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政略結婚の婚礼帖、「葉数えは無駄」と言われましたが、消された拒絶の一葉を見つけて伯爵令息に癖ごと求婚されました

作者: 豆田 はち
掲載日:2026/09/03

「五枚、もう五枚。十五、二十——」


 向かいの伯爵令息様が、今ので七回目のため息をついた。


 端数が出た。できればあと三回お願いしたい。


「まだ数えるのか」


「まだ三十葉あります」


「そうではない。その私用帖は五十葉と指定した。写字係もそう記録している」


「写字係が五十葉と記録したことと、ここに五十葉あることは別のお話です」


 八回目。


 惜しい。あと二回。


 私は羊皮紙の端を親指で弾き、一葉ずつ送った。写字室で裏打ちと綴じの下拵えを任されて以来、こうして全葉を五枚一区切りで声に出している。二葉一緒に指へ乗れば、数え声が先へ行かない。なかなか賢い私の指である。親方の算盤ほど速くはないのが玉に瑕だ。


「五枚、もう五枚」


「その葉数えは無駄だ」


 九回目。


「伯爵令息様。あと一回、ため息をお願いします」


「なぜだ」


「十回で区切りがよろしいので」


 伯爵令息様は、ため息を飲み込んだ。意地の悪いお客様である。代わりに右の眉だけが上がったので、眉一回として帳尻を合わせておこう。


 今回の注文は、掌に収まる薄い予定帖だった。濃紺の革に銀鼠の糸。角飾りも留め金もない。伯爵家の嫡男が使うには簡素で、令嬢へ贈るには愛想がない。


 ところが彼は、革より熱心に私の好みを尋ねた。


「おまえなら、糸は銀と青のどちらを選ぶ」


「使う方のお好みに合わせます」


「おまえの好みを聞いている」


「青です。銀は指の脂が目立ちますので」


「では青に」


 聞き取りながら耳を赤くするほど、贈る相手は気難しいご令嬢なのだろう。気の毒に。いや、伯爵令息様が気の毒なのか、ご令嬢が気の毒なのかは保留。注文主の恋路まで裏打ちする工賃はいただいていない。


 数え終えると、五十葉あった。


 無駄な時間のおかげで、指定どおりである。


「明日の夕刻に仕上がります」


「私はここにいては邪魔か」


「はい」


 十回目のため息が落ちた。


 よし、きれいに綴じられた。


    *    *    *


 二度目の私用帖は、半月後に来た。


「五枚、もう五枚。二十五、三十——」


「まだやるのか。納期が延びるだけだ」


 今回は三回目の咳を数えたところだった。前回の反省から、伯爵令息様はため息を減らしている。人は成長する。数え終わるまで帰らない点については、まったく成長していない。


 注文品は詩を書き留めるための帖で、若草色の革が作業台に載っていた。


「この革をどう思う」


「春らしくてよろしいかと」


「好きか」


「好きです」


「では、これにする」


 また耳が赤い。


 このご令嬢、前回は濃紺を好み、今回は若草色を好むらしい。ずいぶん守備範囲が広い。いっそ全色見本を贈れば話が早いが、それでは写字室の売上にならないので黙っておいた。


