4封目 翡翠色の雨
嫌な予感がする。
春樹は寒気にも似たその予感を振り払えず、大樹の寝る病室へ急いだ。
渡威の、そして歌月の狙いはわからない。
けれどそれがもし大樹に――大樹の持つ白い“力”に関係しているとしたら。
(やばい……!)
あちらにとって今は機会だ。
大樹は防衛の術を持てないし、普段隠れている白い“力”ははっきりと存在を主張している。隔てるものが何もない。
気持ちが急く中、春樹は頭に院内の地図を浮かべた。
大樹のいる部屋は三階。
階段を使った方がきっと早い。
角を曲がって、その先――いや、もう一つ向こうのものを使った方がわずかに早いだろうか。
少しでも早く。早く行かなければ安心出来ない。
「こらっ」
「!?」
突然前を遮られ、とっさに踏み止まる。
勢いを殺しきれず、春樹は数歩たたらを踏んだ。
「元気なのは結構だけど、院内では走らないように」
「あ……」
軽く眉を上げたのは、看護士であろう若い女性。
長い髪を後ろで一本に束ねた彼女は快活そうな瞳で春樹を射抜く。
とっさに焦燥感が込み上げた。
春樹は一瞬言葉に詰まり、すぐに頭を下げる。自分でもやりすぎたと思うほど勢い良く。
「すいませんでした」
「え、あ。……わかればいいの。今度から気をつけてね」
「はい」
素直な返事に満足したのか、彼女は目元を和ませる。
「急いでどこへ行く気だったの?」
「……いえ」
説明している暇も、余裕もない。
漠然としたこの不安を言い表す術もなかった。
だが言葉を濁す春樹を怒るでもなく、彼女は「そ、」とだけ言って息をつく。ポンと軽く肩を叩いた。
「引き止めてごめんなさい。でも、危ないから走るのは駄目よ」
「はい」
うなずいた春樹に、より大きくうなずいて彼女は離れていく。
そっと振り返って見やれば、彼女は近くの同僚と話し始めていた。
「ねえ、さっきのって王家の……」
「え、そうなの?」
「そうよ。ほら、今の王のお父さんが入院してるじゃない?」
「ああ、そういえば」
「あんた何話してたのよ」
「何って言われてもね。走っていたから注意しただけよ」
「えーっ、度胸あるー」
「だって知らなかったんだもの。……ところで、私のナースキャップ知らない?」
「え? あんたまたなくしたの?」
「違うわよ。私、絶対机の上に置いておいたし」
「でもないんでしょ」
「それは……」
「あんたってばそそっかしいからねー」
軽く上がる笑い声。
それが小さくなっていくのを確認し、春樹は再び駆け出した。
胸中で「ごめんなさい」と告げておく。
手すりで身体を引っ張り上げるように階段を駆け上がり――。
「だい、っ……!」
ドアを開けた瞬間、中に人影が見えて春樹は息を呑んだ。
相手もこちらに驚いたのだろう。ピタリと動きを硬直させる。
その場に流れたのは奇妙な沈黙。
春樹はゆっくりとドアを開け放った。
「何で……?」
自分の目の前に立っているのは、つい先ほど春樹に注意した女性。
――そんな馬鹿な、と思う。
自分はあれだけ走ってきたのだ。
例え彼女がここに向かっていたのだとしても、先にいるはずがない。
けれど現実に彼女は目の前にいる。
彼女は眠ったままの大樹を抱え起こすようにし、それから困ったように微笑んだ。
「ええと。春樹くん、だよね」
名を呼ばれ、春樹は微かに眉をひそめる。
先ほどまで、顔も知られていなかったのに? それとも同僚に聞いたのだろうか。
「春樹くん?」
「あ、はい。……一体何をしているんですか?」
「これから大樹くんの部屋を移すことになったのよ」
「……移す?」
そんな話は聞いていない。
「私はよくわからないんだけど、何だか大変らしいじゃない? 普通の部屋じゃ心配だから移してくれって話。一体何がどう大変なのかさっぱりなのに」
「…………」
肩をすくめ、大樹を抱えた女性は歩き出す。
春樹はじっとそれを見ていた。
大変というのは“力”のことだろうか。
だが、移すって一体どこに? 移してどうする?
