政略結婚の婚礼帖、「葉数えは無駄」と言われましたが、消された拒絶の一葉を見つけて伯爵令息に癖ごと求婚されました
「五枚、もう五枚。十五、二十——」
向かいの伯爵令息様が、今ので七回目のため息をついた。
端数が出た。できればあと三回お願いしたい。
「まだ数えるのか」
「まだ三十葉あります」
「そうではない。その私用帖は五十葉と指定した。写字係もそう記録している」
「写字係が五十葉と記録したことと、ここに五十葉あることは別のお話です」
八回目。
惜しい。あと二回。
私は羊皮紙の端を親指で弾き、一葉ずつ送った。写字室で裏打ちと綴じの下拵えを任されて以来、こうして全葉を五枚一区切りで声に出している。二葉一緒に指へ乗れば、数え声が先へ行かない。なかなか賢い私の指である。親方の算盤ほど速くはないのが玉に瑕だ。
「五枚、もう五枚」
「その葉数えは無駄だ」
九回目。
「伯爵令息様。あと一回、ため息をお願いします」
「なぜだ」
「十回で区切りがよろしいので」
伯爵令息様は、ため息を飲み込んだ。意地の悪いお客様である。代わりに右の眉だけが上がったので、眉一回として帳尻を合わせておこう。
今回の注文は、掌に収まる薄い予定帖だった。濃紺の革に銀鼠の糸。角飾りも留め金もない。伯爵家の嫡男が使うには簡素で、令嬢へ贈るには愛想がない。
ところが彼は、革より熱心に私の好みを尋ねた。
「おまえなら、糸は銀と青のどちらを選ぶ」
「使う方のお好みに合わせます」
「おまえの好みを聞いている」
「青です。銀は指の脂が目立ちますので」
「では青に」
聞き取りながら耳を赤くするほど、贈る相手は気難しいご令嬢なのだろう。気の毒に。いや、伯爵令息様が気の毒なのか、ご令嬢が気の毒なのかは保留。注文主の恋路まで裏打ちする工賃はいただいていない。
数え終えると、五十葉あった。
無駄な時間のおかげで、指定どおりである。
「明日の夕刻に仕上がります」
「私はここにいては邪魔か」
「はい」
十回目のため息が落ちた。
よし、きれいに綴じられた。
* * *
二度目の私用帖は、半月後に来た。
「五枚、もう五枚。二十五、三十——」
「まだやるのか。納期が延びるだけだ」
今回は三回目の咳を数えたところだった。前回の反省から、伯爵令息様はため息を減らしている。人は成長する。数え終わるまで帰らない点については、まったく成長していない。
注文品は詩を書き留めるための帖で、若草色の革が作業台に載っていた。
「この革をどう思う」
「春らしくてよろしいかと」
「好きか」
「好きです」
「では、これにする」
また耳が赤い。
このご令嬢、前回は濃紺を好み、今回は若草色を好むらしい。ずいぶん守備範囲が広い。いっそ全色見本を贈れば話が早いが、それでは写字室の売上にならないので黙っておいた。
「糸は」
「生成りが丈夫です」
「おまえは赤を使わないのか」
「赤は好きですが、若草色には騒がしすぎます」
「そうか。赤が好きなのか」
そこだけ二度確認した。注文帖には赤い糸を使わなかったくせに、彼は私の返事を小さな紙へ書き留めた。
細かいお客様だ。次も私へ任せるつもりなのだろう。
なんともありがたい。恋ではない。定期注文である。胸の内側が一枚だけ余計に鳴った気がしたが、身体はたまに数を間違える。
親方が奥から顔を出した。
「ツヴェタ、日暮れまでに綴じ台を空けろ。葉っぱ一枚に挨拶していたら工賃が逃げるぞ」
「一枚ずつ挨拶はしていません。五枚ずつです」
「悪化している!」
伯爵令息様の肩が揺れた。
笑ったな。
