2封目 月明かりのダンス
カリカリカリ……、――パタン。
「はあ……」
宿題を終えた春樹は、一息つくと同時にノートを閉じた。
ざっと明日の時間割を確認し、忘れない内に準備してしまう。
こんなところでもマメな性格が表れる。宿題の存在すら忘れる大樹とは大違いだ。
ふと、シャーペンの芯がなくなっていることに気づく。
「もう使っちゃったんだ……」
呟き、時計を見る。
時計は七時になりそうだった。
外は少し暗いが、まあ大丈夫だろう。
「大樹ー?」
呼んでも返事はなかった。
怪訝に思って部屋を出ると、居間に彼の後頭部が見える。
しかも、落ち着きのない彼にしては珍しく微動だにしていない。
春樹はそっと近寄り、そして呆れた。
(珍しく静かだと思ったら……)
テレビを見ているのだ。はりつかんばかりに。
「大樹」
「うあ!?」
ぐいっと耳を引っ張ると、彼は奇妙な悲鳴を上げた。
耳を押さえてこちらを見てくる。
それは「いつの間に来たんだ!?」という眼差しだったが、春樹はあえて無視することにした。
そんなことにまで構っていられない。
「何だよ春兄?」
「僕、ちょっとコンビニに行ってくるから。留守番よろしく」
「コンビニ? 何で?」
「シャーペンの芯買いに」
「オレも行くっ!」
「……いや、別に来なくていいよ」
彼にコンビニへ行く理由があるようには思えない。
声の弾み具合から考えても、単に外に出たいか何となくついて行きたいだけだろう。
たかが近くのコンビニへ行くだけなのに、おまえは金魚のフンか。
「すぐ戻ってくるから」
「えぇ~。オレも行きた」
「あ、CM終わった」
「え!?」
彼の言葉を遮ると、彼は慌ててテレビへ向き直った。
たちまち見入ってしまう。もう今の会話すら覚えていないだろう。
その隙に春樹は出かけてしまうことにした。
上着を取り、静かに玄関へ向かう。
「……あ、もう少し離れて見ろよ」
効果がないとわかっていても、言わずにはいられない。
玄関を出た春樹は、少し迷って鍵も閉めていくことにした。
今の大樹なら、例え泥棒が入ってきても気づきはしないだろう。
あれだけテレビに集中出来るなら、少しでも勉強に生かしてほしいのだが。
そう考え、やっぱり無理な相談だろう、と諦める。
彼は机でじっとしているのを何よりも苦手とする人種だ。
宿題を見ただけで睡魔や頭痛に襲われそうな奴である。
考えるのが悲しくなってきた春樹は、足早に夕闇の中へと踏み出した。
◇ ◆ ◇
「いらっしゃいませー」
お馴染みの言葉が元気良く店内に響く。
それを何気なく耳にしながら、春樹はコンビニへ足を踏み入れた。
中は大して混んでいないようだ。ちらほらとしか客の姿が見えない。
春樹は真っ直ぐにお目当ての場所へ向かった。
このコンビニは家から近いのでよく来る。
どこに何があるか、そうそう迷うこともない。
春樹はシャーペンの芯を手に取ると、ふと周りを見回した。
(そういえばジュースも残り少なかったっけ……)
自分はそんなに飲まないのだが、ないと大樹がうるさい。
カゴを持ってジュースの棚へ移動する。
その種類の多さには相変わらず感心してしまった。
お茶やスポーツドリンク、それら一つだけでもたくさんの飲み物が溢れているのだ。
今の世の中、つくづく物が溢れていると思う。
春樹はその中から適当に一本、大き目のペットボトルを取り出した。
さらに隣の棚から、アイスも二個ほどカゴの中へ放り込む。
これで良し、とレジへ向かい――。
「春るーん」
元気一杯に響いた声に、春樹の身体はビクリ、と固まった。
この声は。いや、それ以前にこの呼び方は!?