「……ナースキャップは、見つかったんですか?」
「え?」
突拍子のない質問に面食らったらしく、女性は目を丸くした。何度も瞬く。
「あ、ああ。ナースキャップね。見つかったけど……よく知ってるわね?」
「いえ……」
春樹はそっと封御を取り出した。
横目で見てみるが何の反応もない。大人しいものだ。
今さらになって走ったせいの激しい動悸がやって来る。
春樹は細く息を吸った。
(封御に反応はない……)
周りには白いベッドや白い壁。
備え付けられた冷蔵庫のような備品。
変わったものは特にない。何もないはずだ。
少なくとも渡威がいるはずはない。
けれど。
春樹は知っている。
たった一体、封御に反応を示さない渡威がいることを。
「……もっちー」
ピタリと、女性は足を止めた。
「……春樹くん? 今、何か言った?」
「もっちー。……何のコスプレ?」
「コスプレちゃう!!」
…………。
…………。
「やっぱりもっちーだ」
「ああっ、関西人としての性がぁ!?」
「人じゃないしもっちーのは似非でしょ?」
「心は立派に関西人を目指しとるんや!」
「まだ目指してる途中なんだ?」
「は、春樹サンのいけずっ。ああ言ったらこう言うんやから!」
「――それより」
すっと声のトーンを落とす。
するともっちー、いや女性の顔もつられるように強張った。
春樹はそっと封御を握り締める。
「もっちー。どーゆうつもり?」
「……何がや」
「大樹をどうするの? ……本当に部屋を移すわけじゃないよね。それなら僕を騙そうとする必要がない。最近よく出掛けていたことに関係、ある?」
「……ま、そんなとこやな」
「……裏切るの?」
「…………」
もっちーは答えなかった。顔を伏せて口を開かない。
それは肯定と同じ。
――ふいにもっちーの姿が溶け、だが大樹を落とすより早く形を成す。
「僕……!?」
「――ごめんな」
低い呟きと共に舞い降りる影。影は駆ける。
そして。
「魄戍!!」
――!?
息を呑む暇もなく春樹の周りが真っ白に包まれる。
その壁はふわりと軽い。それなのに押すとびくともしない。
本来それは外敵から守るためにあるが、技を発動した者以外では中からもこじ開けることが出来ない。
まるでその空間だけが周りから孤立しているように。
「しまった……!」
閉じ込められた。
このままでは大樹が連れていかれてしまう!
(……いや、落ち着け……っ)
まだだ。まだ間に合う。
もっちーの能力は相手のコピー。
この“力”も春樹の能力からコピーしたのだろう。
だが、それはあくまでもコピー。本物ではない。
能力に限りがあるし威力も落ちる。
その証拠に、春樹の目の前は早くも光が漏れつつあった。
「もっちー……」
なぜ裏切るような真似をするのか。わからない。
(だけど)
瞳を閉じる。
念じ、手繰り寄せるのは糸。鋭い針のような糸。繋ぎ、光が突き抜けるような感覚。
目の覚めるような漆黒が、純白の壁を打ち消した。
「……“本物”を見せてあげるよ」
「……っ!」
現れたセーガと共に見据えると、もっちーはたじろいだ。
数歩後退り、無理に笑顔を向けてくる。その額にはうっすら汗がにじんでいた。
「思ったよりけったいな“力”やな。消費量が半端やない」
「ここでゆっくり休んでいってもいいんだよ」
「気遣いだけでええ、おおきに」
「遠慮しなくていいのに」
「ワイは奥ゆかしいんや」
瞬間、もっちーは土屋へ姿を変える。
春樹はわずかに息を呑んだ。いつの間に彼までコピーしたというのか。
「クスクス……春樹くん、病院で騒ぐのは感心出来ないよ」
「もっちー。悪ふざけは程ほどにね」
「せやな」
口の端だけで笑ったもっちーが突っ込んでくる。
春樹はとっさに距離をとった。
「セーガ!」
――“ああ”
セーガが素早く前に躍り出る。
彼はもっちーと春樹を遮る位置で低く唸った。
もっちーが動きにためらいを見せた隙に、春樹はその横をすり抜ける。
今は何よりも大樹の確保だ。もっちーを倒す必要はない。
早く大樹を――。
「っつ!?」
急に足に痛みのような痺れが走り、春樹はたまらず倒れ込んだ。
――“御主人!”
