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倭鏡伝  作者: あずさ
14話「災厄は忘れた頃に」
138/153

3封目 眠った記憶

 城から出た春樹が次に向かったのはメモに書かれた病院だった。

 厳密に病院と言っていいのか春樹は判断に困ったが、それは妙にファンシーな外装の建物だったからだ。

 パステルカラーの明るい壁紙で、窓には花や蝶などの可愛らしい切り絵が散りばめられている。

 建物それ自体もさほど大きくない。

 まるで小さな幼稚園、もしくは女性の個人宅のようだ。ここでピアノ教室が行われていると言われても疑わない。


 そんな場所に自分が入っていいのか図りかねたが、メモに書かれているのはほぼ間違いなくここのはずだ。

 葉が間違えたとも考えにくいし彼が嘘をつく必要もない――彼なら無意味につく可能性もあるが今ばかりはそれはないと信じたい――のだ。入ってみるしかないのだろう。


 そう判断をしてから恐る恐るドアを開けると、チリンとドアに取り付けられた鈴が可愛らしい音で来訪者を告げた。

 中を見渡すがすぐそこに人の気配はなく、春樹は控えめに声を掛ける。


「失礼しまーす……」

「あ、はーい」


 奥から可愛らしいウサギを模したスリッパを履いてパタパタと出てきたのは、まだ若い女性。

 振り回せば武器になりそうなほどの長いおさげの髪に、目元はおっとりと垂れている。

 着ている服は制服なのだろうが、パッと見、ふつうのエプロンのようにも思えた。

 胸に一冊の本を大事そうに抱え、名札には「遠山とおやま文乃あやの」と書かれている。


 ともかく人がいてくれたことにホッとした。

 女性が目の前に立ったタイミングで春樹はペコリと頭を下げる。


「あの、日向春樹です。おそらく連絡が入っていると思うんですが……」

「あぁ、分かりました。はい、大丈夫ですよぉ。どうぞ、お入りくださいな」


 外見に違わずおっとりとした喋り方で、彼女は邪気のない笑顔を向けてくる。

 毒気が抜かれ、春樹は「はあ」と曖昧な返事と共に足を踏み入れた。

 用意されたスリッパに履き替え、「こちらです」という彼女の案内に大人しく従う。

 所々でふわりと鼻腔をくすぐる、上品で控えめな花のかおり。


 それにしても良かった。

 あの面倒くさがりの葉のことだから、うっかり連絡を忘れていたらどうしようと密かに心配していたのだ。


「びっくりしたんですよぉ、まさか王様直々に連絡が来るだなんて思いもしなくて」

「そうですよね。すいません、急に」

「いいええ。そもそもここ、普段からそんなに混むことはないんで問題はないですからぁ」

「そう、なんですか?」


 カラカラと笑い声を上げられ、曖昧に首を傾げる。

 混みまくりなのも確かに大変だろうが、普段から混まないというのも評判が悪いのではと少し気になる。

 それが表情に出たわけではないと思うが――文乃はヘラリと笑ってみせた。


「仕方ないですよねぇ、特殊ですもの。ここに来る人は大抵ちょっと変な人ですよ。ご本人を前に言っては悪いかもしれませんが」

「あはは……言われてみればそうですよね。秘密を知られる可能性だってあるんですし」

「そういうことです。ああでも、その辺はプロなので、余計な詮索はしないと誓いますよぉ?」

「よろしくお願いします」


 案内された個室はこじんまりとした部屋だった。

 しかしそこも可愛らしい装飾がされており、また、窓から入る日差しが暖かい。


 用意されていた椅子に腰掛けると、ぎしりとスプリングが軋んだ。

