エピローグ お別れ
大樹が回復した頃にはすっかり日が暮れていた。
その後は春樹手作りの夕食を済ませ、風呂へ入る。
先に入った大樹はホカホカした身体と気分で春樹と交代。
髪を乾かせという小言をやり過ごしつつ、台所でコーヒー牛乳を手に取った。
「やっぱ風呂上がりは牛乳よりコーヒー牛乳の方がいいと思うんだよ、うん」
一人で言い訳めいたことを呟き、飲み干そうと――。
ピンポーン
「んむ?」
家の呼び鈴が鳴り、大樹は首を傾げた。
もうすぐ九時になる。人が来るには遅い時間だ。
ピンポーン
春樹は風呂に入ったばかりで出られない。
そのことに一テンポ遅れて気づき、大樹は慌てて玄関へ向かった。
「はいはーい?」
鍵を外しドアを開けると、――見知らぬ一人の男。
短髪であろう頭にバンダナを巻き、ラフな軽装。
丸い目が幼さを残しているせいか年齢は若く見えた。
だが葉よりは年上だろう。
大学生か、もしくはすでに社会人か。
いわゆるセールスのような雰囲気はカケラもなく、また酔って家を間違えた風でもない。
大樹は相手の判断に苦しんだ。ポカンと見上げるしかない。
「……誰?」
きょとんとしたまま尋ねると、男性は我に返ったように瞬いた。笑う。
「ああ、いや。俺は通りすがりの者なんだけど」
「は?」
「君の家の前に落ちていたから、もしかしたら君のかなぁって」
そう言って男性が取り出したのは、丸くて少し汚れてしまった――
「……もっ……ちぃ……?」
ボーゼンと呟き、大樹は男性の手からソレを引ったくった。近くでまじまじと見る。
怪獣のぬいぐるみ。黒くて丸々とした目。短い手足。もっちーだ。紛れもなく。
もちろん、今はただのぬいぐるみだけれど。
「何で……」
落ちていたって。どうして。あのもっちーは?
「あ、やっぱり君の?」
「……そう」
うなずき、抱え込む。
落ちていたからなのか、埃っぽいにおいが鼻を掠めた。
男性がホッとしたように笑う。
「良かった。じゃ、とりあえず渡したから……」
ぎゅ……っ
帰りかけた男性の服の端を、大樹はしっかりつかんだ。
男性が足を止める。
しかし大樹は放さない。ますますつかむ手に力を込めた。
「あの?」
「……もっちー……何だよこれ。どーゆうつもりだよ! 何でこんなっ……もう戻ってこないつもりか? わかんねぇよ、ちゃんと説明しろよ……っ」
まくし立て、目の前の男性を睨みつける。
男性が目を見開いた。
そして、
「……やっぱり騙せへんかぁ」
困ったように、笑った。
大樹はぐいと服を引っ張る。なぜか無性に悔しかった。
「もっちー! 何でっ、んぐ!?」
「しー。近所迷惑になる。……春樹サンはお風呂?」
口を塞がれたままでは抗議出来ない。
大樹は仕方なしに小さくうなずいた。
「そっか」と呟いたもっちーは大樹を解放し、外の段差に座る。
家の中に入る気はないらしい。
大樹は一寸迷いその隣へ座り込んだ。夜の風はさすがに冷え冷えとしている。
「大樹サン」
「何だよ」
自然と硬くなってしまった声に、大樹は微かに顔をしかめた。
それを意に介した様子もなく、ふう、ともっちーが息をつく。
「確認もせずドアを開けちゃ駄目でしょ」
「……は?」
「変質者だったらどうするんです? 無用心すぎて驚きましたよ」
「なっ……」
「しかもまた髪を乾かさないで。ああもう、パジャマのままだし。寒いでしょ、ほらこれ着て」
「ちょっ」
脱いだ上着をかぶせられる。
それは大樹には大きく、身体をすっぽり包めそうなほどだった。
薄い生地だが温もりが伝わってくる。
(あったけー……)
……――じゃなくて!
