外食をする方ではなかったし、使う頻度は決して高くなかった。
だが、だからいいという問題では決してない。
率先して外に出た春樹の後ろを仁がぼんやりとついてくる。
今でも背中を見せる気にはなれなかったが、今はセーガがいるのでそこは任せることにした。
未だに喉に違和感が残る。
何度かさすっていると、仁がふいに動く気配がした。
「あ」
「何ですか、まだ――わ!?」
腕を引かれ、抱き寄せられる。
反射的に何をするんだと突き飛ばしかけたが、腕に力を入れた瞬間に羽音とカァーという間の抜けた鳴き声が耳を掠め、「ひ……!?」と我ながら情けないほど引きつった声が喉を震わせた。
分かりやすいほど強張った身体を見下ろし、仁が顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
「あ……あなたのせいじゃないですかっ!」
悔しさと羞恥で声が一段と高くなる。
そもそもトラウマを植えつけた原因が何をいけしゃあしゃあと「大丈夫か」なのか。大丈夫なわけがあるか。
もう嫌だ。本当に関わり合いたくない。
心の底から改めて認識し、春樹は拳を握る。
「野田さん」
「ん?」
「いい加減はっきりしてください。何で最近になって僕の周りをうろうろするんですか。用がないのなら構わないでくださ……」
「ああ、そうか、そういや言ってないな」
あっさりと返され、口をつぐむ。
責めるような目で見据えながら相手の言葉を待っていると、彼はぶらりと足元に落ちていた小石を蹴った。
「俺は手品を学んで、それからたくさん、そうだな、泣かせた子供の数以上にたくさんの子供の笑顔を見てきたよ」
「……はあ」
「それでまあ、ちょっとしたプロスマイルっていうくらいのレベルになってから気づいたんだ」
なんだプロスマイルって。そんな怪しい単語、初めて聞いた。
「あの時のお前、心からの笑顔ってやつじゃなかったろ」
「……は、あ?」
心底間の抜けた声が出た。
それを自覚し、何となく口元を手で押さえるが――この男は何を言っているのだろうと訝しく思う気持ちは止まらない。
いくら表情の変わりやすい幼い子供といえど、トラウマになるほど怖い目に遭った直後に――しかも遭わせたその相手に心からの笑顔を向けられる方が不思議というものだ。
営業スマイルでさえ春樹自身は「何やってんだ自分」と思うほどだというのに。
「プロスマイルにまでなった俺が、お前の笑顔を見ていない、これは由々しき事態だ」
「……笑顔なら何度か叩きつけてやったじゃないですか」
「違うって、だから、心からの笑顔だって」
繰り返され、春樹は次第に顔色を悪くしていった。
――それは、つまり。
彼は春樹の笑顔を見に戻ってきたのだと、そして見るまで消えるつもりはないと、そう言いたいのだろうか。
そんな馬鹿な、と頭痛が激しくなりそうな面持ちで思考を巡らせる。
春樹は男を敵と認識してしまった。無理もない。
そして一度認識してしまえば、その警戒を解くことなど到底できそうにないし――心からの笑顔を向けるだなんてもってのほかだ。
仁が春樹に近づけば近づくほど警戒は高まるだろうし、おそらくその笑顔とやらも遠のくだろう。
だが、それを見なければ満足しないとばかりに今後も関わってくるのだとしたら。
――なんという悪循環だ!
「だから、言ったろ。お前は、俺の原点だって」
淡々と繰り返され、春樹は言葉もなく立ち尽くすしかなかった。