プロローグ 愛は修羅場と共に
波が打つ。押し寄せる。濁った海はそれ以上入り込めない。
物寂しい砂浜に立つのは二人の男女。
二人の間に割り込めるのは穏やかな風のみ。それも柔らかな。まるで甘いような。
「俊彦さん……」
ほう、と女が甘い息を吐く。男は女の細くか弱い腰を抱いた。
「好きだ、照美」
「嬉しい。私もよ」
静かに波が音を立てる。それが耳に入った様子もなく、二人は互いに見つめ合った。
細められる黒々とした瞳。見。見。見。
――やがて、どちらからともなく目を閉じる。
近づく顔。否、唇。真っ赤な唇。小さな唇。ぷっくり膨れた唇。唇。唇。唇。
「待ちなさい!」
雷のような声に二人はとっさに離れた。
視線の先には女。
髪が乱れ息が切れ、それでも睨むように男女を見据えている。
女は甲高い声を張り上げた。
「俊彦さんは私のものよ!」
対し、照美と呼ばれていた女は男にすがりつく。
「けど、俊彦さんは私を選んでくれたの……!」
「渡さない! 俊彦さんは誰にも渡さないわ!」
「……すまない、妙子。君のことは本当に愛していた。だが僕は……」
男が悲しげに顔を伏せると、妙子と呼ばれた女は泣き崩れた。
砂にまみれても構わずに泣きじゃくる。
「嫌……嫌よ……」
「本当にすまない」
「駄目なの、俊彦さんでないと駄目なのよ……!」
「妙子……」
「だって私には俊彦さんの子が……っ」
「何だって!?」
ひょい
「あ」
突然携帯電話を取り上げられ、朝霧砂季は間の抜けた声を上げた。
顔を上げれば、犬のマスコットがぶら下がった自分の携帯電話。
そのさらに上には友人の仏頂面。
砂季は負けじと眉を寄せる。変顔は割と得意だ。プリクラで鍛えただけある。
「何すんの」
「こっちの台詞。せっかくの昼休みにアーサってば何で昼ドラなんか見てんのよ」
アーサ、とは自分の呼び名だ。
朝霧の「あさ」からもじったものであり、また朝霧の「あ」と砂季の「さ」からもじったものでもある。
砂季は肩をすくめた。口を尖らせて身体を伸ばす。
「砂季ちゃんは現代の文明を享受してただけですー」
「昼ドラ見て?」
「そうそう。ケータイでテレビ見れるなんて科学の力は偉大だなぁって。あたしってば素直だから」
「言ってろ」
投げやりに呟いた友人――長瀬和美が電話を返してきたので、砂季は自然にそれを受け取った。
背中半ばまである髪をかき上げ、教室を見渡す。
グループで固まり話に花を咲かせる女子たち。メール中なのか一心に携帯電話をいじっている男子。机に伏せて睡眠を確保している連中もいる。
黒板はおざなりに消され、机はバラバラ。BGMは雑音、笑い声、椅子の動く音。
飽きてもおかしくないいつもの日常。それが当たり前のようにこの教室には詰まっていた。
砂季は頬杖をついて窓の外を見やる。入ってくる風がひやりと涼しい。
「新しい部活とか入ろうかなー」
「はあ?」
和美が心底呆れた声で応じる。
彼女は自分の友達のくせに妙に生真面目だ。スカート丈は膝上が常な砂季に対し、彼女の制服はほぼ規則通り。
砂季が「生足を出せるのは今の内」と主張しても聞き入れてもらえた試しがない。
そんな彼女の言葉はやはり生真面目で。
「高二にもなって今さら何に入るってのよ」
「鉄道マニア研究部とか」
あくまでも研究の対象は、鉄道でなく、鉄道マニア。これがポイントだ。
「……あのね」
「何でああまで鉄道にお熱なのか気になるじゃん」
「やめなさいよ。これ以上変な趣味増やしてどうすんの」
「ギネスに挑戦!」
「自慢にならない」
「ちぇー」
机に突っ伏す。
そこにはくだらない落書きがのたくっていた。砂季が寝ぼけて描いたものだ。その割にはなかなか上出来だと自分では思っている。
「だいたいアーサ、バスケ部は? 最近サボってるでしょ」
「サボってません、休んでるだけですぅー」
「出てないことには変わらないっつーの。唯一まともな趣味なんだから頑張りなさいよ」
「……うん」
曖昧にうなずき、砂季は笑う。
和美の言葉は好きだった。
一見突き放しているようでも、きちんと心配していることが伝わってくる。
「あ」
ふと思い出すことがあり、砂季はがばりと身を起こした。
「和美、突然で悪いんだけど」
「ん?」
「今週の土曜、遊ぶ予定パスしていい?」
「アーサの予定がコロコロ変わるのは慣れてるよ。でもどうして?」
首を傾げる和美に、砂季はニヤリと笑ってみせる。
「可愛い従兄弟たちに会いに行くの」