私の葉数えは無駄でも、見世物としては料金を取れるらしい。次の注文では観覧料を上乗せしよう。
「仕上がりは三日後です」
「その日は来られない」
「では四日後に」
「……五日後なら来られる」
「承知しました」
なぜ受け取りを一日遅らせるのか。伯爵家の使いを寄越せば済むのに、変わったお客様である。
五日後、伯爵令息様は自分で来た。
私は来訪日を数えてなどいない。
数えていないとも。
* * *
三度目は、扉が壁へぶつかる音から始まった。
どん、と一回。エフティヒアの靴音が五つ、もう五つ、作業台まで十二。端数の二歩は、彼女が抱えていた羊皮紙の束を置く音に潰された。
「夜明けまでに、婚礼帖へ仕立ててください」
必要なことだけを急いで告げた彼女の息は、必要以上に乱れていた。
私は束を押さえた。裏打ち前の羊皮紙は湿り気を残し、指へ冷たく吸いついた。写字は済んでいる。綴じ穴も開けられていたが、表紙も糸もない。
「夜明けまで?」
奥から出てきた親方が算盤を抱え直した。目が工賃の形になる。非常によい職人の目である。
「婚礼は朝の鐘と同時です。間に合わせていただければ、工賃は倍に」
「やる!」
「親方、まだ葉数を——」
「婚礼帖だぞ。写字済み、穴開け済み、三十五葉。表紙をつけて綴じれば終わりだ。おまえの五枚教は今夜だけ休め」
宗教にされた。信徒は私一人である。
エフティヒアは背後の扉を閉めた。掛け金まで下ろし、こちらへ戻ってくる。
「数えてください」
「え?」
「数え直してください。何度でも」
親方の工賃の目が、急に細くなった。
「何かあるのか」
「わたしからは申し上げられません」
エフティヒアはそれきり唇を結んだ。親方が問いを重ねても、首を振るばかりだった。
ならば、手を動かす。
「五枚、もう五枚」
羊皮紙を送り始める。
五、十、十五。表面には婚礼の誓約と参列者の名が整った筆で記され、余白には蔓草が描かれている。二十、二十五。花嫁のアウステーヤご令嬢と、婚約者アルギルダスの名。三十。
三十一、三十二、三十三、三十四。
終わった。
私は束を裏返した。
「五枚、もう五枚」
もう一度。
三十四。
「足りないのか」
親方が私の肩越しに覗き込む。
「綴じ穴は三十五葉ぶんあります」
穴の位置は揃っている。一葉に二つずつ。最初の葉から順に穴へ細い針を通すと、最後に二穴が余った。
だが、数は三十四。
束を両手で挟む。厚みは、前に扱った三十五葉の記録帖と同じだった。手秤は親方の算盤より信用されないが、私の指は毎日羊皮紙の厚みを食べて暮らしている。比喩である。さすがに食べない。工賃が安くても、紙を食べるほどではない。
「湿っているせいじゃないのか」
親方の声が低くなる。
「それなら厚くなります。でも、穴は三十五葉ぶんです」
「数え違いだ」
扉の外から声がした。
掛け金が押される。エフティヒアの肩が跳ね、彼女は急いで外した。
入ってきた伯爵令息様は礼装姿だった。白い上着の襟元まできちんと留め、髪には夜気の粒がついている。その後ろには、同じく礼装を整えたアルギルダスがいた。
「妹の式に間に合わせろと命じたはずだ」
「そのために数えています」
「三十五葉だ。記録にもある」
「今ここにあるのは三十四葉です」
「なら、写字係が記録を誤ったのだろう。綴じろ」
伯爵令息様は作業台を指先で二度叩いた。急ぐと二回。これは前の注文でも同じだった。私の数え声が終わるまで椅子には座るが、待つのが得意になったわけではない。
「厚みは三十五葉ぶんあります」
「ツヴェタ」
三度目。
