4封目 女心はすばしっこく
気持ち良いほどの晴天の中、大樹は校門の前で見覚えのある背中に狙いを定めた。
数メートル手前で軽く助走をつけ、――そしてダイブ。
「ユキちゃんおはよーっ」
がばあっと飛びつくと、雪斗から「ぐえっ」と奇妙な声が漏れた。
彼はぐるりと顔だけを向ける。
その笑みがいつもより引きつって見えるのは気のせいだろうか。
「ダイちゃん……盛大なあいさつ、どうもありがと~……。でも、すぐに飛びつくクセはやめた方がいいと思うよー?」
「ユキちゃんこそ、こーゆうときはもっとしゃがめよな」
背伸びした状態じゃないと足が着かない状況が、正直少しムカツク。
何を食べたらこんな身長になるのだろう。
「そんなこと僕に言われても~。……ってゆーかそ、そろそろ息苦しい~」
「あ、ゴメン」
背を反らしながら言われ、大樹はあっさり手を放した。
別にこの行動に意味はないのだ。
長々とやっていてもどうしようもない。
雪斗がホッと一息ついたのを境に、二人は並んで校舎へ入った。
靴箱から上靴を取り出した大樹は、ふとあることを思い出す。
「なあ、ユキちゃん。椿のことなんだけどさ」
「委員長がどうかしたの?」
「どうってわけじゃねーけど……あいつの母親っていないよな?」
「そうだねー。確か死んじゃったって聞いたけどー?」
「だよなあ」
やっぱり自分の記憶は正しかったのだ。
証言者が春樹なだけに自信が揺らいでいたのだが、雪斗まで言うのだから間違いないだろう。
「何でそんなこと訊くのー?」
「大したことじゃないんだけどさ、昨日春兄が……」
言いかけ、大樹はハタとして言葉を止めた。
本当に椿がやって来る。噂をすれば何とやら、だ。
しかし彼女は、こちらに気づく素振りを全くといっていいほど見せなかった。
どこか思い詰めた様子で上靴を履き、さっさと教室へ向かってしまう。
「委員長、おはよ~」
「! あ……おはよ」
過敏に驚く椿に、大樹は雪斗と顔を見合わせる。
いつもの彼女らしくない。
(今日の委員長、何か変だね?)
(だな。昨日はあんなに元気だったのに)
(女心は複雑なんだろうね~)
(……オンナゴコロ?)
(ダイちゃん……今から勉強しておかないと、後で苦労するよ~)
ぼそぼそと会話していると、椿が「じゃ、教室でね」と背を向けた。
その背に慌てる。
まだ言わなければいけないことがあるのに。
「あ、おい椿!」
「……何?」
「おまえ、昨日の夜公園にいた?」
振り返った彼女が微かに目を瞠る。
そのまま彼女は、しばらくこちらを見ているだけだった。
むしろ睨むに近い。
そんな彼女が声を絞り出したのは、ちょうど大樹が沈黙に耐え切れなくなったときであった。
「…………どうして?」
「どうしてって」
「……いなかった」
「え?」
「いなかったって言ったの。私に公園に行く理由なんてないじゃん。誰かと間違えてるんでしょ、きっと」
そう言って彼女は踵を返した。
足早に教室へ向かってしまう。
取り残された身としてはボーゼンとするしかない。
「……あれぇ? んじゃやっぱ春兄が見たのは違う奴か?」
「ってダイちゃん。あれはどう見ても嘘でしょー」
「え。だって本人が違うって言ってるんだぞ?」
「……ダイちゃん……」
彼は同情するような目でこちらを見てきた。
そんな彼にムッとする。
そういう目や態度はあまり好きではない。――というより、何か苦手なのだ。
「なんだよっ?」
「あのね~……ダイちゃんはもう少し人を疑うってことを知った方がいいと思うよ? 素直なのはイイコトだけど、そんなんじゃ誘拐でも何でも簡単にされちゃいそうだし~」
「はあ? 何でオレがユーカイされるんだよ?」
意味がわからずに首を傾げると、「だからぁ」と間の伸びた声が返ってきた。
「じゃあ訊くけどー、もし知らないおじさんが『飴あげるからついておいで』って言ってきたら、ダイちゃんどうする?」
「オレ?」
尋ねられ、大樹はその状況を考えてみた。
どうでもいいが「知らないおじさん」限定なのだろうか。
「……ついていって、飴もらって、お礼言って、逃げる?」
「……ごめんダイちゃん。僕、どう反応すればいいのかわかんないや~」
あははー、と彼の声が白々しく響く。
何だよそれ、と問い詰めようとしたところで予鈴が鳴った。
二人は思い出したように教室へ急ぐ。
その際に、雪斗がのほほん、と呟いた。
「とりあえずー、そーゆうときは最初の三つを飛ばして、真っ先に逃げようね?」
◇ ◆ ◇
(多分、葉兄は何かを“視た”んだ)
日も暮れてしまった頃、春樹は一人で公園にいた。
軽くこぐたびにキィ……とブランコのきしんだ音がする。
(でも――何を?)