大樹はぶんぶんと首を振った。違う、和んでいる場合でない。
しかし内容といい口調といい、調子を崩さずにはいられなかった。
「……その姿、誰なんだよ?」
「知り合いってことにしといてください」
「関西弁は?」
「いやあ、さすがにそんな気分じゃいられなくて」
「関西弁じゃないもっちーって、何か変」
「そ?」
笑われ、小さくうなずく。
その笑いがどことなく嬉しそうだったから悔しかった。
大樹はヤケ気味に空を仰ぐ。空は曇り、月も星もロクに見えない。
ぎゅっと。上着の端を握り締めた。
「……もっちーがオレを連れていこうとしたって。春兄が言ってた」
「本当です」
「……じーちゃんを襲ったのも?」
「そうですね」
「何で……」
「何ででしょう」
「!」
真面目に取り合えってもらえずカッとした。
立ち上がろうとし、だが腕をつかまれて押し留められる。
振りほどこうにも振りほどけない。
「このっ」
「言ったでしょう。大樹サンは無防備すぎる。本当は今この場でかっさらってもいいんですよ?」
「やれるもんならやってみろよ!」
「挑発してどうするんです」
もっちーが苦笑する。
確かに、明らかに不利なのは大樹の方だ。
武器もなくすでに手の自由が利かないならば、抵抗する術はほとんどない。
「まあ、さすがに今はしませんけど。今さらですがフェアじゃないですし」
「…………」
悔しい。悔しい悔しい悔しい。
大樹は歯を食いしばった。
――泣いてなんかやるもんか。
「今度は迎えに来ます」
「……やめるの、なしなのか? 今なら春兄だって許してくれる」
「もう、転がり始めたら止まれませんから」
「でも!」
「大樹サンは甘いなぁ。まあ、だからこそ俺も仲間でいられたんだけど」
笑い、もっちーが立ち上がった。
反射的に追い縋ろうとしたが、やんわりと手で制される。
「今日はさよならを言いに来たんです」
「え……?」
「迎えには来ますけど。もう、“もっちー”としてはいられないでしょうから」
何。何?
「春樹サンにもよろしく。……ああ、ちゃんと早く寝るんですよー」
最後まで世間話のように笑う。
そのままもっちーは歩き始めた。
行く。――行ってしまう。
何で?
わからない。
だって、今だってあんなに普通の態度で。
さよならって、言った。笑ってさよならって。
そんなの。
「もっちぃ――っ!!」
「……ぶ!?」
そんなの――嫌だ。
「だ、大樹サン? これ……」
もっちーが後頭部に受けたものを拾い上げる。
それはぬいぐるみだった。もっちーが大樹に返したものだ。
大樹はうつむいた。拳を握り締める。
「いらない」
「え?」
「そんなの、いらない……っ」
声を絞り出すと、やがて掠れた笑い声が届いた。
もっちーがどんな表情をしているのかはわからない。
「……そう、ですか」
「でも!」
「?」
「貸すだけだからな!」
「……大樹サン?」
「あげるわけじゃねぇぞ! 捨てるのも許さないからな! ちゃんと持ってろよ!」
そして、きちんと返しに来い。
――最後の台詞だけは音を失って消えた。
大樹は返事も待たずに家へ駆け込む。
とたんに冷えた身体が暖かい空気に包まれ、徐々に力が抜けてきた。
着せられた上着を乱暴に脱ぎ、くしゃくしゃに丸めて抱え込む。
背にした扉は微かに冷たい。
「もっちーのバカ、アホ、マヌケッ。……ちくしょー」
強くなってやる。驚くほど強くなって見返してやる。
――そして今度こそ、きっちり説明させてやる。
◇ ◆ ◇
ブラブラと歩いていたもっちーは、ハタと足を止めた。
電灯に照らされた少年を見て苦笑する。
「渚」
呼ぶと、彼はフンと鼻を鳴らした。
不機嫌そうに睨んでくる。どうやら相当胡散臭いと思われているようだ。
「そんなところに一人で突っ立ってちゃ、補導されるぞ」
「はっ。何が『大樹サンは甘いなぁ』だ。てめぇの方がよっぽど甘ちゃんのくせに」
無視して話を進められ、もっちーは瞬いた。
立ち聞きでもしていたのかと苦笑する。
悪趣味な、と思ったが口には出さなかった。
代わりに曖昧に笑みを浮かべる。
「……そっか?」
「そうだよ。さっさと拉致でも何でもしてくりゃいいだろ、あんなガキ」
吐き捨て、足早に歩き出す。
もっちーは肩をすくめた。のんびり後を追う。
「春樹サンを拉致しようとして失敗したのは誰だったかな」
「……ちっ」
「しかも、『あんなガキ』に邪魔されたからだっけ」
「その口縫うぞ」
毒づいた彼の横顔は苦々しい。
彼の苛立ちをもろに受け、もっちーは微苦笑した。
そっと空を仰ぐ。空は相変わらずの曇り模様だ。
だが、不思議と気分は悪くない。
「……とりあえず、第一段階の賭けは勝ったかな……」
「? 何か言ったか」
「いいや、何も」
笑って首を振り、もっちーもまた足を速める。
影は、闇へと溶けた。
■11話「闇夜に溶ける影の道化師」了