4封目 最終兵器ご登場
ただいま、と帰ってきた声はどこか疲労がにじみ出ていた。
「おかえり。って……」
出迎えた春樹は唖然とした。
マロンとクリは相変わらず元気で問題ない。
問題は大樹と砂季だ。
「何で二人してそんなに濡れてるわけ?」
「「だって!」」
彼らは同時に声を上げた。
それは春樹がギョッとするほどの勢い。ついでにクリもビクリと跳ね起きたほどだ。
「砂季姉が自動販売機にジュース忘れて!」
「ちょっと、それは関係ないじゃん!」
「炭酸なのに思い切りシェイクして!」
「天然でそれやらかす大樹よりマシでしょ!」
「しかもそれ人に向けてっ!」
「だからってやり返すなんて女々しいと思わないのっ?」
「女々しくねぇー!」
…………。
…………。
――くだらない。実に子供じみたやり取りだ。
そう判断し、春樹は深く関わるのを避けることにした。
「春兄もひどいと思うよな!?」と泣きついてきた大樹をハリセンで叩き落とす。
炭酸まみれのベトベトな身体で抱きつかれても困るのだ。
無駄な洗濯物を増やしたくはない。
「ところで」
いじけた大樹はさておき、春樹はコホンと小さく咳払いをする。
二人が怪訝な顔でこちらを見やった。一体何を改まっているのだと思っているのだろう。
そのあからさまな態度に、春樹はつい笑ってしまう。
「今、ちょっと人が来てるんだけど」
「へっ?」
「お客さん?」
興味を持った二人が玄関から身を乗り出す。
そこへ、居間からひょいと覗いた顔があった。二人の表情がパッと輝く。
「母さん!」
「百合姉ちゃん!」
靴を脱ぎ散らして駆け寄ってきた二人に、彼女、日向百合は微笑む。
「大ちゃん、おかえりなさい。砂季ちゃんは久しぶりね」
――そう、春樹の呼んだ“助っ人”とは母親の百合だったのだ。
天下無敵のドS女に勝てるのは、日向家最強伝説を誇る彼女しかいないと踏んだのである。
実際に砂季は百合に懐いているし、女同士の方が心を開きやすいだろう。
こうして嬉しそうに対面しているのを見ても、恐らく春樹の考えは間違っていない。
彼らの靴をきっちり並べながら、春樹はホッと息を吐いた。
「百合姉ちゃん、どうしたの? あっちにいるって聞いたけど」
「砂季ちゃんが遊びに来ているって知ったから、会いたくなって」
「百合姉ちゃん……」
微笑む百合に、砂季はくしゃりと表情を崩す。彼女は照れたように笑った。
「春樹に何か言われたんでしょ」
「ええ。砂季ちゃんが家出したって」
百合はあっさり認め、穏やかに砂季を見やった。
その瞳は温かい。まるで我が子を見守るかのように。
「家は嫌い?」
「……そんなこと」
ないよ、と呟く彼女の声は小さかった。
迷っているのだろう。口を開きかけては顔を俯かせてしまう。
春樹と大樹は二人のやり取りに口を出せないでいた。
あんなに自分たちを振り回してきた砂季が、百合の前では不思議と小さな子供に見えてしまう。
身長はほんのわずかだけ砂季の方が高いというのに。
「……えっと」
不安そうに砂季が窺ってくると、百合はポンと彼女の肩に手を乗せた。
「まずはシャワーですっきりしましょうか」
「え?」
「砂季ちゃんも大ちゃんも、シャワーを浴びて着替えた方がいいでしょ? その方が落ち着くもの」
「……うん」
笑い、砂季はパッと表情を明るくした。
何か企むような生き生きとした笑顔だ。思わずこちらがたじろぐほどの。
「大樹、砂季ちゃんと一緒にシャワー浴びよっか?」
「は? やだぜ、そんなの」
「あ、ひどー。生意気なこと言っちゃって」
「砂季姉とシャワーなんて、いじめてくるに決まってんじゃん!」
――そっち!?