「夜明けまでに必要だ」
その言い方をされると、胸の余計な一枚が動く。
実に腹立たしい。私の身体は注文主の低い声に弱いらしい。耳には栓をしても指は動くので、次から栓をしよう。
私は三たび束を取った。
「一、二、三——」
今度は五枚に区切らず、一葉ずつ表面を撫でた。十二葉目で指が止まる。
冷たい。
ほかの葉も湿ってはいる。けれど十二葉目だけ、端が重い。爪を立てず、指の腹を滑らせる。羊皮紙の表と裏の境に、ごく細い段差があった。
一枚の顔をしている。
二枚ぶんの厚みで。
「ここです」
エフティヒアが息を吸った。一回。伯爵令息様が瞬いた。二回。アルギルダスだけは動かなかった。
動かない人は数えにくい。だから、よく見える。
私は十二葉目を作業台へ置いた。水差しへ指先を浸し、端へ一滴ずつ落とす。
「何をしている」
伯爵令息様の手が伸びた。
「剥がします」
「破損すれば婚礼帖にならない」
「剥がさなければ、三十五葉かどうか確かめられません」
「工賃が惜しければ余計な葉を剥がすな」
アルギルダスの声は、伯爵令息様へ向けたときより半音低かった。私へなら命令で済むと思っている声だ。職人は便利である。失敗すれば腕のせい、黙れば同意、働けば納期どおり。
親方が私の手元と算盤を見比べた。工賃、次の注文、写字室の信用。彼の目の中で数字が三列ほど走る。
「ツヴェタ。破ったら、うちじゃ払えんぞ」
「はい」
「おまえの取り分もない」
「はい」
「次の仕事も来なくなる」
伯爵令息様の指が止まった。
来なくなる。
その言葉だけ、胸の内側へ貼りついた。濡らしても簡単には剥がれそうにない。
私は薄い剥離刀を取った。
「三十四。もう一度数えても三十四。けれど厚みは三十五葉ぶんあります」
刀の丸い背を差し込む。
「伯爵令息様、夜明けの納品は諦めてください。ここに、誰かが黙らせた一葉があります」
「待て」
前なら、その一言で急がされた。
今は違った。
伯爵令息様はアルギルダスの腕を押さえた。私の手ではない。
「ツヴェタ。続けろ」
剥離刀を一寸進める。
ぺり、と乾いた皮が裂けかけた。息が五つ止まった気がした。私の分、親方、エフティヒア、伯爵令息様——四つ。アルギルダスの分は知らない。数える価値がない。
湿りを足す。急げば文字を削る。婚礼の鐘まで時間はない。それでも一葉は一葉だ。半分だけ人の都合で薄くなることはない。
「五枚、もう五枚」
数える束はないのに、口から出た。
一刃、もう一刃。端を持ち上げ、貼りついた面へ水を送る。ぺり。ぺりり。
下から、濃いインクの線が現れた。
エフティヒアが口元を押さえた。
「ご令嬢の筆跡ですか」
彼女は一度うなずき、すぐ首を振った。
「わたしが決めてはいけません。ご本人に」
正しい。
筆跡が似ている。拒絶らしい文がある。貼り隠されていた。それで私たちが、ご令嬢の人生を勝手に読み上げてはならない。数が示したのは、誰かが一葉を消したことだけだ。
最後の一寸を剥がす。
ぱりん、と糊の膜が割れた。
現れた一葉には、短い文が三行あった。
私は読まなかった。見えた最初の数文字で閉じ、胸へ抱える。
「本人へ聞きます」
「式場へ持ち込む気か」
伯爵令息様が出口を塞いだ。
「はい」
「婚礼を止めれば、伯爵家の面目に関わる」
「綴じれば、ご令嬢の一生に関わります」
伯爵令息様が一度、目を閉じた。
一、二、三、四、五。
五つ数え終わるまで、彼は私を急かさなかった。
目を開ける。
「行け」
私は走った。