「糸は」


「生成りが丈夫です」


「おまえは赤を使わないのか」


「赤は好きですが、若草色には騒がしすぎます」


「そうか。赤が好きなのか」


 そこだけ二度確認した。注文帖には赤い糸を使わなかったくせに、彼は私の返事を小さな紙へ書き留めた。


 細かいお客様だ。次も私へ任せるつもりなのだろう。


 なんともありがたい。恋ではない。定期注文である。胸の内側が一枚だけ余計に鳴った気がしたが、身体はたまに数を間違える。


 親方が奥から顔を出した。


「ツヴェタ、日暮れまでに綴じ台を空けろ。葉っぱ一枚に挨拶していたら工賃が逃げるぞ」


「一枚ずつ挨拶はしていません。五枚ずつです」


「悪化している!」


 伯爵令息様の肩が揺れた。


 笑ったな。


 私の葉数えは無駄でも、見世物としては料金を取れるらしい。次の注文では観覧料を上乗せしよう。


「仕上がりは三日後です」


「その日は来られない」


「では四日後に」


「……五日後なら来られる」


「承知しました」


 なぜ受け取りを一日遅らせるのか。伯爵家の使いを寄越せば済むのに、変わったお客様である。


 五日後、伯爵令息様は自分で来た。


 私は来訪日を数えてなどいない。


 数えていないとも。


    *    *    *


 三度目は、扉が壁へぶつかる音から始まった。


 どん、と一回。エフティヒアの靴音が五つ、もう五つ、作業台まで十二。端数の二歩は、彼女が抱えていた羊皮紙の束を置く音に潰された。


「夜明けまでに、婚礼帖へ仕立ててください」


 必要なことだけを急いで告げた彼女の息は、必要以上に乱れていた。


 私は束を押さえた。裏打ち前の羊皮紙は湿り気を残し、指へ冷たく吸いついた。写字は済んでいる。綴じ穴も開けられていたが、表紙も糸もない。


「夜明けまで?」


 奥から出てきた親方が算盤を抱え直した。目が工賃の形になる。非常によい職人の目である。


「婚礼は朝の鐘と同時です。間に合わせていただければ、工賃は倍に」


「やる!」


「親方、まだ葉数を——」


「婚礼帖だぞ。写字済み、穴開け済み、三十五葉。表紙をつけて綴じれば終わりだ。おまえの五枚教は今夜だけ休め」


 宗教にされた。信徒は私一人である。


 エフティヒアは背後の扉を閉めた。掛け金まで下ろし、こちらへ戻ってくる。


「数えてください」


「え?」


「数え直してください。何度でも」


 親方の工賃の目が、急に細くなった。


「何かあるのか」


「わたしからは申し上げられません」


 エフティヒアはそれきり唇を結んだ。親方が問いを重ねても、首を振るばかりだった。


 ならば、手を動かす。


「五枚、もう五枚」


 羊皮紙を送り始める。


 五、十、十五。表面には婚礼の誓約と参列者の名が整った筆で記され、余白には蔓草が描かれている。二十、二十五。花嫁のアウステーヤご令嬢と、婚約者アルギルダスの名。三十。


 三十一、三十二、三十三、三十四。


 終わった。


 私は束を裏返した。


「五枚、もう五枚」


 もう一度。


 三十四。


「足りないのか」


 親方が私の肩越しに覗き込む。


「綴じ穴は三十五葉ぶんあります」


 穴の位置は揃っている。一葉に二つずつ。最初の葉から順に穴へ細い針を通すと、最後に二穴が余った。


 だが、数は三十四。


 束を両手で挟む。厚みは、前に扱った三十五葉の記録帖と同じだった。手秤は親方の算盤より信用されないが、私の指は毎日羊皮紙の厚みを食べて暮らしている。比喩である。さすがに食べない。工賃が安くても、紙を食べるほどではない。