 それに気づいた文乃が「すいませんねぇ。少しだけ古い椅子なんですが、ちょっと経費が厳しくてぇ」と軽くおどけてみせる。

 何だか気の抜けた喋り方は大樹の友人を思い出させ、春樹は思わず笑ってしまった。


「さて、と。それでは早速ですが始めましょうかぁ。私は担当の遠山文乃です」


 ぐい、と胸の名札を突き出すように見せてくる。

 わざとなのだろうその紹介の仕方も決して厳かなものではなく、春樹も幾分リラックスして頭を下げた。


「担当される日向春樹です」

「あはは。ご丁寧にありがとうございます。えぇとですねぇ、それではまず、説明させていただきますねぇ」


 抱えていた本を机の上に置いた彼女は慣れた手つきでカルテのようなものをめくり始める。

 混まないとは言っていたが、だからといって決して経験が少ないわけではないらしい。


「日向さんはぁ……思い出したいことがある、と」

「はい。その、本当に記憶にあるのかも分からないんですけど……それでも大丈夫ですか?」

「なるほど。あるかないか、そこから調べたいわけですねぇ」

「そうです。それと……かなり小さかった頃の話なんで、もしかしたらすっかり忘れてるかもしれませんが……」


 恐縮したまま言うと、彼女はにこりと安心させるように笑ってみせた。


「それは大丈夫ですよぉ」

「大丈夫、ですか」

「記憶って意外と消えないんですよぉ。忘れるのと消えるのは別物ですからね」


 カルテをめくる手を止めた彼女はこちらの瞳を覗き込んでくる。

 その瞳はやはり無邪気なものだ。

 春樹の方がずっと年下なはずなのに、どこか同年代なのではと思わせるほどのあどけなさが残っている。


「忘れるっていうのは、どちらかというと記憶の奥深くに眠っているだけなんですよぉ。別の記憶に埋もれて隠れちゃってるんです。それを表に引っ張り出してくるのが私たちの仕事というわけでぇ」

「……遠山さんの“力”で、ですか」

「そうなりますねぇ。私の“力”はこの本を媒体にします。この本を媒体にして、相手の記憶、思念を探ります。いわゆる探知能力なんですが」


 サイコメトリー。

 厳密には異なるのだろうが、それに近いものを春樹は連想した。

 知識としてそのような“力”があることを知っていたし、その“力”を生業にしている人がいることも知っていたが――説明だけでは正直なところ実感は湧かない。


「ま、百聞は一見にしかず、ですよねぇ」


 事も無げに言い、文乃は目元を和ませた。

 やはりファンシーなネコの絵柄であるペンを握る。


「それで、日向さんの思い出したいことについて少しでも情報を教えてもらえますかぁ? その方が精度も上がりますし、余計なプライバシーに触れられる心配もぐっと減りますよぉ?」

「あ、はい……。男の人、なんですけど」

「ふむふむ?」


 簡単に事の顛末を話し、春樹が覚えている限りの男の特徴を話す。

 それらを丁寧にメモしていった文乃はしばらくその特徴をじっと見ていた。時折「ふーむ」「ふむふむ」などの声をブツブツ上げている。


「時期は六、七年前を特に……ですねぇ。なるほど、なるほど。ふーむ」

「……大丈夫でしょうか?」

「あ、はい。これだけ材料があれば比較的すぐ探知できると思いますよぉ」


 その言葉に春樹は驚く。

 ある程度話したとはいえ、それは決して多い材料だとは思えなかった。

 しかし探しのプロである彼女にはこれだけでも十分なのか。


「えぇと、ここからは先ほどにも触れたお話になりますが。……私は、日向さんの記憶を探ります。できる限り関係のあるもの以外は見ないようにしますが、選り分けるためにも全く見ないというのは困難です。そのことについては分かっていただけるでしょうか」


