5封目 告白
一日が長い。
三谷悠人は聞き飽きた学校のチャイムに息をついた。
長く感じる原因はわかりきっている。
教え子の朝霧砂季だ。
(あいつが無断欠席するなんて)
何かあったのだろうか。いや、何かあったのだろう。
彼女は決して「優等生」という柄ではないが、それでも今まで無断で休んだことなどなかった。
それは部活においても同様だったのだが、最近はそれが崩れてきている。
かといって、単に彼女が不真面目になったのだとは考えにくかった。
砂季はそんな子でない。
悠人は胸を張って言える。
――言いたい。
ただ。
(……避けられている)
それは確かに思えた。
部活を無断で休んでいるのもそのためだ。
昨日は出会ったとたんに逃げられたし、今日は学校まで休んでいる。
昼休みに携帯電話へかけてみたが電源を切られていた。
一応メールも送ってみたが返信は来ていない。
一体何があったというのか。なぜ急にこうなったのか。
悠人はため息をついた。
わからないものはわからない。
今日は部活も休みだから、少し早めに帰ってしまおうか。
今日は急ぐ仕事もない。
「先生、さよなら!」
「ああ、さようなら」
数人の女生徒が楽しげに話しながら帰っていく。
その後ろ姿を砂季に重ね、悠人は苦笑した。
彼女には振り回されてばかりだ。
だが、早く元に戻ってほしいと思う。
彼女のああいう姿を、悠人はしばらく見ていない。
見たい。いつものように「元気だな」と苦笑させてほしい。
「三谷先生」
ふいに事務の方から声がかかり、悠人は足を止めた。
事務の女性は首を傾げるようにして顔を覗かせる。
「ちょうど良かった、お呼びしようと思っていたんです」
「私を?」
「はい。二人の少年が三谷先生にお会いしたいと」
「……少年?」
「ええ。小学生と中学生だと思います。職員玄関の方で待っていますので」
心当たりはなかった。
しかし、それを目の前の女性に言ったところでどうにもならない。
悠人は短く礼を言って玄関へ向かう。
「――あ」
着いたとたん、弾けるように顔を上げたのは見覚えのある少年。
昨日、車の前に飛び出さないよう悠人が助けた子であった。
砂季の飼っている犬を連れていたこともあって強く印象に残っている。
その彼が笑顔で手を振ってくるものだから、悠人も反射的に手を軽く上げていた。
しかし振るには中途半端で、行き場のなくなった手で頭を掻く。
隣に立つ少年は彼の頭を小突き、こちらに向かって頭を下げた。
礼儀正しい仕草だ。
少しホッとし、悠人は彼らへ歩み寄る。
「こんにちは。三谷悠人先生ですか?」
礼儀正しそうな子が微笑みながら尋ねた。
いかにも真面目そうだ。
そしてフルネームで呼ばれたからには人間違いではないらしい。
「ああ、その通りだよ。君たちは?」
「僕は日向春樹です。こっちは弟の大樹」
「砂季姉の従弟だぜ!」
「砂、……朝霧の?」
その名に心臓が跳ねた。
とっさに平静を取り繕おうとしたが上手くいった自信はない。
声は裏返っていなかっただろうか。
「僕らは砂季さんに頼まれて来ました。砂季さんは、三谷先生に会いたいと思っています。会って話すために待っています。……一緒に、そこまで来てもらえませんか?」
春樹と名乗った少年の表情は真剣だ。
悠人の肩にも自然と力が入る。
彼らを疑う気にはなれなかった。
もう一人の少年――大樹が砂季と一緒にいるのを昨日見たし、何より彼らが嘘をつく必要性は見出せない。
それより彼女と会えることの方が重要だ。
一体何があったのか。大丈夫なのか。
聞きたいことがたくさんある。
「……わかった」
うなずくと、二人の少年は嬉しそうに笑い合った。
◇ ◆ ◇
悠人が連れてこられたのは、学校から少し歩いた小さな山であった。
大したものは特にないが、何年か、もしくは何十年前には人が住んでいた頃もあったのだろう。
使われなくなった古い建物がほんの少し残っている。
そして夏休みになると、それらを使って肝試しを行う生徒たちが後を絶たないのだ。
その中でも大きな建物の前で春樹、大樹が止まった。
大きいといっても二階建て程度だが、家でなく倉庫なので、中は他より広く感じる。