「だい……じょぶ」
あまりにも突然のことに混乱しかけ、冷たいものが背を伝った。
けれど怪我らしき外傷は見当たらない。痛みもすでに引いている。ただ痺れだけが微かに残る。
「春樹サンらしくないで」
「なに……」
「ワイの今の“力”を確かめもせずに動くなんて」
土屋の顔で、あの優しげな表情でもっちーが笑う。
刹那、光が散る。
パチ、と何かが弾けるような音がした。
「! ……電気」
「ご名答♪ あまり手荒なことはしとうなかったんやけど。まあ、大丈夫。気絶するくらいや」
「簡易スタンガンってところだね。それで? 僕が寝ている間に、誰にも気づかれずに大樹を連れて行けると思ってるの?」
「協力者がおる。何とかなるやろ」
「協力、者?」
カツ、と足音がした。
一つの影が姿を現す。
不機嫌そうな表情で、釣り目がちな目をますます険しくさせた少年。
身長は春樹よりやや高い。
少し長めな黒髪は以前見たときと同様、無造作に後ろで束ねられていて。
「歌月……くん……」
歌月。歌月渚。
彼の父が渡威を盗み出し騒ぎを起こした。
「おい」
渚は低く声を漏らした。もっちーを睨みつける。
「話が違うじゃねぇか。おまえならこいつにも気づかれずに近づけるなんて言っといて」
「うーん、物理的にいえばの話だからな。封御は反応しないし、変身さえバレなきゃ警戒されないはずだった」
急に関西弁をやめ、もっちーは肩をすくめた。
それを渚は舌打ちで返している。
すっかり痺れがなくなった春樹は静かに立ち上がった。
セーガが支えるように傍へやって来る。
それを合図としたかのように引き締まるもっちーと渚の気配。
春樹は小さく苦笑した。封御を握り締める。
――ああ、もう。
「……本当なんだ……」
どこかでまだ信じられなかった。もっちーの悪い冗談なのではないかと。
だが、歌月と繋がっているとなれば。
「容赦、してられないよね」
「! 渚、早く連れて行け!」
「ちっ……命令してんじゃねえっ」
毒づきながらも渚が大樹を背負い込む。春樹はとっさにそれを追った。
「春樹サンには行かせ……!」
「魄戍!」
「!?」
セーガの翼が純白へと変化し、一方は春樹を電撃から守り、またもう一方は渚の行動を遮る。
先ほど春樹がやられたことを片方の翼で成したのだ。
春樹はすぐにその保護から抜け出し渚へ追いつく。
動きを封じられた渚は唖然としていて、解放された後も彼から大樹を奪い返すのは容易かった。
封御で彼の足を払う。
転倒した彼には目もくれず、春樹は大樹へ駆け寄った。
「大樹! 大樹!?」
抱き起こして揺さぶっても、大樹が起きる気配はない。
だが呼吸は安定しているし顔色も悪くない。
春樹はホッと息をつく。“力”は未だに白いままだけれど。
「セーガ、逃げるよ!」
――“御意”
「――これもまた、魄戍とやらで逃げるつもりか?」
「え……」
駆けてきたセーガに飛び乗った春樹は硬直した。
周りの窓からゾロゾロと渡威が集まってくる。
その中のどれだけが本体なのかわからない。
ただ、封御の光が痛いほどに眩しい。
「……ずい分盛大なお見送りだ」
込み上げるのは苦笑。
ゆっくり歩いてきたもっちーも小さく笑った。
「ちゃう。見送りやなくてお迎えや」
「………………もっちー」
「はい?」
微笑む。
「言ったよね。“本物”を見せてあげるって」
「――……!?」
「翡翊っ!!」
春樹の声と共に変わるセーガの翼。
それは鮮やかな翡翠色。
翡翠色は大きく開きその存在を強く高める。鋭く硬く、より美しく。
その羽が――槍のように、はたまた雨のごとく降り注いだ。
渡威から短い悲鳴が上がる。
音を立て床に突き刺さった羽は鋭い跡を残し、蒸発するように姿を消す。
喧騒が止みその場に残ったのは、呻く渡威と、無傷なもっちー、渚の姿。
「……もっちー。歌月くんも。退いて。退かないなら次は当てるよ」
「……っ」
「――参った」
「……は? てめっ、何言ってんだ!」
「あんなの見せられたら、なあ。分が悪い。そろそろ騒ぎを聞きつけて人が来る頃だろうし」
「……それは」
「春樹サン。そーゆうわけで今回は引き上げます。じゃ」
拍子抜けなほどあっさりと笑顔で言い、もっちーは踵を返した。
土屋の姿が溶け、もっちーは液体状のまま外に消える。
それを見送った渚は短く舌打ちした。
彼も猫の姿になるなり外に身を翻す。その後を何体かの渡威がのろりと追った。
皆が消えてしまった後で残ったのは静寂。
ただ微かに、窓の外から場違いな子供の笑い声が聞こえてくる。
「……行、った」
呟き、どっと息をつく。しばしそこから動くことが出来なかった。
――“大丈夫か?”
「はは……さすがにニ連発はしんどいかも」
肩で息をし、それでも何とか笑ってみせる。
魄戍と翡翊、大技をいきなり連発したのだ。
“力”も体力もだいぶ消耗した。
だが、体調は悪くなかったのでいつぞやの海賊船のときより楽である。
ふう、と一息。春樹は大樹の寝顔を覗き込んだ。
「……全く、呑気なもんだよね」