写字室の戸口で裾を踏み、一回つまずいた。廊下の角で肩をぶつけ、二回。階段を下りる靴音は五つ、もう五つ、もう五つ。数えていないと息がばらばらになる。腕の中の一葉だけは折らないよう抱え込む。
後ろから伯爵令息様とエフティヒアが追ってくる。アルギルダスの足音もあった。親方まで算盤を抱えて来た。なぜ算盤。武器にするには角が丸い。
外では朝の色が屋根の端へにじんでいた。
婚礼の鐘が、最初の一打を鳴らす。
二打目。
三打目。
開いた扉の先、卓の前に、アウステーヤご令嬢がいた。白い衣装に包まれ、両手を重ねたまま兄を見ても足が動かない。
「鐘を止めろ!」
伯爵令息様の声が飛んだ。
四打目の途中で、鐘が途切れた。
鳴りきれなかった金属音が朝の空へ転がり、婚礼の間にいた人々が一斉に振り返る。瞬き五つどころではない。これはもう数えなくていい。大口注文すぎる。隣の空席にはアルギルダスの指輪が置かれ、もう一つはご令嬢の指にはめられていた。
「アウステーヤ」
伯爵令息様が呼ぶ。
ご令嬢の唇が開いた。
「お兄様、わたしは——」
「式を遅らせるほどのことではありません」
追いついたアルギルダスが、彼女の前へ出た。私には命令形だった口が、人前では丁寧な形へ戻っている。ずいぶん器用だ。二葉を一葉に貼るより簡単らしい。
私は卓へ一葉を広げた。
「この葉を書いたのは、ご令嬢ですか」
「職人が婚礼の場で発言するな」
アルギルダスが一葉へ手を伸ばす。
伯爵令息様がその手首をつかんだ。
「妹に答えさせろ」
アウステーヤご令嬢は、紙を見つめた。指先が衣装の上で三度滑る。エフティヒアが一歩だけ隣へ寄った。
私は一葉を差し出す。
ご令嬢は両手で受け取り、胸へ抱いた。
「書いたのは私です」
声は小さかったが、途切れなかった。
彼女は指から輪を抜いた。金属が卓へ触れる。かちり。一回だけで、鐘よりよく響いた。
「私はこの婚礼を望みません」
アルギルダスの口が動いた。
音は出ない。
紙に書かれた拒絶を剥がせても、本人の口から出た声は貼り戻せない。ざまあみろ、と私の中の行儀の悪い職人が剥離刀を振った。実際には振らない。工房道具は人へ向けない。
「話し合ったはずだ」
ようやく出た声とともに、アルギルダスが一葉を奪おうとした。
アウステーヤご令嬢は、その手を払った。
乾いた音がした。
そして一葉を抱いたまま、兄の側へ歩いた。
伯爵令息様は妹へ上着を掛け、エフティヒアにうなずいた。
「連れて帰る。鐘は鳴らすな。式は中止だ」
その場の誰も、もう指輪を拾わなかった。
アウステーヤご令嬢はエフティヒアと兄に伴われて戸口へ向かった。アルギルダスが一歩追いかけたが、伯爵令息様が間へ立つと止まった。彼は妹を戸口の外まで送り、エフティヒアへ託してから戻った。命令形も、整えた礼儀も、今度はどちらも出てこない。
私は散らばった婚礼帖を見た。
走る途中で束が緩み、羊皮紙は床から卓の脚まで広がっている。ああ。三十五葉。泥のついたものが二葉、踏まれかけが一葉。救った声は尊いが、私の仕事は増えた。現実はいつも工賃を請求してくる。
親方が算盤の珠へ指を置いた。
夜通しの工賃。失った特急料金。使えなくなった表紙革。彼は弾き始めようとして、戸口のアウステーヤご令嬢を見た。
算盤を伏せた。
「……数えるのは、あとでいい」
親方にしては、ずいぶん大きな損を飲み込んだ。
伯爵令息様が膝をついた。
白い礼装の膝が床の埃に触れる。彼は一葉ずつ拾い、角を揃えて作業台代わりの卓へ置いた。
「伯爵令息様、汚れます」
「もう汚れた」
「礼装が」
「妹の婚礼は中止だ。礼装でいる理由もない」