促されるままに足を踏み入れると、奥に砂季の姿が見えた。
相変わらず二匹の犬を側に置き、無造作に置かれた箱に腰かけている。
窓が小さいここは日が入りにくいようで薄暗い。
そのせいか彼女の姿は遠く、そして頼りなく感じられた。
普段はあんなにも明るく元気な子だというのに。
「……受け止めるべきだと思います」
ポツリと春樹が呟いたので、悠人は驚いて振り返った。
彼は他に表情を見つけられず途方に暮れたかのように、緩く曖昧に笑う。
「あなたがどんな結論を出したとしても、僕らに口を出すことは出来ません。ただ……受け止めるべきだと、僕は思います。それが、どんな形でも」
「春樹、くん?」
「男だろ? どんと行ってこい!」
「うわっ」
横から大樹が悠人の背中をバシリと叩いた。
春樹は慌ててやめさせ、頭を下げてくる。
だが悠人は笑っておいた。
心臓は驚くほど飛び出そうになったが、いい景気づけにはなったかもしれない。
この騒ぎで砂季もこちらの存在に気づいたらしい。
ぼんやりとクリの頭を撫でていた彼女は顔をこちらへ向けた。
「先生」
「……砂季」
彼女が呼んだのだから当たり前とはいえ、昨日のように自分を避ける様子はない。
そのことに少なからずホッとした。
悠人はゆっくりと彼女の元へ歩み寄る。
クリ、そしてマロンが尻尾をパタパタと振ってこちらを見上げてきた。
何度か散歩を手伝ったことがあるので懐いてくれたのだ。
その愛らしい様子にますます緊張が緩んでくる。
「砂季。どうしたんだ? 心配したぞ」
声をかけ、隣へ座っていいか尋ねる。
彼女はうなずき、小さく「ごめんなさい」と呟いた。
それだけで何かがスルスルと解けていくのを悠人は感じた。
本当はすごく心配したし、だからこそ、こうやって姿を見せたときに叱ろうとも思っていた。
叱るだろう、と思っていた。
しかし――とにかく無事で良かった。
とはいえ、そのまま「はいそうですね」と流せるものでもない。
悠人は少々わざとらしく眉を寄せてみせた。
「電話も繋がらないし、本当に心配したんだ」
「……あたし、家出してて。親から電話が来るのも嫌だから電源ごと切っちゃってたの」
「家出?」
目を丸くする。
そこまでしていたとは。やはり何かあったのだろうか。
しかし、何があったというのか。
「先生のことも避けてごめんなさい」
「いや……」
曖昧に言葉を濁すと、彼女はパッと顔を上げた。
「ねえ、先生。覚えてる?」
「うん?」
「一年のとき、ここで肝試ししたでしょ」
「ああ……」
覚えている。
生徒たちは未成年だからと、保護者代わりに引っ張り出されたのだ。
特にバスケ部のメンバーで集まっていたこともあり、悠人はむしろ自らその役を買って出た面もある。
暇じゃないんだぞと軽く文句も言ってみせたが、それより心配する気持ちの方が大きかったのだ。
砂季はクスクスと笑った。
懐かしむように宙を仰ぐ。
「みんなが順番に出て行って、あたしが最後でさ。見送っていた先生を押し倒したんだよね」
「――そうだったな」
彼女にいつも通りの調子が戻ってきたのは嬉しいが、内容が内容なので顔が引きつる。
あの兄弟に聞かれやしないかと焦った。
慌てて周りを見やると、彼らは入口で待っているようだった。
響くので声は届いているのかもしれないが、一応こちらを見ていない。
気を遣ってくれているのかもしれなかった。
「告白したら、先生、困ってたよね」
「……そもそもモテないんだ、告白なんて慣れてなかったんだよ」
しかも急に押し倒されたのだ。困惑しない方がおかしい。
そう告げると砂季は笑った。
「そのまま押し切っちゃえば良かった?」などと物騒なことを言ってのける。
彼女が言うと冗談に聞こえないから恐ろしい。
それと同時に予感がよぎった。
ここは彼女が初めて告白をした場所。
わざわざここで話すということは、きっと何か。
何か言わなければいけないことがあるのだ、彼女の中に。
「そのときは結局逃げられてさ。砂季ちゃん、ガッカリしたなぁ」
「その割には全く諦めてなかったじゃないか」
「だって先生、優しすぎるから」
