1封目 家出少女は犬と行く
がしゃんっっ
朝から景気のいい物音がし、日向春樹は身をすくませた。
しかしこちらとて慣れたもの、一瞬後には息を吸い声を張り上げている。
もちろんたっぷり怒気を含ませて。
「大樹!」
――物音の方を見やれば、そこには案の定、弟・日向大樹の姿。
彼は物音より春樹の声に身をすくめているようだった。
悪いことをしたと自覚はあるのだろう。
いつもは快活な彼の瞳が曇り、ビクビクとこちらを見上げてくる。
気丈なのか悪あがきなのか張り付いた笑みを浮かべて。
「あ、あは、あはははは?」
「笑って誤魔化すな」
「ごめんにゃひゃいいいでででっ」
ぐいと容赦なく彼の両頬を引っ張り上げる。
謝罪が悲鳴に変わっても構わなかった。
こちらは長年心労が溜まっているのだ。このくらいの痛みで許されるのなら軽いものである。
春樹は割られた皿に視線を落とした。
当たり前だが何の抵抗もなく落とされたのだろう。破片がそこらに散らばっている。
片付けと、新たな出費と。考えただけで頭が痛い。
「何でおまえに手伝いを頼むとやることが増えるかな……」
「ちがっ、これはほら、皿が空を飛びたいなぁって!」
「言いたいことはそれだけか?」
「ごめ、ごめんっ、ごめんにゃひゃいいい! 伸びる、ほっぺ伸びるー!」
「うるさい。だいたい何で皿を三つも割るんだ! 余計な分まで出して……!」
怒鳴りかけ、ハッとする。
大樹も今気づいたかのように目を丸くした。
「…………」
流れるのは気まずい沈黙。
――大樹が皿を三つ出したことには理由がある。
この家には先日まで居候がいたのだ。
その居候とは「もっちー」。
異世界――“倭鏡”に住む、渡威と呼ばれる生き物である。
よくおかしな関西弁を使う陽気なソレは、ひょんなことから自分たちの仲間として共に住んでいた。
それがこの間、突然寝返り姿を消してしまったのだ。
それ以来春樹たちはまた二人暮しの生活に戻った。
だが――もっちーの影は消えない。ふいにこんな形で現れる。わずかに重たい空気を伴って。
ピンポーン
「あ」
呼び鈴が空気を破り、春樹はホッとした。息をつく。
「大樹、出てきて。僕は片付けてるから」
「え、でもオレが……」
「おまえが片付けたら破片で怪我しそう」
「何だよそれー!」
不満たっぷりに喚いた大樹だったが、二度目の呼び鈴で慌てて駆け出す。
春樹は屈み込んで破片を拾い上げた。目を凝らさないと見落としてしまう。後で掃除機をかけておくべきだろう。冗談でも何でもなく、大樹なら駆け回って怪我をしかねない。
(それにしても誰だろう……?)
休日の朝早くから来るなんて迷惑な――。
ばうばうばうっ
きゃんきゃんきゃんっ!
「!?」
春樹は思わず拾った破片をまた落としてしまった。
大きめのものが音を立てて粉々になる。
――やってしまった。
ばうばうばうっ
きゃんきゃんきゃんっっ
懲りずに鳴き散らしているソレは犬のようだった。
大樹の悲鳴も混じっているような気がしたが、掻き消されてしまいよくわからない。
春樹は片付けを後回しにして玄関へ向かう。
と。
「ぎゃああちょっと待ってちょっと待ってぇえ! 重い! くすぐったいーっ! わかったからっ、久しぶりなのはわかったからー!」
大樹が大きな犬の下でもがいていた。さらに子犬も一匹じゃれついている。
唖然としているとふいに声が降りかかった。
「こら、マロンもクリも落ち着けってば。あたしにだってそんなにサービスしないくせに」
染めたのであろう明るい茶色の髪に、ミニスカートとブーツ。頭には季節物の帽子を乗せた少女。
彼女が軽く帽子を上げ、春樹はその顔に目を見開いた。
「砂季姉!?」
少女の名は朝霧砂季。春樹たちの母方の従姉だ。
目が合った彼女は笑う。こちらの戸惑いなど気にもせず。
「ハロー、春樹。久しぶり」
「どうして急に……」
「うん、ちょっと。……こーら、マロン! クリ! おすわり!」
――砂季の命令でピタリと二匹の動きが止まる。
よく見れば春樹たちもこの犬に見覚えがあった。
マロンと呼ばれたのは♀のゴールデンレトリバー。
立つと大樹よりも大きいので迫力がある。喜びで振られている尻尾だけで威力が相当ありそうだ。