うすぼやけた外灯を睨むようにしながら、そのことばかりが春樹の頭を占めていた。
葉の言葉がただの冗談や意味の成さないものならこうまでいかない。
春樹には、彼が何らかの理由があって言ったのだと小さな確信を持てたのだ。
その原因は葉の“力”のせいである。
倭鏡の人々は元々、何かしら不思議な力が与えられていた。
その力の種類は人それぞれであるが、もちろん自分たちも例外ではない。
ちなみに春樹は「セーガ」と呼ばれる犬に似た生き物を召喚出来るのだが……。
そんな葉の力は――予知。
これは珍しい種類であるし、様々な制限も多く、また、コントロールも難しいと聞いている。
視たくないものが勝手に視えてしまうこともしばしばあるようだ。
葉自身からそういった話を聞いたことはないが、少し厄介な力らしい。
「視たなら視たで、もったいぶらないで全部教えてくれればいいのに」
言葉にするとますます空しくなり、春樹はため息と共に肩を落とした。
ため息をつくと幸せが逃げるとよく言うが、最近はそれを少し訂正したい。
春樹に言わせてもらえば、幸せじゃないからこそため息をついてしまうのだ。
――まあ、その「自分は幸せではない」という思い込みが幸せを逃がしているという意味合いの言葉なのだろうが。
段々思考がズレていった春樹は、ガサリという音に顔を上げた。
「あ……」
公園に入ってきた一人の少女が、春樹を見て驚いたように口元を覆った。
しかし、それもすぐに嬉しそうな笑みに変わる。
「こんばんは。また会いましたね」
そう言って荷物を下ろす少女を見て、春樹はブランコから腰を上げた。
少女に微笑み返す。
「こんばんは。佐倉椿ちゃん……だよね?」
「え?」
少女の手が止まった。
驚いたようにこちらを振り返る。
目はわずかに見開いたまま。
「どうして私の名前……? 私、まだ教えてませんよね?」
「……僕は日向春樹。大樹の一つ上の兄なんだ」
「あいつの……!?」
信じられない様子で少女――椿が呟いた。
それから彼女は、ハッとしたように顔をしかめる。
「だからあいつ、あんなこと……!」
訊いてきたんだ、というのは言葉にならなかった。
彼女はどこか悔しそうに口をきつく結んでいる。
そんな彼女に、春樹は小さく呼びかけた。
「……あのね、椿ちゃん。今日は聞きたいことがあって来たんだ」
「え……? 聞きたいこと、ですか?」
「大したことじゃないんだけど……」
そこで一度言葉を切る春樹に、椿が戸惑ったような視線を送ってきた。
「失礼なことかもしれないけど」と前置きした春樹は、彼女の様子を窺いつつ口を開く。
「椿ちゃんのお母さんのことで、ちょっと」
「ママの……こと?」
「昨日、僕に言ったよね? 『ママが心配してるから』って」
彼女の瞳がはっきりと揺れた。
その動揺を押し隠そうというのか、ただ黙ってうつむいてしまう。
「でも、そのことを話したら大樹が言い出したんだ」
「…………」
「椿ちゃんのお母さんは何年か前に事故で亡……」
「――すみませんっ!!」
こちらの言葉を遮り、椿が勢い良く荷物を手に取った。
その、半ば悲鳴に近い叫びに驚いた春樹に見向きもせず、彼女はダッと公園を走り抜けていく。
その後ろ姿を見て、とっさに追おうとした春樹に後悔の気持ちが込み上げてきた。
(やっぱり、もっと考えて言うべきだった!)
しかし、そんなことを思っても今更でしかない。
追うべきか、しばらく放っておいてあげるべきか。
しかしそうやって迷っている間にも彼女の姿は見えなくなってしまった。
どうすればいいかわからない春樹に葉の言葉が追い討ちをかける。
『早くしないと、もしかしたら大変なことになるかもしれないぜ?』
「……くそ……っ」
彼にしては珍しい悪態をつき、――春樹は自分の家へと走り出した。