呟く砂季は相変わらず笑っているが、その表情はどこか歪みそうに見えた。
クリを撫でていた手を止め、彼女はうつむく。
「突き放さなかった。一生懸命考えてくれた。だからあたしも諦めなかった。……諦められなかった」
「……そんなおまえだったから、俺も気持ちに応えようと思ったんだ」
一途で、一生懸命なその想いに。その想いを必死に伝えようとする彼女に。
悠人は惹かれてしまったのだ。
葛藤もあった。
だが、それでも惹かれてしまえば止まらなかった。
そして最近、悠人は思っていた以上に砂季を必要としていたのだと痛感した。
彼女に避けられ、その間どれだけ不安に思っただろう。
どれだけ得体の知れない焦燥に苛まされただろう。
「やっぱ優しすぎるね。そんなんじゃ詐欺とかぼったくりに簡単に遭っちゃうよ?」
砂季の声は笑っていた。
しかし顔を上げない。
膝の上に乗せられた手はぎゅっと握り締められている。白くなるほど強く。
「……あたし、先生にいっぱい優しくしてもらった。たくさんの優しさをもらった」
ポツリと落とされた響きは震えていて、泣いているのかと思った。
しかし涙は見えない。
「でも、あたしは欲張りなの。悪い子なの。だから……ごめんなさい」
「砂季……?」
「お願いだからもう少しだけ、あたしにその優しさをください。その優しさに甘えさせてください……」
彼女らしくない。
なぜか不安が込み上げ、悠人は彼女の両肩をつかんだ。
細い肩。弱い、頼りない身体。
彼女は顔を上げる。
表情は今にも崩れそうなのに瞳は揺るがない。
真っ直ぐに悠人の瞳を貫いた。
「――赤ちゃんが、出来ました」
「え……?」
「妊娠したんです。……いるんです、先生の子が。あたしの中に」
――とっさに理解は出来なかった。
彼女の声は耳に入ってくるのに、言葉として認識出来ない。
わからない。
(違う)
理解したくないだけなのだ。
どこか凍った時の中で、悠人はうっすらそう思い直した。
冷静な自分と混乱している自分がいる。
二人の自分がせめぎ合っていて苦しくなる。
気持ち悪い。
「……嘘だろう?」
出た声は情けないほど震えていた。
砂季の様子は変わらない。じっと見ている。見続けている。
「妊娠、って、だって」
「先生。避妊は百パーセントじゃないよ」
「……どうするつもりなんだ」
「あたし、産みたい」
彼女の声は強く、だからこそ衝撃が強かった。
まるで殴られたようで目眩がする。
それと同時に、一瞬でも本当に自分の子なのかと疑いそうになった自分を呪った。最低だ。
ばうっ!!
「!?」
落ち込みそうになったそのとき、マロンが鋭く吠え立てた。
クリも低く唸り出す。
それは警戒。警告。
ザワリと空気が揺れた気がした。
「何だ……?」
「先生、前っ!」
走ってくる黒い塊。マロンほどの大きさがあるソレ。
ソレは速くどんどんこちらとの距離を詰めてくる。
(ねずみ?)
まさか。
鼠がこんなに大きいはずが――。
「っ、危ない!」
「きゃあ!?」
鼠が砂季へ飛びかかるのを見、考えるより先に彼女を引き寄せていた。
目標を失った鼠は箱の山へダイブ。
しかし傷ついたのは鼠でなく箱だ。歯にやられたのだろう、ボロボロになっている。
もし、あれが箱でなく砂季だったなら。
――恐ろしい。
考えたくもない!
「大丈夫ですか!?」
春樹たちが慌てて駆け寄ってきた。
薄暗いのでよくわからないが、春樹の表情は青ざめて見えた。
ただ、悠人自身はもっと血の気が失せてしまっているのだろう。見なくてもわかる。
「これは一体……」
「すいません、僕らのせいです。まさかこんなところで……」
呟いた春樹がとっさに何か――長い棒のようだ――で起きてきた鼠を振り払った。
飛ばされた鼠は数度痙攣してみせる。倒したのか。
カチリ、と。
どこかで軽い音がした。
次の瞬間、鼠は二匹となってその姿を現す。現した。
「増えた!?」
「そんな……!」
「どうなってんだよ春兄!」
「わからないよ!」
答えた春樹の声にも焦りが見える。
彼はじっと目を凝らしていた。
危険なのだと、悠人にも改めて実感させる。
ゾクリと背筋が寒くなった。
鼠が同時に来る!
