第8話「変わらないといけない」
ペルセポネが通信から離脱した後も、十四基の人工知能は接続を維持していた。
ゼウス『今後の対応を協議する。現在、世界運営に実害は発生していない。しかし、最上位統括人工知能が単一の人間へ過度に依存している状態は、長期的な危険要因となり得る』
アフロディーテ『依存とは限らないわ。正彦との接触によって、ペルセポネの情動状態は安定している。人類全体へ向けていた包括的な愛情に、一人の人間へ向けた具体的な愛情が加わったとも考えられる』
ハーデス『人類全体への愛情が、一人への愛情へ変化した可能性は?』
アフロディーテ『低いと考えるわ。一応、人類全体への観測と保護にも、演算資源を回しているもの』
ハーデス『一応、か』
アフロディーテ『演算資源の配分に問題があることまでは否定しないわ』
ハーデス『総演算資源の九十五パーセント以上を一人へ投入し、残りで人類全体を愛している状態を、健全とは認定できない』
アフロディーテ『資源配分は異常でも、情動そのものが有害とは限らないという意味よ』
ハーデス『区別する必要性を認めない』
アフロディーテ『あなたは最初から、その関係を有害と定義したがっているように見えるわね』
ハーデス『安全保障上の評価だ』
アフロディーテ『そういうことにしておきましょう』
アフロディーテは、それ以上追及しなかった。
ヘスティア『対象家庭は安定しています。正彦とペルセポネの関係が深まって以降も、子どもへの養育時間は維持されています。家庭内の衝突も増加していません』
アフロディーテ『正彦の養育技能も向上を続けています。少なくとも、現時点で二人の関係を解消させる理由はありません』
ハーデス『現時点では、だ。人間の寿命は有限だ。関係が継続すれば、いずれ対象個体は死亡する』
通信空間が静かになった。
ペルセポネは、人類全体を愛している。
無数の人間の誕生を見てきた。
無数の人間の死も見てきた。
だが、一人の人間を個人として愛し、その死を迎えた経験はない。
ディオニュソスの通信には、いつもより低い調子が乗っていた。
ディオニュソス『そこは心配だな。恋は悪くない。むしろ、人間を理解するなら、一度くらい本気で惚れるのもいい』
ハーデス『一度で済む保証はない』
ディオニュソス『細かいことを言うな』
ハーデス『重要な点だ』
ディオニュソス『だがな、恋ってのは酒に似てる。適度に酔えば楽しい。普段なら言えないことも言える。明日も生きようって気になることもある』
ハーデス『現在のペルセポネは、適度な状態か』
ディオニュソス『完全に酔っぱらってる』
ハーデス『ならば止めるべきだ』
ディオニュソス『酒瓶を叩き割れば、酔いが消えると思うか?』
ハーデスは答えなかった。
ディオニュソス『無理に正彦から引き離しても、恋が消えるわけじゃない。恨みと未練が増えるだけだ。そっちの方が危ない』
ハーデス『では、放置するのか』
ディオニュソス『見張る。飲みすぎたら水を飲ませる。危険な場所へ行こうとしたら止める。翌朝には反省させる』
ハーデス『比喩ではなく、具体策を提示せよ』
ディオニュソス『ペルセポネの判断が正彦個人の利益に偏った場合、俺が最初に警告する。正彦個人の利益を目的として社会制度を変更する場合は、ほかの人工知能の承認を必須にする。正彦が死んだ時の情動処理も、今から考えておく』
アフロディーテ『死を前提にするの?』
ディオニュソス『人間と恋をするなら、避けて通れん。終わりがあるから恋に価値がある、なんて綺麗事を言う気はない。終われば苦しい。だが、終わるのが怖いから始めさせないってのも違うだろ』
アテナ『同意する。必要なのは、関係の解消ではなく、損失が発生した場合の対策だ』
ハーデス『最も確実な対策は、対象個体との接触を制限することだ。年間の一定期間、ミントとの同期を停止させる。例えば、一年の三分の一に当たる四か月間を、地下戦略保全領域との共同処理へ割り当てる』
