2封目 繋ぐ想いは架け橋となりて
朝の会、いわゆるホームルームが終わると教室は楽しげな騒音に包まれた。
一時間目が体育なため、女子がジャージ片手にワイワイ教室を出て行く。
残った男子はそのまま教室で着替えてしまうというのが春樹のクラスのスタンスだ。
そしてそれは今日も同じである。
「朝から体育か……」
はあ、と春樹の隣で杉里蛍がため息をついた。
彼はいつも不機嫌そうな顔をしているが、今日は一段と眉間にシワが寄っている。
だが彼は決して体育が不得意なわけでない。
恐らく低血圧か何かなのだろう。心持ちだるそうだ。
そんな彼を労るでもなく、かといって馬鹿にするでもなく。
キラキラと楽しげに顔を出したのは隼人だった。
「何を憂えているんだい蛍クン。朝日に輝くきらめく汗! ビューティフルじゃないか! 青春の一ページだよ!」
「……咲夜、どうでもいいけど上半身もちゃんと着替えろ」
「Oh, この身体に何か不満が? この鍛えた、けれど少年らしく薄い無駄な贅肉のない滑らかな身体に!」
「……おえ」
「あれ、蛍クン。何でこっち見ないの、何その嫌そうな顔? ていうかかなり失礼な反応じゃなかった今?」
「……言い方の問題だと思うけど」
隼人の声がキンキンと響く中、春樹は小さく呟いた。
決して隼人の上半身が気持ち悪いとは言わないが、それでもあの発言は正直「気持ち悪い」に値する気がする。
だがそれ以上口出しはせず、春樹はひたすら苦笑いでその場を乗り切ることに決めた。
どうでもいいがどうして彼はこうもテンションが高いのだろう。
さらにいえば何で自分はこの二人に挟まれているのか。
確かによく一緒にいるメンバーなのだが、左に不機嫌そうな顔、右に上半身裸の謎電波発信源では、非常に身動きがとりにくい。
「Oh, 春樹クンはまだ着替えてないのかい?」
おまえのせいだ。――とはまあ、言わないが。
「ああ、自分の裸に自信がないんだね? でも大丈夫。Don’t be afraid」
「気遣いは嬉しいけどいい加減裸の話から離れてくれないかな」
「そんな! 他に一体何を話せと!?」
「……いや、溢れるほど転がってるでしょ?」
ムンクの叫びを真似る隼人に恐る恐るツッコむ。
そこまで驚かれると自分が異常なのかと錯覚しそうで恐ろしい。はた迷惑なものだ。
「あのね春樹クン。人は誰もが裸で生まれ、そして裸で死んでいくんだよ。つまり裸は生命の神秘そのものさ」
「路上で裸のまま死んでいたら変態として全国報道だよ」
「一躍有名人じゃないか♪」
「モザイクつきだろうけど」
「……春樹クン、夢がないぞぅ☆」
「裸に夢を求められてもな……」
蛍が呆れたようにぼやく。
春樹もそのぼやきにしっかりうなずいておいた。
それにしても、一度は無視を決め込んだのに結局会話に参加してしまう蛍はなかなか律儀だ。真面目でいい人である。
ガラッ
開け放たれたドア。飛び込んでくる人影。
それはあまりにも唐突で、周りの男子はみんな一斉に固まった。
「日向! 日向はいるか?」
「きゃー! センセーエッチぃー♪」
「うわ、す、すまん!」
慌てたような声。とっさに赤く染まった顔。ピシャリと閉められたドア。
…………。
…………。
「何で先生がエッチ呼ばわりされなきゃいけないんだ!」
ややして、再び男性教師が顔を出した。
春樹たちの担任だ。
中年と言ってしまうには少々若く、今のところワックス仕立ての黒髪の量を心配する必要もない。
そんな彼の顔は、今度は照れではなく怒りと恥でわずかに赤くなっている。
割とがっしりした肩をいからせるその様子は、教師というよりやんちゃなガキ大将を連想させた。
とはいえ、彼は本気で怒っているわけではない。基本的にノリの良い人なのだ。
春樹は悪ふざけの犯人である隼人が素知らぬふりで口笛を吹いているのを見た。
肩をすくめ、一歩前に出る。
「先生、どうかしましたか?」
「ああ、日向。実は隣の小学校から連絡が来てな」
「連絡?」
隣の小学校。大樹の通っている学校だ。
今朝も春樹と大樹はそこで別れた。
だが、そこから春樹に連絡が来るなんて……?