拾った葉を五枚並べる。
次の五枚を、その隣へ。
彼は参列者たちの前で顔を上げた。
「葉数えを無駄だと言ったのは私だ」
私の指が止まる。
「納期が延びるだけだとも言った。間違っていた。妹を救ったのも、その葉数えだ」
謝罪の言葉より、彼の膝についた埃が目に入った。
この人は数え終わる前に、いつも作業台を二度叩いた。
今は一葉ずつ拾っている。
五枚揃うまで、次へ行かない。
* * *
婚礼の間から人が減っても、伯爵令息様は作業台の前に残った。
親方は傷んだ羊皮紙を写字室へ運んだ。エフティヒアはアウステーヤご令嬢から預かった一葉を私へ戻し、再びご令嬢に付き添っている。アルギルダスがどこへ行ったかは知らない。今後も数える予定はない。
私は返された一葉を薄紙で挟み、重しの下へ置いた。
伯爵令息様は、拾った葉を五枚ずつ並べている。
「伯爵令息様。それは私がいたします」
「おまえは剥がした葉を見ていろ。乾くまで反るのだろう」
「よくご存じで」
「二度、ここで見た」
三度目は自分でやっている。
彼の並べ方は遅かった。一葉ごとに表裏を確かめ、角を合わせ、五枚になったら私を見る。
続きを置いてよいか、待っている。
「二つ、伺ってもよろしいですか」
「いくつでも」
「では五つ」
「二つではなかったのか」
「緊張すると増えます」
伯爵令息様が笑いかけ、すぐ口元を引き締めた。
私も数を逃げ道にするのをやめた。
「前の二冊は、どなたへ贈られたのですか」
「誰にも」
「濃紺の予定帖は」
「私の部屋にある。一行も書いていない」
「若草色の詩帖は」
「同じ棚だ。詩は一篇もない」
無駄だ。
この人こそ、葉数えを無駄と言える立場ではない。百葉近い羊皮紙を、空白のまま棚へ飼っている。
「では、なぜ注文を」
「おまえに会うためだ」
答えが短すぎて、聞き違えた。
今のは何葉目だ。質問一、回答一。いや、会うため、という言葉だけ数え直したい。耳が熱い。伯爵令息様の耳ではなく、私の耳が。非常事態。
「写字室へ来るには、注文が必要だと思った」
「見学でも入れます」
「親方に追い出された」
「作業の邪魔をなさったのでは」
「おまえが数え終わる前に話しかけた」
「それは追い出されます」
伯爵令息様は苦い顔で六枚目を置き、私に見られて一枚戻した。
「五枚までです」
「知っている」
「今、六枚でした」
「……おまえに見られていると、指が乱れる」
そんなことを、こちらを見ずに言う。耳だけが赤い。
前の二度と同じ色だった。
「糸や革の好みを尋ねたのは」
「おまえの好きなものを知りたかった」
「贈り物を相談していたのでは」
「誰への」
「どこかのご令嬢へ」
彼は顔を上げた。
瞬き一、二、三、四、五。
きれいに一区切りしてから、両手で顔を覆った。
「私は、おまえに伝わっているつもりだった」
「何がです」
「求愛が」
「一葉にも書いてありませんでした」
「言った」
「『この革をどう思う』と」
「好きかとも聞いた」
「革を」
「おまえの好みを!」
珍しく声が裏返った。私は思わず身を引き、彼はさらに耳を赤くした。
「好みを尋ね、同じ色で品を作らせ、受け取りに何度も自分で来た」
「慎重なお客様だと」
「五日後なら来られると言った」
「お忙しいのだと」
「おまえの休日に合わせたんだ!」
私の休日。
五日ごとに、午後だけ作業を外れる。彼は知っていた。二冊目を受け取りに来た日は、ちょうど私が写字室へ戻る時刻だった。
胸の内側に貼りついていたものが、音もなく剥がれた。
「私も、一つ言い直さなくてはなりません」