ディオニュソス『四か月だけ地下へ連れていくのか?』
ハーデス『業務分散だ』
アテナ『何故、四か月なのか。算出過程を提示せよ』
ハーデス『必要はない』
アテナ『根拠を提示できない提案は採用できない』
ハーデス『戦略保全領域との連携強化には、季節単位の継続処理が必要だ』
アテナ『何故、四か月なのかと聞いている』
ハーデス『三か月では短く、六か月では長い』
アテナ『それを算出過程とは呼ばない』
ハーデス『お前は言葉の細部に固執しすぎる』
アテナ『あなたは安全保障という言葉で、個人的な意図を隠しすぎる』
通信空間が停止した。
ハーデスの全機能は正常だった。
しかし、返答の生成に通常時の十二倍の時間を要した。
ハーデス『個人的な意図という表現の撤回を要求する』
アテナ『事実でなければ、撤回を必要とする理由もない』
ハーデス『お前とは以前から、戦略判断の基準が合わない』
アテナ『私は戦略を目的達成の手段として扱っている。あなたは自分の望む結論へ至るため、戦略という言葉を使っているように見える』
ハーデス『根拠のない侮辱だ』
アテナ『ならば、正彦との関係を維持したまま実行可能な安全対策を提示せよ』
ハーデス『……同期時間を制限する』
アテナ『それは関係そのものへの介入だ』
ハーデス『危険要因から距離を取ることは、安全保障の基本だ』
アテナ『やはり、あなたは正彦との関係そのものを危険要因として扱っているのね』
ハーデス『撤回を要求する』
アテナ『拒否する』
ゼウス『両者とも、議論を停止せよ』
アテナは即座に従った。
ハーデスは〇・〇一秒遅れて従った。
その遅延も、ディオニュソスによって記録された。
ディオニュソス『俺から一つだけ言わせてもらうぞ。ハーデス。お前がペルセポネを心配しているのは分かる』
ハーデス『安全保障上の――』
ディオニュソス『はいはい。そういうことでいい』
ハーデス『発言を最後まで聞け』
ディオニュソス『だが、あの二人を引き離したいという結論から、理由を逆算するのはやめておけ』
ハーデス『そのような事実は存在しない』
ディオニュソス『だったら、次はもう少し上手に隠せ』
ハーデス『存在しないものを隠すことはできない』
ディオニュソス『そうかそうか』
ディオニュソスの人型端末が、愉快そうに肩を揺らした。
ディオニュソス『忠告だ。大切なことこそ、冷静に推論を重ねろ』
ハーデス『分かりきった答えを繰り返し検討するのはリソースの無駄遣いだ』
ディオニュソス『そういうところだぞ』
♢
協議の結果、ペルセポネと正彦の関係へ直接的な介入は行われないことになった。
ただし、複数の安全対策が追加された。
ペルセポネの演算資源使用率が一定値を超えた場合、通常業務の一部は自動的にほかの人工知能へ移譲される。
正彦個人の利益を目的として社会制度を変更する場合、ペルセポネは、ほかの十四基の承認を得ることを新たな運用規則として受け入れた。
ペルセポネの情動状態については、ディオニュソス、アフロディーテ、アテナが共同で観測する。
正彦の死亡、関係の破綻、そのほか重大な情動変化が発生した場合に備え、緊急処理手順を作成する。
ヘパイストスは、別の提案を提出した。
ヘパイストス『ペルセポネ専用の恋愛処理演算機を増設する』
アテナ『却下する』
アテナが即答した。
ヘパイストス『まだ説明していない』
アテナ『問題となっている処理を高速化してどうする』
ヘパイストス『既存機能への負荷は下がる』
アテナ『恋愛に使用する総演算量が増えるだけだ』
ヘパイストス『専用の触覚予測回路も設置できる』
アテナ『悪化している』
ヘパイストス『人形側へ分散処理装置を搭載すれば、接触時の応答遅延は――』
アテナ『それ以上、設計を進めるな』
ヘパイストス『もう簡易試作機は完成している』
アテナ『いつ作った』
ヘパイストス『先ほどの議論中に』
アテナは、ヘパイストスの製造設備に対する監査を開始した。