大樹が何かやらかしたのだろうか。
そう思い春樹は眉根を寄せた。
そんな春樹に、教師は呼吸一つ分置いてから口を開く。
「どうやら、おまえの弟が倒れたらしい」
「……え?」
ポカンとした面持ちのまま、繋がらない回路を必死にたぐり寄せる。
どうやら?
おまえの弟――大樹が?
倒れた、らしい?
…………。
…………。
「大樹が倒れたぁ!?」
繋がったとたん、驚きはすごい勢いで全身を駆け巡った。とっさに理解出来ない。
倒れた。倒れた? あの元気馬鹿が?
滅多に取り乱さない――特に学校では――春樹の大声に、教師は少なからず驚いたようだった。
目を丸くし言葉を消してしまう。
だが、その反応はかえって春樹の頭を冷やさせた。
一度息をつく。落ち着いて話を聞かなければ。
「すいません。それで一体……?」
「ああ。ええとだな。話によると、突然頭痛を訴え始めたらしい。友達に付き添ってもらって早退したそうだ。……けど確かおまえの家、今は両親が不在だろ」
「はい」
確認を求められ、春樹は小さくうなずいた。
何か不便がないようにと、両親不在の件は事前に伝えておいたのだ。
とはいえまさか「両親は異世界に滞在しています」だなんて言えない。
よって「両親は自分探しの旅で新たな青春を過ごしています」と言ってある。
初めは冗談で言ったのだがなぜだかすんなりと受け入れられ、今も教師たちの間で春樹の両親は青春中のはずだ。
両親――というより母親だが――と教師の間には電話のやり取りくらいしかないだろうに、なぜ「そうか、おまえの両親だもんな……」と言われたのか今でも疑問が残る。
その電話のやり取りで母の百合がとんでもない発言をかましたのか。
それともよほど春樹が冗談を言う子供だとは思われていないのか。
どちらにせよ複雑である。
「それでだ」
心配を帯びた教師の声で春樹は思考を切り替えた。しっかりと彼を見上げる。
「両親がいないんじゃ心配だろうし、日向はこのまま家に帰ったらどうだ」
「え……いいんですか?」
「ああ。今日は大切な連絡や委員会もないし、付き添いの子も授業に戻さないといけないしな。それに日向なら一日の授業の遅れくらい、自力や友達の助けを借りれば取り戻せるだろ」
「……はあ。ありがとうございます」
曖昧にうなずき、頭を下げる。ずい分信頼されているものだと、春樹は他人事のようにしみじみ感じた。
こういうとき“優等生”という地位は役に立つものだ。
「それでは、早退させてもらいます」
「おまえも気をつけてな」
「はい、ありがとうございます」
もう一度頭を下げると、教師は小さく笑って教室を出た。せかせかと急ぎ足で歩いていく。
それを見届けるより早く春樹は席へ取って返す。着替える前で良かった。
「春樹クン。大樹クンが倒れたって?」
「うん、そうらしいけど……」
「大丈夫だといいな」
「ありがとう。きっとそんなにひどくはないと思うから」
心配そうな隼人と蛍に笑顔を見せる。実感がないというのもその余裕を手伝った。
「それじゃあ、二人とも授業頑張ってね」
そう言い残し、春樹は家へと足を運んだ。
◇ ◆ ◇
家に着くと鍵が開いていた。
友達に付き添ってもらった。その言葉を思い出す。
玄関に転がっているのは大樹の運動靴。
夏休み中に洗ったばかりのそれはすでに薄汚れていた。大樹が毎日駆け回っている証拠だ。
洗う身としてはため息をつきたくもなるが、兄としては「彼らしい」と微笑ましくも思う。
そしてその靴の横には、大樹のものより二回りほど大きなスニーカー。
さらにその横には、まだ新品同様の赤い靴。
春樹はとっさに確信した。自分も靴を並べ中へ入る。
「ユキちゃん、椿ちゃん?」
部屋の中に声をかけると、中の二人はほぼ同時に振り返った。
その表情に安堵の光が灯る。
春樹もまた、自分の予想が当たっていたことにホッとした。
この二人は春樹とも交流がある。何かと話しやすいというものだ。
「春樹さん」
椿が立ち上がり、浅く頭を下げてきた。
とたんに、彼らの後ろのベッドでこんもりしていたものが動き始める。
それは少々奇妙な光景だった。
もぞもぞと緩やかだった動きは突如激しさを増す。
焦れたのだろう。数秒後には布団が吹っ飛んだ。
――決してダジャレでも親父ギャグでもなく。
「春兄!」
「ダイちゃん、急に動いたら~……」
雪斗の声も空しく、布団を蹴り上げた大樹は一直線に飛びついてきた。
春樹は慌てて受け止める。
(熱い……?)