「あ、やっぱり春るんだ! こんなとこで奇遇~」
「どうしたの、買い物?」
「……先輩……」
ニコニコと手を振ってくる三人の少女に、春樹は泣き笑いに似た笑みを浮かべた。
こんなところで、しかもあんな大声で「春るん」はやめてほしい。
他の客も何事かとこちらを見ている。
ちなみに彼女たちは、自分と同じ中学に通う二年生である。
「あ、春るんの私服って初めて見た!」
木村が今気づいたかのように声を上げ、春樹は少し戸惑った。
ショートカットの彼女は、見た目も中身も活発で元気がいい。
そのせいか声の大きさも三人の中で一番大きかった。
彼女が笑うたびに客の視線がちらちらと集まる。
「あれ? 春るんの家ってこの近くだっけ?」
「はい、一応……。先輩たちこそどうしたんですか?」
彼女たちの家はこの付近ではなかったはずだ。
そう思って尋ねると、一番後ろに立っていた森本が小さく手を上げた。
その際にキラリ、と眼鏡が微かな光を放つ。
――春樹はどうもあの眼鏡が苦手だ。
彼女も自分も悪いわけではないのだが、なぜか妙なプレッシャーを感じてしまう。
「私が欲しい本とかあって、買うのに付き合ってもらったのよ。その帰りに立ち寄ったの」
「本……ですか?」
確かに、森本の手にはそれらしきものが握られている。厚さからして二冊はあるだろう。
あっさり納得すると、今度は単純な興味が湧いた。
自分も読書は好きな方で、よく図書館へ出かけに行ったりもする。
なのでほんの少し詳しかったりするのだ。
森本は一体何の本を買ったのだろうか。
そんな春樹の気持ちを察したのか、キョロキョロと物色していた林が話に割って入ってきた。
関係ないが、普段ポニーテールの多い彼女が今日は髪を下ろしている。
「ダメよー春るん。本の中身とか訊いたりしちゃ」
「え?」
「ロクなもんじゃないんだから。知らない方が一日を平和に過ごせるって」
「……何よ、失礼ね」
「だってホントのことだし~」
「あなただって、この中身ちゃんと知らないでしょ。勝手なこと言わないで、一度くらい読んでみたら?」
「やーよ。私、宇宙人と会う趣味なんてないもん」
小突き合う二人に絶句する。全く話が見えないのだが。
「えー? 私ちらっと見たけど、『動物にコサックダンスを教える本』ってのを買ってなかった?」
「いえ? 誰かと間違えてるんじゃない?」
「ってゆーか、コサックダンスを教える意味なんてあるの? どうせならフラダンスとかさあ」
「私はてっきりサーカス団に売り飛ばすのかと」
「え、その前にテレビ出演しなきゃ!」
「……あのぅ……先輩?」
彼女たちから少し離れた位置で、おそるおそる声をかける。
木村まで加わった会話はますます意味がわからなかった。
春樹の頭ではついていけない。
「何か買うものがあるんじゃないんですか……?」
「え? あ、そうそう」
「飲み物が欲しくて」
あっさりうなずいた彼女たちは、これまた騒がしく飲み物を取りに行った。
これが新発売だの、これはおいしくないだの、とにかく話題が尽きない。
よくもまあ、あんなにポンポンと言葉が出てくるもんだ。
しばらく眺めていた春樹は、時間がかかりそうだと判断し、さっさとレジへ向かうことにした。
カゴをレジへおくと、さっきまで呆けたように木村たちを見ていた店員がキリッと顔を変える。何だかプロっぽい。
淡々と値段を言い渡され、その分のお金を余ることなく財布から取り出す。
レシートを受け取り、袋に入れられた品物もしっかり持った。
そこで木村たちを見てみたが、彼女たちはまだ飲み物でもめている。
(……いいよね、先に帰っても)
別に一緒に来たわけではないし、待っててと頼まれたわけでもない。
「ありがとうございましたー」
やっぱりお馴染みであるセリフを背に、春樹はコンビニを出た。
数歩離れたところでそっと振り向いてみると、春樹に気づいた彼女たちがぶんぶんと手を振っていた。
春樹はそれに苦笑し、小さく手を上げることで応える。
――「変質者には気をつけて帰るのよー」という甲高い声が聞こえてきたのは、きっと気のせいだろう。そうに違いない。
少し自分を誤魔化しつつも、春樹は気を取り直して元来た道を戻った。
今まで握ったままだった財布をポケットにしまいこむ。
そこで、ふとしたことが気になった。
(……お金、まだ大丈夫だったかな)
今、自分と大樹以外の家族はみんな倭鏡の方へ行ってしまっている。
多くのことが日本と共通する倭鏡だが、貨幣は異なっていた。
あちらでは「倭銅」と呼ばれる硬貨を用いるが、それは日本では使えないだろう。
よって、倭鏡では王族だろうがなんだろうが、こちらには働き手が一人としていないのだ。
お金は減り続ける一方である。
今はまだ、母の貯金でなんとかやっているが……。
(中学一年生ですでに家計を気にしてる自分って……)
情けない気分で苦笑した春樹は、以前に葉とこのことについて少し話したのを思い出した。
そのとき葉は、笑ってこう言ったものだ。
「いざとなったら倭鏡の金持ってって、それを売り飛ばせばいいだろ」と。
確かに倭鏡は日本より大分自然が溢れているし、その面で考えれば鉱山なども多い。
春樹と大樹の生活費のためぐらいなら、採っていっても別段文句を言われることもないだろう。
それに、葉はやると言ったらやる人だ。
本当にお金が尽きたときには、あっさり金塊を渡してくるに違いない。
だが。
(出来ればそれ、最終手段にしたいよなあ……)