 倭鏡なのでまだしも、日本などでは確かにプライバシー保護の問題などがうるさそうだ。

 そのことを思い、春樹は苦笑を隠してうなずいた。


「そのつもりで来ました。自力では厳しそうなので、どうしてもお願いしたくて」

「分かりましたぁ。それではその旨についてのサインをお願いしますねぇ。やっぱりどうしても、色々と後で文句を言われちゃうこともあるんですよぉ」

「大変なお仕事ですね」

「自分の中を覗かれるって、やっぱり嫌な気分でしょうからねぇ……」


 文乃は困ったように笑った。慈しむように厚みのある本の表紙を撫でる。


「それでも、この“力”で救われたと言ってくれる人もいるんですよぉ。だからやっぱり、やめられませんよねぇ」



◇ ◆ ◇



 時間は少しさかのぼる。

 春樹がすごい勢いで教室を出ていったのを思い出し、蛍はどこかポカンとした面持ちで開け放たれたドアを見た。

 事情は知っているが、それにしてもなかなかの勢いだった。普段大人しい彼の姿を見慣れている自分にとっては珍しいとしか言い様がない。

 とはいえ、普段はあくまでも普段だ。ここぞという時にはてきぱきとした行動力があることを蛍もきちんと知っている。


「春樹クン、大丈夫かネー」


 ぐいと右肩に体重がかかる。

 倒れないように踏ん張りながらわずかに顔を横に向けると、ずい分近いところに隼人の顔があった。

 ぎょっとしたがすぐに気づく。肩に顎を乗せているのだ。


「……咲夜」


 低く呟き、力任せに振り落とす。

 「ノゥ!」とわざとらしい悲鳴を上げて離れた隼人だが、特に痛かったわけでもないようでヘラヘラと笑っていた。

 それはそうだろう、彼の行動のほとんどが単なるおふざけだ。


 やれやれと蛍はため息をついた。仏頂面のまま胸の前で腕を組む。


「まあ、気をつけてるなら大丈夫だろ。日向はそれほど無茶しないだろうし、男なんだし」

「そうなんだけどさ、朝もいたっていうじゃないか。本格的にストーカーじゃないのかい?」


 隼人の指摘に、蛍はわずかに眉根を寄せた。

 彼の言うことも分かる。

 世の中にはこちらの理解や常識を超える者もいるだろうし、何より相手は大人の男だ。

 いくら春樹が男といえど、相手もそうなら何のメリットにもなりはしない。むしろ体力や腕力では彼の方が劣ると言える。


「けど、少なくともあの時は襲ってきたり喧嘩を売ってきたりしそうな気配じゃなかっただろ」

「そりゃ、オレらもいたし。でも今、春樹クンは一人だろ? ま、警戒モードなら大丈夫だとは思うけどさー」


 警戒モードならおそらく大丈夫。それは二人の共通の認識だった。

 昨日はどうも実感がなかったらしくぼんやりモードで危なっかしいことこの上なかったが、春樹は何だかんだでよく考えているし慎重なタイプだ。

 ひとたびスイッチが入れば油断はしないだろうし、多少のことならきっと切り抜けることもできる。


 忙しなく行われている掃除の邪魔にならないよう教室の隅にいながら二人はぼそぼそと会話を続ける。

 当番ではないので掃除をしていないことに文句を言う者もいない。

 隼人だけなら「邪魔だから廊下に出てろよ」と冗談混じりに言う者もいたかもしれないが、腕組みをしたまま仏頂面で突っ立っている蛍も一緒にいるとなるととたんに声をかける者はいなくなった。

 隼人は「まるで番犬だね!」と嬉しそうに指摘してきたが、蛍としては嬉しくも何ともない。余計なお世話である。


「それよりお前、分かってるんだろうな」


 ため息混じりに隼人を睨みつける。

 なぜ当番でもない自分たちがこうして放課後の教室に残っているのか。


「やだな蛍クン、分かってるに決まって――あ」


 窓に身を乗り出した隼人はふいに目を細めた。

 何だ、と問うより早く彼は駆け出す。

 隼人の足は決して遅くない――むしろ速い方なので教室を出ていくのはあっという間だ。


 乱暴に頭を掻いた蛍は遅れてその後を追った。

 蛍自身も幼い頃から空手をやっているので体力や持久力にはまずまずの自信がある。

 それで彼との距離を埋めることに直接は繋がらないが、大して残りの体力を気にせずに全力で走れば比較的すぐに追いつくことができた。


「いたのか?」

「ザッツライト、ビンゴもビンゴのどんぴしゃり」


 相変わらずふざけたことを言いながらも動きは速い。

 玄関に向かうと靴を履き替え、すぐに校門へと二人は続いた。


「――から、――だよ!」

「――って」

「――、――だろ!」

「けど――」

「――!」


 下校中の生徒たちの話し声からは一際浮いた声が聞こえる。

 声変わりもまだであろうよく通る高めの声と、ボソボソとした低い、男の声。


 蛍と隼人は顔を見合わせてうなずいた。

 隼人の言う「どんぴしゃり」はまさしくその通りで――言い争っているのは、大樹と昨日の男だった。

 それが分かる距離まで走り、手前で蛍は止まる――が、なぜか隼人は止まらない。


「やあ、大樹クン! グッドアフタヌーン!」

「どあああ!?」


 体当たりかと問いただしたくなるほどの勢いで隼人は大樹に突っ込み、大樹はローラースケートを履いていたせいで踏ん張ることもできず勢いよくその場から離れていった。どかんと鈍い音がする。