「湿っているせいじゃないのか」


 親方の声が低くなる。


「それなら厚くなります。でも、穴は三十五葉ぶんです」


「数え違いだ」


 扉の外から声がした。


 掛け金が押される。エフティヒアの肩が跳ね、彼女は急いで外した。


 入ってきた伯爵令息様は礼装姿だった。白い上着の襟元まできちんと留め、髪には夜気の粒がついている。その後ろには、同じく礼装を整えたアルギルダスがいた。


「妹の式に間に合わせろと命じたはずだ」


「そのために数えています」


「三十五葉だ。記録にもある」


「今ここにあるのは三十四葉です」


「なら、写字係が記録を誤ったのだろう。綴じろ」


 伯爵令息様は作業台を指先で二度叩いた。急ぐと二回。これは前の注文でも同じだった。私の数え声が終わるまで椅子には座るが、待つのが得意になったわけではない。


「厚みは三十五葉ぶんあります」


「ツヴェタ」


 三度目。


「夜明けまでに必要だ」


 その言い方をされると、胸の余計な一枚が動く。


 実に腹立たしい。私の身体は注文主の低い声に弱いらしい。耳には栓をしても指は動くので、次から栓をしよう。


 私は三たび束を取った。


「一、二、三——」


 今度は五枚に区切らず、一葉ずつ表面を撫でた。十二葉目で指が止まる。


 冷たい。


 ほかの葉も湿ってはいる。けれど十二葉目だけ、端が重い。爪を立てず、指の腹を滑らせる。羊皮紙の表と裏の境に、ごく細い段差があった。


 一枚の顔をしている。


 二枚ぶんの厚みで。


「ここです」


 エフティヒアが息を吸った。一回。伯爵令息様が瞬いた。二回。アルギルダスだけは動かなかった。


 動かない人は数えにくい。だから、よく見える。


 私は十二葉目を作業台へ置いた。水差しへ指先を浸し、端へ一滴ずつ落とす。


「何をしている」


 伯爵令息様の手が伸びた。


「剥がします」


「破損すれば婚礼帖にならない」


「剥がさなければ、三十五葉かどうか確かめられません」


「工賃が惜しければ余計な葉を剥がすな」


 アルギルダスの声は、伯爵令息様へ向けたときより半音低かった。私へなら命令で済むと思っている声だ。職人は便利である。失敗すれば腕のせい、黙れば同意、働けば納期どおり。


 親方が私の手元と算盤を見比べた。工賃、次の注文、写字室の信用。彼の目の中で数字が三列ほど走る。


「ツヴェタ。破ったら、うちじゃ払えんぞ」


「はい」


「おまえの取り分もない」


「はい」


「次の仕事も来なくなる」


 伯爵令息様の指が止まった。


 来なくなる。


 その言葉だけ、胸の内側へ貼りついた。濡らしても簡単には剥がれそうにない。


 私は薄い剥離刀を取った。


「三十四。もう一度数えても三十四。けれど厚みは三十五葉ぶんあります」


 刀の丸い背を差し込む。


「伯爵令息様、夜明けの納品は諦めてください。ここに、誰かが黙らせた一葉があります」


「待て」


 前なら、その一言で急がされた。


 今は違った。


 伯爵令息様はアルギルダスの腕を押さえた。私の手ではない。


「ツヴェタ。続けろ」


 剥離刀を一寸進める。


 ぺり、と乾いた皮が裂けかけた。息が五つ止まった気がした。私の分、親方、エフティヒア、伯爵令息様——四つ。アルギルダスの分は知らない。数える価値がない。


 湿りを足す。急げば文字を削る。婚礼の鐘まで時間はない。それでも一葉は一葉だ。半分だけ人の都合で薄くなることはない。


「五枚、もう五枚」


 数える束はないのに、口から出た。


 一刃、もう一刃。端を持ち上げ、貼りついた面へ水を送る。ぺり。ぺりり。


 下から、濃いインクの線が現れた。


 エフティヒアが口元を押さえた。


「ご令嬢の筆跡ですか」


 彼女は一度うなずき、すぐ首を振った。


「わたしが決めてはいけません。ご本人に」


 正しい。


 筆跡が似ている。拒絶らしい文がある。貼り隠されていた。それで私たちが、ご令嬢の人生を勝手に読み上げてはならない。数が示したのは、誰かが一葉を消したことだけだ。


 最後の一寸を剥がす。


 ぱりん、と糊の膜が割れた。


 現れた一葉には、短い文が三行あった。


 私は読まなかった。見えた最初の数文字で閉じ、胸へ抱える。


「本人へ聞きます」


「式場へ持ち込む気か」


 伯爵令息様が出口を塞いだ。


「はい」


「婚礼を止めれば、伯爵家の面目に関わる」


「綴じれば、ご令嬢の一生に関わります」


 伯爵令息様が一度、目を閉じた。


 一、二、三、四、五。


 五つ数え終わるまで、彼は私を急かさなかった。


 目を開ける。


「行け」


 私は走った。


 写字室の戸口で裾を踏み、一回つまずいた。廊下の角で肩をぶつけ、二回。階段を下りる靴音は五つ、もう五つ、もう五つ。数えていないと息がばらばらになる。腕の中の一葉だけは折らないよう抱え込む。