金塊を売り飛ばす中学一年生というのも、何だかかなり嫌だ。
つらつら現実的なことを考えていた春樹は、公園の前を通り過ぎようとして足を止めた。
「…………?」
微かに音楽が聞こえるのは気のせいだろうか。
少し迷い、時計に目をやる。
家を出てから三十分も経っていないし、テレビもまだ終わっていないはずである。大樹は大丈夫だろう。
そう判断した春樹は、そっと公園の中へ入っていった。
音のする方を耳を澄ませて探り当てる。
歩むごとに音楽もはっきりしてきて――
(……うわ……っ)
目の前の光景に、春樹は小さく息を呑んだ。
ぼんやりとした月明かりの下で、身を躍らせる一人の少女。
軽快な音楽と共にステップを踏み、跳ね、回る。
そのたびに少女の黒髪が合わせて揺れた。
回るたびに垣間見せる、楽しそうな顔。生き生きと輝く瞳。
ふと曲の調子が変わり、そこで少女の身体もピタリと止まった。
「あー……やっぱここでタイミングが狂っちゃ……、っ!?」
「あ。あの」
ばっちり目が合い、二人は互いに固まった。
少女は春樹の存在にすら気づかなかっただろうし、春樹も気づかれるとは思わなかったのだ。
頃合を見てこっそり帰ろうと思っていたのに。
「もしかして、見て……?」
「うん……ごめん。音楽が聞こえてきたから気になって、それで」
バツが悪い思いで弁解しつつ、春樹は失礼にならない程度に少女を見た。
自分と同い年か、少し年下だろう。
パッと見た印象では、少し気が強そうだ。
見られていた。
それを知った少女が、すごい勢いで赤くなった。
「う……わ、恥ずかしい……っ! あ、あの! 忘れてください!」
「え……でも、すごく上手かったよ?」
「……本当ですか?」
ちらり、と少女が春樹を見上げる。
それは疑っているというより、照れ隠しに近いようだった。
「嘘じゃないよ。いつもここで踊ってるの?」
「あ、えと。私、ダンス教室に通ってて。それで……そのときに上手く出来なかったところとか、よくここで練習するんです。この時間帯だとあまり人もいないし、私の家も近いんで」
恥ずかしそうに説明する少女に、春樹は素直に感心してしまった。
自然と笑みが込み上げてくる。
「ダンス、好きなんだ?」
「はい! あ……でも、なかなか思うようにいかなくて。毎回先生に注意されちゃうんです。先生の言ってることはわかるんですけど、なのに出来なくて、……すごく悔しくて」
「…………」
春樹にもそんな経験はあった。
いや、今だってそれに近いものを抱えていたりする。
将来王の座を継ぐかもしれない、という問題が出てきてからは、そういったことが増えているのも認めなければならないだろう。
どうすればいいのかわからなくて、不安で、さらに奥へと迷って。
そしてそれは、――自信の喪失へとつながっていく。
本当ニコレデイイノカ、自分ニハ無理ナンジャナイカ、……ドウシヨウ……。
「……つらくなったりは、しないの?」
「え?」
「ダンス、やめたいとか……そう思うことはないの?」
気づいたときにはそう口にしていて、春樹はハッとした。
失礼なことを言っただろうか。
けれど、と思う。
彼女のように頑張るより、そうやって投げ出してしまった方が楽なのは間違いないのだ。
もちろん、それがいいことだとは思えないけれど。
春樹の言葉に、少女はしばらくポカンとしていた。
やがて、意味を飲み込めたのか苦笑が広がる。
「もちろんつらいときもありますよ。やめて、逃げたいって思うことも少しはあります。でも」
一度、言葉を切り。
少女は次に、困ったような笑顔を見せた。
「逃げて、それで満足出来るならそれでもいいのかもしれませんけど。私の性格じゃダメなんですよね。“負けた”って気がして、ずっと負い目として引きずっちゃいそうで。だから……勝ちたいんです、きちんと。真っ向勝負で」
そう言った少女の言葉は力強く、春樹を圧倒させた。
言っていることは、よくわかるような気がする。
「それに……」
「それに?」
「やっぱり楽しいんです、ダンス」
少女が照れくさそうに笑う。
その笑顔に、春樹は妙に納得してしまった。
「たまに先生に褒められると、すごく嬉しくなって。頑張って良かったって思えて。やめようと思っても、結局戻ってきちゃうんですよ。それで……そのたびに思うんです。あぁ、ここが私の居場所なんだなって」
――全く、大したものだ。
(最近の女の子はしっかりしてるな……)
嬉しそうに語る彼女に、春樹は苦笑するしかなかった。感嘆の声しか出ない。
(それにしてもこの子、どこかで見たような……?)
「あの……」
「――あぁ!?」
「な、……何? どうしたの?」
突然少女が大声を上げ、さすがに春樹もたじろいだ。
だがそんな彼にお構いなく、時計を見た少女がバタバタと荷物をまとめていく。
「もうこんな時間! ごめんなさい、ママが心配してるから……。あの、私結構この時間帯にいることも多いんで、その……また会えたらいいですね」
にこり、と少女が微笑んだ。
ペコリと頭を下げられ、春樹もつられて軽く下げる。
そのまま「それじゃ」と彼女が走り出し、春樹は慌てて声をかけた。
「あ……気をつけてね!」
「はいっ」
一度だけ少女が振り返り、今度こそ走り去ってしまう。
それを見送った春樹は何となく肩をすくめた。
それからふと買い物袋を目にし、ハッとする。
「――アイス!」
こんなことしてたら溶けてしまう!
袋をしっかり握り直すと、春樹は慌てて公園を飛び出した。