春樹はうっかり脱力してしまった。
多少学習してきたのは褒めてやりたいが、それでも今の問題はそこでない気がする。
もう小学六年生なのだから、もう少し異性への意識を改めていただきたい。
兄が心配することでもないだろうが。
「大丈夫大丈夫。冷水ぶっかけたりしてみるくらいだし」
「心臓止まったらどうすんだよ!」
「あんた頭弱い代わりにきっと心臓強いから大丈夫だって。うん、きっと頭にもう一つくらい心臓入ってるよ」
「マジで!? 頭からご飯食べたり出来んの!?」
「何で心臓がご飯食べるんだっ!!」
色々と混合してしまっている大樹にハリセンを一つ。ついでにため息を二つ。
そもそも頭に心臓があるもんか、というツッコミはもはや面倒くさい。
「くだらないこと言ってないで早く浴びて来い」
ハリセンを片手に低く告げると、二人は「はぁい」と肩をすくめた。
その様子を百合は楽しげに眺めていたのだった。
◇ ◆ ◇
シャワーを終えた砂季はすっきりしたように見え、しかしどこか緊張しているようだった。
春樹は濡れたままの大樹の髪をわしゃわしゃとタオルで乾かしながら様子を見守る。
大樹も砂季が気になるのか、文句も言わずされるがままだ。
「砂季ちゃん、すっきりした?」
百合がのんびり笑い、砂季は顔を上げる。
わずかに彼女の肩から力が抜けたようだった。
「うん。ありがと」
「ふふ。いいのよ、いくらでも使ってちょうだい」
「今度は百合姉ちゃんと入りたいなぁ」
「あらあら。照れちゃうわ」
おどけるように笑った砂季に、百合もまた同じように返す。
そのやり取りは何だか微笑ましい。
同時に、春樹は居心地の悪さに近いものを感じ取った。
もどかしいような、むず痒いような。
「あの……僕らは出てた方がいいかな」
恐る恐る声をかけると、砂季が小さく目を丸くした。
寸分の迷いを見せた彼女だが、かぶりを振って否定する。
「んーん、二人にも聞く権利はあるだろうし。迷惑かけちゃったしね」
「あれ、自覚あったんだ」
「大樹うっさい」
「んな!? 褒めたんだぜ!?」
「……そっちのがお姉さん悲しいわー」
「何だよそれぇっ」
大樹が喚くが、――お兄さんも悲しい。
本気で悪気なく褒めたつもりなのが恐ろしいところだ。
「ともかく」
コホンと砂季が咳払いをしてみせる。
それはわざとらしかったが、場を取り直すには十分だった。
それは、彼女の瞳が真剣だったから。
自分らが黙ってしまったのを確認すると、彼女は苦笑を浮かべ、ポツリポツリと語り出した。
「どこから話せばいいかな。……えーと。あたしね、好きな人がいるんだ」
そう言った彼女は、どこか嬉しそうでもあった。
「相手はけっこー間抜けでどうしようもないところも多いんだけど、すごく優しくて、温かくて。気づいたらすごく好きになってて」
「素敵ね」
「気づいたら押し倒してた」
「ぶっ」
唐突な展開に思わず噴き出す。
そんな春樹に砂季はケラケラと笑った。「純粋ねー」などと本当に思っているのか怪しいことを言っている。
ちなみに百合は相変わらずニコニコしたままだ。
「奇遇ね、実は私も同じことしたの」なんて言われなくて良かったと思う。心底思う。
「相手は学校の人?」
「……うん。だから気まずい。行きたくない」
「……フラれちゃった、とか?」
「ううん」
恐る恐る聞くが、砂季はあっさり首を振る。
春樹と大樹は顔を見合わせた。
二人は恋愛経験に乏しいからかもしれないが、今の話では気まずい理由がよくわからない。
失恋したわけでもなく、学校に好きな人がいるのなら、むしろ学校へ行くのが楽しみになるのではないだろうか。
会いたいと思うのが自然なのではないだろうか。
しかし、砂季の表情は晴れない。
「その人、三谷悠人っていうんだけど」
「ん? みたにゆうと……?」
「そう。さっき、大樹が会った人」
「あ、学校の先生だっけ。バスケ部の」
思い当たったらしい大樹がポンと手を叩く。
しかし、ここで春樹にもわかった。彼女が悩む理由を。
「学校の先生か……」
「あは、自分でもびっくり」
「……砂季ちゃん。それだけ?」
「え?」
砂季が瞬く。百合は笑ったまま。
大樹はもはや展開を理解出来ていないようだが、それはともかく。
「……んーん。百合姉ちゃんには敵わないなぁ」
笑い、砂季は頭を掻いた。視線を落とす。
「――赤ちゃん、出来ちゃった」
それは、静かな響きを持っていた。
彼女は視線を彷徨わせる。
落ち着きはないが、決してこちらに合わせようとはしない。
今までの迷いが一度に溢れ出たように。
(そういえば)
思い出す。彼女は言っていた。
『あたし、目がこんな風にしょぼしょぼなるくらい酸っぱいものがほしい気分。何かない?』
妊娠すると酸っぱいものがほしくなる。
そう聞いたことはあるが、まさかあれが?