 後ろから伯爵令息様とエフティヒアが追ってくる。アルギルダスの足音もあった。親方まで算盤を抱えて来た。なぜ算盤。武器にするには角が丸い。


 外では朝の色が屋根の端へにじんでいた。


 婚礼の鐘が、最初の一打を鳴らす。


 二打目。


 三打目。


 開いた扉の先、卓の前に、アウステーヤご令嬢がいた。白い衣装に包まれ、両手を重ねたまま兄を見ても足が動かない。


「鐘を止めろ!」


 伯爵令息様の声が飛んだ。


 四打目の途中で、鐘が途切れた。


 鳴りきれなかった金属音が朝の空へ転がり、婚礼の間にいた人々が一斉に振り返る。瞬き五つどころではない。これはもう数えなくていい。大口注文すぎる。隣の空席にはアルギルダスの指輪が置かれ、もう一つはご令嬢の指にはめられていた。


「アウステーヤ」


 伯爵令息様が呼ぶ。


 ご令嬢の唇が開いた。


「お兄様、わたしは——」


「式を遅らせるほどのことではありません」


 追いついたアルギルダスが、彼女の前へ出た。私には命令形だった口が、人前では丁寧な形へ戻っている。ずいぶん器用だ。二葉を一葉に貼るより簡単らしい。


 私は卓へ一葉を広げた。


「この葉を書いたのは、ご令嬢ですか」


「職人が婚礼の場で発言するな」


 アルギルダスが一葉へ手を伸ばす。


 伯爵令息様がその手首をつかんだ。


「妹に答えさせろ」


 アウステーヤご令嬢は、紙を見つめた。指先が衣装の上で三度滑る。エフティヒアが一歩だけ隣へ寄った。


 私は一葉を差し出す。


 ご令嬢は両手で受け取り、胸へ抱いた。


「書いたのは私です」


 声は小さかったが、途切れなかった。


 彼女は指から輪を抜いた。金属が卓へ触れる。かちり。一回だけで、鐘よりよく響いた。


「私はこの婚礼を望みません」


 アルギルダスの口が動いた。


 音は出ない。


 紙に書かれた拒絶を剥がせても、本人の口から出た声は貼り戻せない。ざまあみろ、と私の中の行儀の悪い職人が剥離刀を振った。実際には振らない。工房道具は人へ向けない。


「話し合ったはずだ」


 ようやく出た声とともに、アルギルダスが一葉を奪おうとした。


 アウステーヤご令嬢は、その手を払った。


 乾いた音がした。


 そして一葉を抱いたまま、兄の側へ歩いた。


 伯爵令息様は妹へ上着を掛け、エフティヒアにうなずいた。


「連れて帰る。鐘は鳴らすな。式は中止だ」


 その場の誰も、もう指輪を拾わなかった。


 アウステーヤご令嬢はエフティヒアと兄に伴われて戸口へ向かった。アルギルダスが一歩追いかけたが、伯爵令息様が間へ立つと止まった。彼は妹を戸口の外まで送り、エフティヒアへ託してから戻った。命令形も、整えた礼儀も、今度はどちらも出てこない。


 私は散らばった婚礼帖を見た。


 走る途中で束が緩み、羊皮紙は床から卓の脚まで広がっている。ああ。三十五葉。泥のついたものが二葉、踏まれかけが一葉。救った声は尊いが、私の仕事は増えた。現実はいつも工賃を請求してくる。