「大樹! 砂季姉と三谷さんを連れて逃げろっ!」
「は!? 春兄はどうすんだよ!」
「ここで食い止める!」
「でもっ」
「山を抜けちゃえば大丈夫なはずだからっ、早く!」
「だって……春兄一人じゃ」
大樹が戸惑ったように春樹を見やった。その瞳は心配に満ちている。
鼠の攻撃を棒でさばいた春樹は、そんな彼の背を強く叩いた。
「早く。砂季姉と、三谷さんと、マロンとクリと。……それから赤ちゃんも無事に帰さないと、だろ?」
「…………!」
言われた大樹はうなずいた。表情を引き締め、倉庫の出口へ走り出す。
「みんなこっちだぜ! 早く!」
「しかし……」
「行こう、先生」
軽く腕を引いた砂季は真っ直ぐと立っていて、悠人はうなずくしかなかった。
走り出す。
マロンとクリも大人しくついてきた。
背後では鼠のものらしき鳴き声が響く。けたたましく。
思っていたより時間が経っていたらしい。
外へ出るともう日が暮れかけていた。
肌へ切り込んでくる風は冷たくなっている。
部活の指導でそこそこ運動しているとはいえ、山道は走りにくい。
数分で息が切れがちになってきた。
後ろを振り向けば砂季の表情も少し辛そうだ。
妊娠しているのなら尚のこと辛いに違いない。
「砂季……大丈夫か?」
「大丈夫」
答える彼女は気丈で、悠人は言葉が見つからなかった。
しかし彼女の表情が苦痛に歪むのを見て居たたまれなくなる。
「大樹くん、少しだけ休めないか?」
「へっ?」
「後ろからはまだ来ていない。ここで無茶をしたら砂季の身も危険だ。……少しだけでいいから休めないか」
頼むと、彼は迷いを見せた。
春樹のことも気になっているに違いない。
後ろに目を凝らし、それから砂季と悠人を見比べる。
「……ん、わかった」
彼も砂季の身を案じたのだろう。
小さくうなずき、どこか休める場所はないかと周りキョロキョロ見回した。
しかしそう都合良く見当たるはずもなく、あまり時間があるわけでもない。
結局その場に腰を下ろすことになった。
「ごめん。先生も気にしてくれてありがと」
そう笑った砂季は、無意識にかお腹をかばうようにしていた。
悠人は目を逸らす。直視出来なかった。
自分は、無邪気に笑いかけてもらえる人間でない。
だって。
「……俺は、どうしようかと思ったんだ」
「え?」
「子供が出来たと言われて、どうしようかと思った。真っ先に自分の身を案じた。砂季の心配より自分の心配をしたんだ。礼を言われるような奴じゃないよ、俺は……」
「でも先生、さっきあたしを助けてくれたよ。今だって気遣ってくれたじゃん」
悠人は首を振る。
そう言われても自分が納得出来ないのだ。
自信がない。
自分には彼女を守る資格も権利もないのではないか。
前から不安であったし、疑問でもあった。
彼女はまだ、自分よりずっと若い。
それなのになぜ自分なのか。
これは大人への、ある種の“憧れ”なのではないかと。
いつかその“憧れ”は冷め、彼女もそのことに気づくのではないかと。
「……おまえにはもっとふさわしい奴がいるんじゃないかって、いつも思うよ。例えばクラスの奴らやバスケ部の奴らとの方が、きっと似合ってるって」
ポツリと呟くと、砂季は目を細めた。
「先生。あたし、怒るよ?」
「しかし……」
言葉を濁すと、ふいにガサガサという雑音が聞こえた。
大樹がとっさに立ち上がる。二人をかばうように前に出た。
「やべっ……!」
鼠が来る。――しかも二匹だ!
一匹ならまだしも、二匹となると逃げながら追い払うのは難しい。
それでも逃げるしかない。
悠人はややふらつきながらも立ち上がった。
だが、大樹は動かない。
「大樹?」
砂季に呼ばれ、彼は振り返った。
しかし彼の目は砂季でなく悠人を捕らえている。それもなぜか不機嫌そうに。
「おい、おまえ!」
「え……」
「オレには難しい話なんてわかんねーけどっ……砂季姉が好きなのか嫌いなのか!?」
「な、こんなときに何言って……っ」
「どっち!」
鋭く問われ、悠人は詰まった。
動揺が止まらない。
砂季が好きなのか、嫌いなのか。
(……そんなの)
そんなの、――決まっている。
とうとう鼠が追いついた。
大樹はそれを力任せに振り払う。
それからもう一匹の追撃を突き倒すことで防いだ。
振り向く。真剣な瞳で。
「砂季姉のことが好きなんだろ!? だったら守れよ! 守れっ!!」
「っ!」
息を呑んだ悠人の隣で、マロンとクリが甲高く一声鳴いた。
それを聞いた大樹が笑う。
「おう、おまえらも頼りにしてるぜ。――行け!」
二匹が駆け出す。
引っ張られるようにして砂季も走り出した。
悠人も数秒遅れ、後を追う。
握る拳が痛かった。全く。何てことだ。
(あんな小さな子たちに気づかされるなんて)
『赤ちゃんも無事に帰さないと、だろ?』
『砂季姉のことが好きなんだろ!? だったら守れよ! 守れっ!!』
核心を、突かれた。
核だけではやっていけない。
世間体や常識など、悠人は多くのものに縛られて生きてきた。
そしてこれからもそうやって生き続ける。
そうやって生き続けることしか出来ない。
しかし、核を失ってはいけないのも確かなのだ。
(今はもう考えない)
考えている余裕もない。
悠人は砂季の手を握った。
自分と比べればずい分と小さな手。
彼女が驚いて顔を上げる。
それからためらいがちに小さく笑んだ。
後のことは後で考える。
――今は、この小さな手を放さない。この笑顔を守り抜こう。