「避妊、は……?」
「してたつもり。でも下手だったのかなぁ。見事に失敗だったみたい」
へへ、と彼女は笑った。
それは無理をしているようで、見ていたいものではない。
春樹は言葉が見つからなかった。
砂季は慎重に腹部を撫でる。無意識だろうか。
「あたし、どうしていいかわからなくなっちゃって。先生との関係は誰にも言ってないし、こんなこと相談出来る人いなくて……。先生にも言おうかと思った。でも、言えないよ。言ったら先生、絶対困る。先生は本当に先生が好きで、先生が一番カッコいいのは生徒に囲まれているときとか、バスケを教えたりしているときで。私はそんな先生を好きになったんだもん。言ったら、バレたら……先生から先生を取り上げることになっちゃう……」
それだけは嫌なのだと、彼女は緩く首を振った。それからそっと百合を見やる。
「でも、百合姉ちゃんなら、って思って。周りの反対も押し切って結婚したっていう百合姉ちゃんなら、わかってくれるかも、助けてくれるかもって思って……」
だから、来たのだ。学校を休み、家を出てまで。すがりに来たのだ。
ふ、と百合が肩の力を抜いた。彼女はゆっくりと砂季の頭を撫でる。
まるで小さな子をあやす――いや、褒めるように。
「砂季ちゃん。頼ってくれて、ありがとう。砂季ちゃんが一人で抱え込んだまま押し潰されなくて良かったわ」
「百合姉ちゃん……。……百合姉ちゃんは、怖くなかった?」
「怖くなかった。なんて言えば嘘になるわね」
百合はおっとりと微笑う。その笑みは温かい。どこか懐かしんでいるようでもあった。
「反対する人は多かったし、私自身、未知の世界へ踏み込むようなものだったもの。わからないことばかりで不安はどんどん膨らんでいた。それでも……ふふ、私って単純なの。隣にあの人がいて、手を握ってくれて。それだけできっと大丈夫だなって思えちゃって。それに」
「へっ?」
「うわっ」
突然抱き寄せられ、大樹、春樹と悲鳴を上げる。
ぎゅうと腕に力を込められ、ああ大樹の抱きつき癖は母から譲り受けたんだなぁ、と場違いな感想を抱いた。
(温かいけどええとそういう問題じゃなくてうわちょっと苦しくなってきた気がするんですけど)
母に抱きしめられるというのは久々で、頭が一気に混乱してくる。
恥ずかしさと照れくささが一度に襲ってきたのだ。無理もない。
しかし当の百合は気にならないのか、ご満悦な様子だ。
「それに、ね。私は春ちゃんや大ちゃん、葉ちゃんがいてすごく、すごく幸せよ」
力強い言葉は、ホントウ。
春樹は抵抗する気力も失せてしまい、大人しくその腕の中に収まった。
大樹も同じだったようで静かになる。
それを見ていた砂季が笑う。嬉しそうな悲しそうな、切なそうな愛しそうな表情。
「百合姉ちゃん、あまり答えになってないよ」
「あらあら。ごめんなさい」
「ううん、むしろすっきりしたかも。……ありがとう」
照れくさそうに呟く砂季へ、百合はうなずく。彼女はわずかに顔を引きしめた。
「でも、ちゃんと相談すること。両親にも、相手にも。まずはそこから」
「親、泣きそう」
「後でたっぷり親孝行してあげましょうね」
「あははっ。了解、頑張ります。……先生には、明日言うね。早い方がいいと思うし……言っておかないと決心鈍りそうだし。そのとき、春樹と大樹借りてもいい?」
土壇場で逃げ出さないように。そう言われて断れるはずもなかった。
春樹はうなずき、大樹も「任せろ」とピースを差し出す。
だがその後、大樹は何を思ったのか小首を傾げた。
「んーと? 結局、今の砂季姉には赤ちゃんがいるってことか?」
「そーゆうこと」
やっとわかったのか、と春樹は彼の頭を小突く。
相変わらず回転の遅い頭だ。
「何だよ」と頭をさすった大樹は、しかし、砂季を見てパッと顔を輝かせた。
「砂季姉、すごいな!」
「え?」
「だって、今日赤ちゃん見たけどすっげー可愛かったじゃん。いいなー。なあ母さん、オレもほしい!」
「そうねぇ。私もせっかくなら女の子がほしいかしら」
「え、弟の方が外で一緒に遊べそうだぜ?」
「女の子も活発に遊べるからきっと大丈夫よ。でも、お父さんに頑張ってもらわないと」
「ちょ、こら! 黙って! 何でいきなり明るい家族計画になってるの!?」
しかも途中でひどく現実的なことを言われた気がする。さらっと。あっさり。やめてほしい!
慌てて止めに入った春樹に、百合は構わず「春ちゃんはどっちがいい?」と尋ねてくる。
答えに詰まると、砂季が堪え切れなかったように笑い出した。