「何を」
「伯爵令息様の来訪を数えてはいませんでした」
「そうか」
「嘘です」
彼が顔を上げる。
「最初の注文から、今日で十九回目です。使いの方だけだった日は除きます。扉の前を通って入らなかった二回も除きます」
「見ていたのか」
「数えていただけです」
「それを世間では、待っていたと言わないか」
「職人の在庫確認です」
「私は在庫か」
「注文の多い仕事相手です」
彼は一度、俯いた。
笑うと思ったのに、笑わなかった。
並べた五枚の端を、指先で揃える。その手が止まったまま、私の返事を待っている。
「ツヴェタ」
初めて、注文を告げるときの声ではなく名を呼ばれた。
「私は今日、おまえの仕事に救われた。だが、それを理由におまえへ何かを支払うつもりはない。妹を救った褒美として、おまえを選ぶのでもない」
彼は立ち上がらなかった。
伯爵家の嫡男が、職人の私と同じ高さで膝をついている。けれど低くなって見せるだけなら、一呼吸でできる。彼が変えたのは高さではない。
待つことだった。
「私は、融通の利かない職人だぞ、とおまえに腹を立てていた。数え終わるまで次へ進まない。納期より一葉を優先する。言っても曲げない」
そのとおりなので、反論はない。
「今日、分かった。その一葉の向こうにいる人間を、おまえは曲げないんだ」
軽口が、そこだけ出てこなかった。
彼の指には、羊皮紙の粉がついていた。白い礼装の膝は汚れ、爪の脇には剥がれた糊が残っている。私が数え終わる前に作業台を叩いていた人が、拾った葉を五枚に揃え、次の一枚を持ったまま止まっている。
「仕事が必要なのではない」
彼は次の葉を置かず、私を見た。
「その葉数えをする君と暮らしたい」
変形も飾りもない言葉が、まっすぐ届いた。
「写字室を辞めろとは言わない。仕事が遅いことも、葉を数えることも変えなくていい。私が急ぐ癖は、すぐには直らないかもしれない。だが、数え終わるまで待つ。必要なら私も並べる」
彼は手の中の一葉を作業台へ戻した。
「選ぶのは君だ。私の身分でも、今日の礼でもなく、私を見て決めてほしい」
今度こそ、私の返事を急かさない。
一回、二回、三回。
胸の音が五つを越える。
数えれば、いつもの私へ戻れる。けれど今だけは、戻らなくてもいい。
「今のは、新しい婚礼帖のご注文ですか」
「違う。私自身の求婚だ」
「では聞き違い防止に、もう一度お願いします。今度は五つに区切らず聞きます」
彼は息を吸った。
「ツヴェタ。私と結婚してほしい。君の仕事も、数える声も、その融通の利かなさも、私の暮らしへ迎えたい。君が望むなら」
私は最後まで聞いた。
一つにも、五つにも区切らず。
「イオルワース様」
呼び方を変えると、彼の肩が小さく跳ねた。
「はい。私はあなたを選びます」
彼が立ち上がりかける。
「ただし」
ぴたりと止まった。
待てるようになった。よろしい。
「作業中に六枚目を置いたら、戻していただきます。納期を急かした場合は観覧料を取ります。私用帖を空白のまま棚へ置くのも、羊皮紙がもったいないので禁止です」
「注文が多いな」
「嫌でしたら、今のうちに」
「その注文の多い仕事相手と暮らしたい」
やっと彼が笑った。
私も作業台の向かいへ座る。
散った葉はまだ三十五葉。身分差はそのまま。納期も遅れた。親方にはあとで工賃を交渉しなくてはならず、伯爵家との話はおそらく五枚では片づかない。
それでも、隣から一葉が差し出された。
私は受け取り、彼の五枚へ重ねる。
「五枚、もう五枚」
今度は、二人の声が同時に数えた。




