プロローグ ごめんなさい
――しまった。
真っ暗に閉ざされた闇の中、幼いながらその異様な空気は「危険」だと肌で分かった。
胸の奥がざわりざわりと騒ぎ立てる。
――「いい子にしてないと、こわぁい狼が食べにきちゃうのよ」。
母親の言葉が頭の中をぐるぐると回って止まらない。
自分は悪い子だったのだろうか。だから目の前に狼が現れたのだろうか。
――目の前にいるはずの男は、狼なのだろうか。
「もう、おうちには帰れないよ」
暗闇の先から突然声が聞こえ、少年は座り込んだまま体を固く強張らせた。
必死に体を縮めてみるがそこから自分の姿が消えるはずもなく、ただ床の冷たい感触だけがいやに脳に響いてくる。
ぼうっと小さな明かりが灯った。
それは少年が顔ごと上げて見なければならないほどの高さで、ただ不気味に時折揺らめく。
「もう、帰れない」
強く繰り返されればそれは本当のことな気がして、それは絶望にも近い衝撃であった。
その絶望への拒絶反応なのだろうか、それともただの恐怖に対するものなのか――体が自分の意思とは関係なく小刻みに震え始める。
その震えを抑えようときつく腕を自分の体に回した。無駄な抵抗だと分かっていても。
心臓の鼓動が痛い。胸のざわめきが落ち着かない。
――どうしよう。どうしよう?
「……まだ泣かないのか。強いな、お前は」
小さな炎の奥で再び、声。
「強い」というのは一見褒め言葉のようだが、その口調には苛立ちや不満がありありと表れている。
それは叱られている時の感覚に近く、少年はビクリと肩を跳ね上げた。
「あ、の」
空気を震わせることすら許されることなのか分からなかったが、それでも少年は必死に、ぎこちなく口を開く。
このまま黙っていればますます男の苛立ちが強まりそうだと分かっていたので。
「ごめ、な……さい」
声が震えて上手く話すこともままならない。
もう心臓の音は相手に聞こえてもおかしくないほどに激しくなっている。
その少年の懺悔を、男は心底不思議そうに聞いていた。
「別に謝る必要はないだろ? お前は悪いことなんか何もしてない」
「で、も」
「大丈夫大丈夫、お前は悪くない。あぁ、知らない人についてっちゃ駄目ってお母さんに言われてたか? まあでも、やっぱりお前は悪くないよ。お前は自主的についてきたわけじゃない。無理矢理連れてこられたんだ。子供のお前が大人の俺に敵うはずないだろ、だからやっぱりお前は悪くない」
物騒なことをどこか朗らかに言った相手は、一息ついて首を傾げたようだった。
何となく炎の揺らめきでそう思う。
「なあ。お前、怖くないの? 泣かないの?」
男の口調はしっかりしているはずなのに奇妙に無邪気で不気味さを増す。
会話にならないことを理解しつつ、少年は窺うように炎に目をこらし――
「……ごめん、なさい」
震える声で再び繰り返した。