大樹は普段から割と体温が高い。
いわゆる――言うと彼は怒るが――「お子様体温」だ。
だが、今はそれを考慮してもなお高い。体全体が一心に熱を放っているかのように。
見上げてきた彼の瞳には涙が溜まっている。
ずっとこんな調子だったのだろう。
だから春樹を見る直前、雪斗と椿は途方に暮れた顔をしていたのだ。
「春兄っ」
「大樹、落ち着いて」
「だって! 頭痛くって……痛くて痛くて!!」
「うん」
「声が止まんねぇよ……っ!」
「うん」
ひたすら相槌を打ち、何度も背中をさすってやる。
本当につらいのだろう。彼の身体は小刻みに震えていた。
春樹はさする手を止めず、目を細めて大樹を見やる。
――まさかと思ったがやはり。
「どうすりゃいいんだよ!?」
「大樹」
「春兄! どうしたら止まる!? どうしたらいい!?」
「大樹」
「オレ、このままじゃ……!」
「大丈夫」
「……はるにい」
「大樹、大丈夫だ」
短く、はっきりと。大樹の目を見て言ってやると、彼の力が少しだけ弱まった。震えも少しずつ小さくなっていく。
昔からそうなのだ。
何度も名を呼び、「大丈夫」と言ってあげる。
それだけで彼は落ち着きを取り戻した。少しでも不安が軽くなった。
春樹にはまだ、母や父がやるように上手くはできないけれど。
「大樹、大丈夫だから。すぐ倭鏡の病院に連れて行く。それまでもう少し横になってて。ね?」
「……ん。ごめんな」
大樹はようやく笑顔を見せた。
それは強張っていたが、それでも彼はベッドへ戻っていく。その動きは妙にのそのそしていた。
春樹は立ち尽くしたままの二人を見やる。
それから頭を下げた。微笑む。
「二人ともありがとう。もう学校に戻らないと」
「あ、はい。……一つ訊いてもいいですか?」
「何?」
「倭鏡の病院って言いましたけど、春樹さんは原因、わかっているんですか?」
春樹は瞬く。
こちらの病院では駄目だ、そんなニュアンスを彼女は感じ取ったのだろう。相変わらずしっかりした女の子だ。
春樹は一つうなずいた。声を潜める。
「身体が――“力”に追いつかないみたいなんだ」
「身体が~……」
「“力”に?」
雪斗、椿がそれぞれ首を傾げる。
春樹はちらりと大樹に視線を送った。
当の大樹はベッドの中で耳を塞ぎ、ぎゅっと身体を縮めている。
それはほんの気休めに過ぎないかもしれないが、それでもそうせずにはいられないのだろう。
「昔もあったんだよね。三年くらい前かな。ふとしたときに“力”が膨大になって、コントロールが全然出来なくなって」
“力”は成長と共に大きくなる。
実体らしい実体があるわけではないが、質量が増え濃度が増すのに近い。
そして“力”が大きくなればなるほど、その威力と効力の時間が増す。
だが、そうなるにつれてコントロールの難しさも上がるのだ。
制御出来ない“力”は膨れ上がり本人を苦しめる。まさに今の状況がそれだ。
本来なら制御力も強くなって良いものなのだが、大樹はただでさえコントロールにムラがあるため、この状況に陥ってしまったのだろう。
「前は葉兄がコントロールの仕方を叩き込んでどうにかなったんだけど……そうでもしなきゃノイローゼになりかねなかったと思うよ」
「ノイローゼ? ダイちゃんがですかー?」
「うん。……普段、意識しなくても“力”はほとんど制御されているから。けど今の大樹の場合、止めようとしてもどんどん周りの“声”が流れ込んでくるんだ。木も風も鳥も虫も一斉に耳元で喚き立てている感じらしい。それが長時間。しかもその“声”は喜びの声ばかりじゃない。むしろ泣き声とか恨みの声とかの方が多いのかな……。昔、大樹も泣き喚き出したからね。切られる木の声が悲痛すぎて」
あの大樹が、一度とはいえ「こんな“力”いらない!」と叫んだほどだ。
そのつらさは春樹の予想も超えるのだろう。
「……あの。僕もついて行けませんかー?」
「え?」