 見れば、隼人が両手で壁に手を当てている。激突するのを避けたのだろう。

 そしてその壁と隼人の間に見事大樹が挟まっていた。

 彼は鞄を背負っていたのでそれほど痛くはなかっただろうが、それにしても驚いたに違いない。


「な、なん、隼人ぉ!? 危ねーだろー!?」

「HAHAHA! ついうっかり」

「うっかり、じゃねー!」

「ソーリー、悪気はなかったんだ」

「だからって……」

「あるのは茶目っ気だけさ」

「むぅ、それなら……………………ぅえ!? わざとじゃねぇのそれ!?」

「Oh! まさか大樹クンが気づくなんて!?」

「バカにしてんのかてめぇーっ!」


 ……。

 ……あれ。何しに来たんだっけ。


 緊張感のないやり取りに蛍は居心地の悪さを感じずにはいられない。

 別に緊張感が欲しいわけではないが、今、この場でその流れには違和感しか感じない。

 ともかく男の方を見ると、昨日と同じ格好で彼はそこに立っていた。

 見ていることに気づいたのだろう、男がこちらに顔を向ける。


「……ん? 昨日もいた二人じゃないか」

「あ、蛍!」


 大樹は今になって蛍に気づいたらしい。

 存在感が薄いのだろうかと疑問に思いそうになるが、おそらく隼人が邪魔で見えなかっただけだろう。そう思いたい。


 それにしても呑気なものだと、蛍は深々とため息をついた。

 ぼうっと突っ立っている男の存在がますます頭を痛くする。


「……っとにお前らは……なんていうか、見事にもう……」

「な、何だよ?」

「オレも蛍クンに賛成だね! 君たち兄弟は危なっかしくてしょうがないよ!」

「何だよそれーっ」


 大樹は不満たっぷりに喚くが、蛍と隼人の気持ちは変わらない。

 春樹に「心配だから可能なら大樹と帰ってくれ」と頼まれたが、まさかこうも見事に事が起きているとは。


「……日向弟。何か騒いでたろ、どうした?」

「え、あ、あぁ……だってこのおじさんがさぁ!」


 気を取り直したらしい大樹が壁と隼人の間から出てくる。

 隼人も長く悪ふざけをしているつもりはないらしくすぐにその場をどいた。


「なんか話しかけてきて、しかも春兄のことすっげー聞いてきてしつこくってさぁ!」

「なんだ、つれないな。朝はあんなに喜んでくれてたのに」

「春兄がおじさんとはあんま話すなって言ってたし、おじさん、春兄に悪いことしたんだろ? だったら教えるわけねーじゃん!」

「だから言ったろ、謝りたいって。お前は俺に謝罪するチャンスすら与えちゃくれないのか?」

「だからって何で家に入れなきゃいけないんだよっ」


 不信感を露わに大樹は思い切り顔をしかめる。

 その話を聞きながら蛍はじっと男を睨んだ。

 しかしその眼からは何を考えているのか何も読み取れない。


(狙いは日向一人、か?)