それに対し、ちまりと鎮座しているのがクリと名づけられた、♂のチワワ。
目がクリクリとして愛らしい。かなり凸凹した組み合わせである。
その二匹から這い出てきた大樹の息は切れがちだった。
「大樹、大丈夫か?」
「ダイジョーブじゃねぇ……舐められすぎてベタベタする」
情けない顔をする大樹。
動物好きの彼がこのような反応をするのは珍しい。よほど強烈だったのだろう。
砂季は二匹の犬を撫でながらこちらを見やった。家の中を覗くようにして首を傾げる。
「ねぇ、ところで二人だけ? 百合姉ちゃんと葉は?」
「……言ってなかったっけ。母さんは父さんについてるし、葉兄は王様やってるって」
「ああ、倭鏡だっけ。そっかー、久しぶりに会いたかったのに」
あっさり肩をすくめた彼女を春樹はまじまじと見つめた。
懐かしい記憶が重なる。
それは幼い頃。きっと砂季に初めて会ったとき。
砂季の両親は百合の話、倭鏡の存在を信じていないと春樹にもわかっていた。
子供心でも仕方ないのだろうと諦めていた。
ただ――この少女だけはどこか違ったのだ。
『信じるの?』
そう尋ねた自分を、彼女はあっさり笑い飛ばした。
『異世界? ああ、倭鏡とかいうんだっけ。さあ』
『さあって……』
『ピンと来ないけど、あたしの知らないことってまだたくさんあるだろうし。それに、百合姉ちゃんがそう言うなら、そうなんじゃない?』
『……百合姉ちゃん?』
『あんたたちのお母さん』
響きに違和感を覚え首を傾げた春樹に、彼女はませた表情で笑った。
『なんか“おばちゃん”って感じじゃないし……あたし、まだこの若さで命を散らせたくないもん』
――あの頃の砂季と今の彼女は変わらない。
もちろん背や体つきは成長しているが、笑顔や雰囲気は昔のままだ。
「ね、春樹」
呼ばれ、春樹は我に返った。目で先を促す。
だが少々嫌な予感がした。
昔から彼女がやたらニコニコしているときはロクなことがない。
「あのね、何日間かあたしをここに置いてほしいの」
「えぇ? だって学校は?」
「自主休講」
「そんなの認められるわけ……」
「だってあたし、家出してきたんだもん」
「いっ!?」
家出!?
「家出って、え、家を出てきたってこと!?」
「もち。じゃなきゃ家出って言わない。ただ遠くに行くならそれは遠出ね」
「わかってるけど! 家出って何で……だいたい犬を連れてなんて冗談でしょ?」
「マロンとクリの世話をしてるのはあたしだもん。連れてこないと飢え死んじゃう」
口を尖らせ正当化しようとしているらしいが、正直よくわからない。
春樹はこめかみをグリグリと揉んだ。
砂季が一筋縄でいかない相手だというのはわかっていたけれど。
「あのね砂季姉」
「春樹、泊めてくれなきゃあのことバラすよ?」
「!?」
にっこりと顔を近づけて囁かれた。
春樹は反射的に硬直してしまう。あのこと?
「だ、騙されないよ。僕はやましいことなんて何もしてないし」
例えしていたとしても、それが砂季に伝わっているとは考えにくい。
「ふーん? じゃあ大樹に言ってもいいんだ。へえ~?」
「……春兄、何したんだよ?」
砂季の態度を不安に思ったのか、大樹の声はやや不機嫌そうだった。
春樹は慌てる。砂季の狙いがわかってきた。
「気になるでしょ?」
「気になる!」
「聞かせてあげるから、大樹、あたしを泊めてよ」
「おう!」
「こら大樹! そんな簡単に砂季姉の策略に乗るな!」
「だってやましいことがないなら問題ないだろ?」
「そう思わせることが砂季姉の策略なんだってば!」
そもそも砂季の言い分は矛盾しているのだ。春樹には「泊めなきゃバラす」と言い、大樹には「泊めれば教える」と言い。
しかし大樹に説明してもすぐには理解してくれないだろう。
逆に説明しようと必死な春樹をますます怪しみかねない。
――全く、砂季も大樹の単純さをよくわかっている。
「ああもう……」
額を押さえてため息をつくと、ぐいと砂季に腕を引かれた。
彼女は恐らく満面であろう笑顔で耳元に囁いてくる。
「それ以上言うなら家にカラス放り込むゾ♪」
――……うわあ。
思い切り想像して鳥肌を立ててしまい、春樹は己の敗北を悟ったのだった。