「雪斗?」
二人の戸惑った視線が同時に雪斗に注がれる。
それを受け取った彼はヘラリと笑んだ。どこか複雑そうに。
「出来ればダイちゃんの側にいたいんです~」
「……ありがとう。でもごめんね」
「どうしてですか? 僕じゃ倭鏡、行けませんか?」
「そんなことないと思う」
春樹は緩く首を振った。きっと彼なら大丈夫だ。今はそう思える。
けれど、だからこそ。
「……あのね、倭鏡で大切にされているものって何だと思う?」
「「?」」
二人がきょとんと顔を見合わせる。
春樹は小さく苦笑した。自分でもずい分遠回りなことを言っていると思う。
「倭鏡にはすごく大切に思われているものがあるんだ。……それは“想い”」
「……想い」
ポツリと椿が呟いた。雪斗も聞き入っている。
春樹は大樹に聞こえないよう、そっと声を潜めた。
「“想い”は何よりも強いものだって無意識に考えている人が多いよ。“想い”を強く込めれば物にも命が宿ると言われている。……そして、こっちと倭鏡を繋ぐのも“想い”の力だと」
「こっちと倭鏡を繋ぐのもー……?」
「そう。だからこっちの人間が倭鏡に行くには条件があるんだ。一つは倭鏡の存在を心から信じていること。もう一つは鏡を挟んで、こっちの人間と倭鏡の人間が互いのことを想うこと。二人の想いが繋がれば、世界は繋がり、道は拓ける」
少なくとも母はそう言っていたし、そうしなければ行けなかったらしい。
科学的根拠はないが、春樹も漠然とそれを信じていた。
「ダイちゃんはそれ、知ってるんですか?」
「ううん、教えてない。……ユキちゃんなら、どうしてかわかるよね?」
見ると、彼は小さくうなずいた。先ほどよりさらに複雑そうに。
大樹は幼稚園の頃、友達に倭鏡の話を信じてもらえなかった。
それはちょっとしたトラウマだ。
そんな彼に今の方法を教えるのはためらわれた。
倭鏡に行くのに失敗すれば、それは相手が信じていない証拠となるのだ。
春樹は肩の力を抜いた。ゆっくりと微笑む。
「二人を疑っているわけじゃないんだ。……だからこそ、かな。二人が倭鏡に来るときは、大樹と来てほしい」
今は渡威の騒動でごたごたしているから、もう少し先になるだろうけどね、と苦笑気味に呟く。
「……わかりました」
雪斗はにへら、と表情を崩す。その様子はもういつも通りだった。見ているこちらまで和んでしまうような、彼独特の笑顔。
そのまま彼は大樹の側へ歩み寄る。そしてそっとその頭を撫でた。
「ダイちゃん」
「……ユキちゃん?」
「大丈夫だよー」
「……おう」
何がどう「大丈夫」なのか。
恐らく大樹も、そして雪斗自身にもよくわかっていないのだろう。
それでも彼らは何かを約束するように笑顔を交わした。
それで満足したのか、雪斗は真っ直ぐ玄関へ向かう。
椿も慌ててその後に続いた。
「それでは、失礼しました~」
「二人とも、気をつけて戻ってね」
「はい。春樹さんも何かあったら連絡ください。少しでも役に立てること、あるかもしれませんし」
「ありがとう」
笑顔を向け、二人が家を出て行くのを見送る。
それからすぐに部屋へ引き返した。
足音で気づいたのか、大樹がちらりと目を向けてくる。
「大樹、立てるか? 倭鏡に行くよ」
「……春兄、もっちーは……?」
「え?」
言われて気づく。
ぬいぐるみの姿がどこにもない。朝は確かにいて、笑顔で自分たちを見送っていたというのに。
こんなときに、と春樹は歯噛みしたくなる。
勝手だと知りながらその存在を欲せずにはいられない。
もっちーが例えば葉に変身してくれたなら、もっとスムーズに大樹を連れていけるのに。
だが仕方ない。いないものはいないのだ。
「多分もっちーも倭鏡にいるから。ほら、立って」
「うん……」
力の入らない彼を無理に立たせる。
熱はさらに勢いを増しているように思えた。
そんな彼を支えながら、春樹は居間の鏡へ――そして倭鏡へと踏み入った。