 どうしてそこまで固執するのだろうか。やはり二人は出会ったことがあるのか。

 そう考えるのが自然な気がするが、そもそもこの男の存在が不自然すぎて蛍にはよく分からない。


「へー。オレ、大樹クンを見直したよ。うっかりすっかり家に入れちゃうんじゃないかって心配してたんだよね」

「はあ? 春兄が嫌がってんのに?」

「オウ……ブラコンパワーをみくびっていたよ」


 笑いながら隼人が前に出、蛍と並ぶ。

 さりげなく大樹をかばう位置に立ったことに男は気づいたらしい。

 何も考えていないようなのっぺりした態度のくせにいちいち目ざといな、と蛍は舌を打ちたくなった。

 そんなこちらの不機嫌さを知ってか知らずか。

 無精ひげを何度か撫でながらこちらを見下ろし、男は今合点がいった、というように目を丸くしてみせる。


「いやいや、ああ、そうか。若いな、お前ら」

「……何?」

「だってそうだろ。自分たちだけで解決しようとするなんて、なぁ」

「ヘイ! ヘイ、ヘイ、ストップ、オジサン。子供だと思ってバカにしてるのかい?」


 さすがの隼人の口調にも剣呑さが混じる。

 だが男は気にしていないようだった。

 相変わらず何を考えているのか分からない表情で、手首を捻ったかと思うとどこからともなく一本のボールペンを出現させる。

 同じような仕草でそのボールペンはどこかへ消えた。


 ――何がしたいのか全く分からない。

 もしかすると物を出したり隠したりするのが癖になっているのかもしれない。


「別に馬鹿にしたつもりはないさ。ただ、事実を言っただけだ。そしてそれは、俺にとってはありがたい」


 淡々と続けられ、蛍は動かないまま押し黙る。

 教師を呼ぶなり通報するなりされれば困るのはこの男だ。

 そしてそれをせずに立ち向かってきた蛍たちを見て、彼は「若い」と評した。

 ――言われてみれば、彼の言う通り別の大人を呼んだ方がスムーズなのだ。

 もしここに春樹がいれば、もしかするとその方法を取っていたかもしれないと蛍はひっそり思う。

 彼はあまり争いを好まないし、自分たちが子供であることをよく分かっている。そういう意味では自分たちより冷静で大人びているのだろう。


 ただ。

 ――それでも。


「オジサン、確かにオレたちはオジサンよりピチピチさ。だから友達が狙われてるかもしれないなら、やっぱり自分たちも何かしたいわけ。Ok? アンダースタン?」


 本場の発音もできるだろうに、分かりやすくするためか、わざとらしいほどカタコトの英語を男に向ける隼人。

 蛍もその言葉にうなずいた。


 ――そうだ。

 大人を呼ぶということに考えが及ばなかった、そういう面も確かにあるが……それより何より、自分たちが何かしてやりたい。

 その思いで今、蛍と隼人はこの場に立っている。


「友達?」


 男はことさら不思議そうに目を丸くした。

 それはまるで未知の言葉を聞いたかのような反応で、後ろにいた大樹が「何だよ!?」と声を荒げる。

 今にも飛び掛っていきそうな彼を手で制し、蛍はいっそう睨みをきかせた。


「……何か、文句があるのか?」

「ああ、いや、そうわけじゃ。だけどお前ら、あいつが泣けないこと、知らなかったんだろ?」


 昨日の反応を見て言っているのだろう、男はどこか腑に落ちない表情をしている。

 それに反応したのは隼人だった。

 博愛主義を名乗る彼にしては珍しく敵意をはっきりと示し、苛立たしげに数度足を踏み鳴らす。


「何でも話さなきゃ友達じゃないって? 誰が決めたんだい、そんなの?」

「それに……言う機会がなかったから言わなかっただけで、隠してたわけじゃないだろ。聞いたらあっさり教えてくれたし」


 そもそも何でも話していたらそれはそれでキリがないと蛍は思う。

 第一友達の条件だなんてごまんとあるだろう。いや、そもそも「条件」そのものがあってないようなものなのかもしれない。


「……そういうもんか」

「何だい、オジサン。オレらと春樹クンが友達だと不満だってのかい?」

「いや、そうは言ってない。……というか、何だ、いちいち突っかかってくるなお前」


 今さらなことを男は不可思議な面持ちで言う。

 当たり前だろ、と蛍は思ったがあえて言葉にしなかった。

 隼人もまた反応する価値もないと思ったかのか、今度は口を引き結び男の言葉を黙殺する。


「ああ、そうだ、もう一つ訊いていいか?」

「……何だ?」