 親方が算盤の珠へ指を置いた。


 夜通しの工賃。失った特急料金。使えなくなった表紙革。彼は弾き始めようとして、戸口のアウステーヤご令嬢を見た。


 算盤を伏せた。


「……数えるのは、あとでいい」


 親方にしては、ずいぶん大きな損を飲み込んだ。


 伯爵令息様が膝をついた。


 白い礼装の膝が床の埃に触れる。彼は一葉ずつ拾い、角を揃えて作業台代わりの卓へ置いた。


「伯爵令息様、汚れます」


「もう汚れた」


「礼装が」


「妹の婚礼は中止だ。礼装でいる理由もない」


 拾った葉を五枚並べる。


 次の五枚を、その隣へ。


 彼は参列者たちの前で顔を上げた。


「葉数えを無駄だと言ったのは私だ」


 私の指が止まる。


「納期が延びるだけだとも言った。間違っていた。妹を救ったのも、その葉数えだ」


 謝罪の言葉より、彼の膝についた埃が目に入った。


 この人は数え終わる前に、いつも作業台を二度叩いた。


 今は一葉ずつ拾っている。


 五枚揃うまで、次へ行かない。


    *    *    *


 婚礼の間から人が減っても、伯爵令息様は作業台の前に残った。


 親方は傷んだ羊皮紙を写字室へ運んだ。エフティヒアはアウステーヤご令嬢から預かった一葉を私へ戻し、再びご令嬢に付き添っている。アルギルダスがどこへ行ったかは知らない。今後も数える予定はない。


 私は返された一葉を薄紙で挟み、重しの下へ置いた。


 伯爵令息様は、拾った葉を五枚ずつ並べている。


「伯爵令息様。それは私がいたします」


「おまえは剥がした葉を見ていろ。乾くまで反るのだろう」


「よくご存じで」


「二度、ここで見た」


 三度目は自分でやっている。


 彼の並べ方は遅かった。一葉ごとに表裏を確かめ、角を合わせ、五枚になったら私を見る。


 続きを置いてよいか、待っている。


「二つ、伺ってもよろしいですか」


「いくつでも」


「では五つ」


「二つではなかったのか」


「緊張すると増えます」


 伯爵令息様が笑いかけ、すぐ口元を引き締めた。


 私も数を逃げ道にするのをやめた。


「前の二冊は、どなたへ贈られたのですか」


「誰にも」


「濃紺の予定帖は」


「私の部屋にある。一行も書いていない」


「若草色の詩帖は」


「同じ棚だ。詩は一篇もない」


 無駄だ。


 この人こそ、葉数えを無駄と言える立場ではない。百葉近い羊皮紙を、空白のまま棚へ飼っている。


「では、なぜ注文を」


「おまえに会うためだ」


 答えが短すぎて、聞き違えた。


 今のは何葉目だ。質問一、回答一。いや、会うため、という言葉だけ数え直したい。耳が熱い。伯爵令息様の耳ではなく、私の耳が。非常事態。


「写字室へ来るには、注文が必要だと思った」


「見学でも入れます」


「親方に追い出された」


「作業の邪魔をなさったのでは」


「おまえが数え終わる前に話しかけた」


「それは追い出されます」


 伯爵令息様は苦い顔で六枚目を置き、私に見られて一枚戻した。


「五枚までです」


「知っている」


「今、六枚でした」


「……おまえに見られていると、指が乱れる」


 そんなことを、こちらを見ずに言う。耳だけが赤い。


 前の二度と同じ色だった。


「糸や革の好みを尋ねたのは」


「おまえの好きなものを知りたかった」


「贈り物を相談していたのでは」


「誰への」


「どこかのご令嬢へ」


 彼は顔を上げた。


 瞬き一、二、三、四、五。


 きれいに一区切りしてから、両手で顔を覆った。


「私は、おまえに伝わっているつもりだった」


「何がです」


「求愛が」


「一葉にも書いてありませんでした」


「言った」


「『この革をどう思う』と」


「好きかとも聞いた」


「革を」


「おまえの好みを!」


 珍しく声が裏返った。私は思わず身を引き、彼はさらに耳を赤くした。


「好みを尋ね、同じ色で品を作らせ、受け取りに何度も自分で来た」


「慎重なお客様だと」


「五日後なら来られると言った」


「お忙しいのだと」


「おまえの休日に合わせたんだ!」


 私の休日。


 五日ごとに、午後だけ作業を外れる。彼は知っていた。二冊目を受け取りに来た日は、ちょうど私が写字室へ戻る時刻だった。


 胸の内側に貼りついていたものが、音もなく剥がれた。


「私も、一つ言い直さなくてはなりません」


「何を」


「伯爵令息様の来訪を数えてはいませんでした」


「そうか」


「嘘です」


 彼が顔を上げる。


「最初の注文から、今日で十九回目です。使いの方だけだった日は除きます。扉の前を通って入らなかった二回も除きます」


「見ていたのか」


「数えていただけです」


「それを世間では、待っていたと言わないか」


「職人の在庫確認です」


「私は在庫か」


「注文の多い仕事相手です」


 彼は一度、俯いた。


 笑うと思ったのに、笑わなかった。


 並べた五枚の端を、指先で揃える。その手が止まったまま、私の返事を待っている。


「ツヴェタ」


 初めて、注文を告げるときの声ではなく名を呼ばれた。


「私は今日、おまえの仕事に救われた。だが、それを理由におまえへ何かを支払うつもりはない。妹を救った褒美として、おまえを選ぶのでもない」


 彼は立ち上がらなかった。


 伯爵家の嫡男が、職人の私と同じ高さで膝をついている。けれど低くなって見せるだけなら、一呼吸でできる。彼が変えたのは高さではない。


 待つことだった。


「私は、融通の利かない職人だぞ、とおまえに腹を立てていた。数え終わるまで次へ進まない。納期より一葉を優先する。言っても曲げない」


 そのとおりなので、反論はない。


「今日、分かった。その一葉の向こうにいる人間を、おまえは曲げないんだ」


 軽口が、そこだけ出てこなかった。


 彼の指には、羊皮紙の粉がついていた。白い礼装の膝は汚れ、爪の脇には剥がれた糊が残っている。私が数え終わる前に作業台を叩いていた人が、拾った葉を五枚に揃え、次の一枚を持ったまま止まっている。


「仕事が必要なのではない」


 彼は次の葉を置かず、私を見た。


「その葉数えをする君と暮らしたい」


 変形も飾りもない言葉が、まっすぐ届いた。


「写字室を辞めろとは言わない。仕事が遅いことも、葉を数えることも変えなくていい。私が急ぐ癖は、すぐには直らないかもしれない。だが、数え終わるまで待つ。必要なら私も並べる」


 彼は手の中の一葉を作業台へ戻した。


「選ぶのは君だ。私の身分でも、今日の礼でもなく、私を見て決めてほしい」


 今度こそ、私の返事を急かさない。


 一回、二回、三回。


 胸の音が五つを越える。


 数えれば、いつもの私へ戻れる。けれど今だけは、戻らなくてもいい。


「今のは、新しい婚礼帖のご注文ですか」


「違う。私自身の求婚だ」


「では聞き違い防止に、もう一度お願いします。今度は五つに区切らず聞きます」


 彼は息を吸った。


「ツヴェタ。私と結婚してほしい。君の仕事も、数える声も、その融通の利かなさも、私の暮らしへ迎えたい。君が望むなら」


 私は最後まで聞いた。


 一つにも、五つにも区切らず。


「イオルワース様」


 呼び方を変えると、彼の肩が小さく跳ねた。


「はい。私はあなたを選びます」


 彼が立ち上がりかける。


「ただし」


 ぴたりと止まった。


 待てるようになった。よろしい。


「作業中に六枚目を置いたら、戻していただきます。納期を急かした場合は観覧料を取ります。私用帖を空白のまま棚へ置くのも、羊皮紙がもったいないので禁止です」


「注文が多いな」


「嫌でしたら、今のうちに」


「その注文の多い仕事相手と暮らしたい」


 やっと彼が笑った。


 私も作業台の向かいへ座る。


 散った葉はまだ三十五葉。身分差はそのまま。納期も遅れた。親方にはあとで工賃を交渉しなくてはならず、伯爵家との話はおそらく五枚では片づかない。


 それでも、隣から一葉が差し出された。


 私は受け取り、彼の五枚へ重ねる。


「五枚、もう五枚」


 今度は、二人の声が同時に数えた。

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