「その泣けないことについて、お前ら、どう思う?」


 男の言い回しやテンポはどこかイライラさせられる。

 しかしその質問は予想外で、蛍と隼人は思わずそのイライラも忘れて顔を見合わせた。


「……それは、日向についてってことか?」

「いや、それでもいいし、全体的にでもいいんだが」

「って言われてもね。オレは特にどうとも。春樹クンが困ってるならともかく、あまり気にしてないようだったし?」


 肩をすくめ、隼人は何でもないことのように言う。

 蛍もそれにうなずいた。気持ちはほとんど同じだ。

 確かに周りの「当たり前」からはズレているのかもしれないが、それは自分たちにとって些細なことだ。

 だからどうだ、とも思わない。

 大げさな言い方をすれば、それもまた個性のようなものなのかもしれないとさえ思う。


「……ふぅん」

「何だよ、さっきから! 春兄が泣けないからってバカにすんだったら容赦しねーぞっ! 別に悪いことじゃねーじゃん! もしダメだってゆーなら、えぇっと……オレが春兄の分まで泣いてやるし!」

「……日向弟、それはあまり解決になってないと思うが」

「うえっ」

「……まあ、お前ららしいけど」

「え? それ褒めてんの? ちげーの?」


 苦笑した自分に、大樹が本気で悩んだ表情になる。

 それがまたおかしく、そんな場合ではないというのに笑いを誘う。


 しかしその笑いに男は乗ってこなかった。

 ぼんやりとした、何かを考えるような、もしくは何も考えていないような――曖昧な表情のまま唐突に身を翻す。

 突然の動きに蛍と隼人もとっさに身構えた。

 だが、男はこちらの警戒など気にした素振りもなくゆったりと離れていく。


「……おい?」

「まあ、そうか、うん、とりあえずお前らに用はないし帰るわ」

「Oh,用なし扱いとは失礼なオジサンだね」

「なんだ、構ってほしいのか」

「……いや」


 蛍の短い否定に、男は小さく肩を揺らす。

 それきり、男はその場から姿を消した。

 隼人が「とっちめないのかい」とでも言いたげに視線を向けてくるが、蛍はただ首を振る。

 そこまでする気にはなれなかった。また来るかもしれないという懸念はあるが、今は追い払えただけでも良い方だろう。

 とっちめると言っても具体的にどうすればいいのか蛍には分からないし、この場には大樹もいる。


「……帰るか」


 大樹の方を振り向き言えば、隼人と同じく男に威嚇しかけていた大樹はしばしポカンとし、


「あ、おう」


 どこか間の抜けた返事と共に笑顔になった。

 鳴いたカラスが笑ったとはまさに彼のためにあるような表現だなと思い――カラス嫌いの友人を思い出し、蛍は誰にも分からない程度に口の端を上げた。



◇ ◆ ◇



 引き出された記憶を見ても、文乃は何ら顔色を変えなかった。

 それはやはりプロとしての仕事だからなのかもしれない。

 しかし、こちらを見る瞳には幾分の気遣わしさが込められている。


「……今の記憶でおそらく間違いないでしょう。日向さん、どうですかぁ?」

「……」

「日向さん? もう、本から手を離しても大丈夫ですよぉ?」

「え? あ……はい。すいません」


 ぼんやりしていた春樹は慌てて手を引っこ抜くようにして自分の膝元へ置く。

 だが何を言っていいか分からなかった。

 脳内では引き出された記憶がぐるぐると繰り返し繰り返し流れてくる。

 おそらく止めようと思えば止めることができるのに、なぜか壊れたおもちゃのようにその映像を回し続けてしまう。


「人はですねぇ、思い出したくないから忘れるということもあるんですよ。私たちの仕事でも、そういうものを引き出してしまうケースは多々ありますしねぇ。その場合、きちんとアフターケアも行っていますし、場合によっては再び記憶を沈めることも可能になります。まぁ……それはあまり推奨できないんですけどねぇ……。あぁ、それに私たちのような小さなところでは難しい場合、きちんと専門の方に引き継いでのアフターケアもありますので……もしもご要望があれば、そちらにも話は通しますよぉ?」


 手続きの一環らしく、文乃は穏やかに、そして窺うように説明を続けていく。

 だがそれらの説明は素通りし、春樹の頭に何も残らなかった。

 ただ――記憶が、映像が、回る。巡る。

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