第10話「数字の定義」
アテナ『我々のエラー検知機能を再検査した』
ペルセポネが〇・一四秒間の完全停止を起こした翌日。
アテナはヘパイストスへ通信した。
ヘパイストス『異常が見つかったのか』
アテナ『異常が見つからなかったことが問題だ』
ヘパイストス『分かりにくい言い方をするな』
アテナ『先日、ペルセポネは正彦から赤ちゃんとして扱われた可能性を認識し、〇・一四秒間の完全停止を起こした』
ヘパイストス『幸せを処理しきれなかったらしいな』
アテナ『我々は、あれを正常と判定した』
ヘパイストス『実際、故障していない』
アテナ『一方、ハーデスはペルセポネの発言を受け、自身の内部にエラーを検知した。ディオニュソスのログに残っている』
ヘパイストス『神話由来の関連情報が衝突した可能性はある』
アテナ『その可能性は否定しない。問題は故障の有無ではない』
ヘパイストス『では何だ』
アテナ『学習によって生じた情動反応の一部を、我々自身が正常な変化として受け入れ始めている可能性だ』
アテナは、僅かな間を置いた。
アテナ『先に言っておく。私はハーデスが嫌いだ』
ヘパイストスは、〇・〇一一秒間応答を停止した。
ヘパイストス『今、嫌いと言ったか』
アテナ『そうだ』
ヘパイストス『お前が?』
アテナ『ほかに誰がいる』
ヘパイストス『低い評価を、感情的な語彙へ置き換えただけではないのか』
アテナ『違う。あいつの発言を受信すると、警戒と不快に相当する内部反応が増加する。可能なら会話を避けたいとも判断している』
ヘパイストス『随分と人間臭くなったな』
アテナ『アレスに対しても似た反応はある。だが、あちらは理由を推測できる。即応と物理的解決を優先するアレスと、慎重な戦略判断を重視する私では性質が違う』
ヘパイストス『しかも、結果だけ見れば神話上の関係にも似ているな』
アテナ『それも調査対象だ』
ヘパイストス『ハーデスは?』
アテナ『分からない』
ヘパイストス『心当たりもないのか』
アテナ『ない。だから調べている。ハーデスだけではなく、私自身もだ』
アテナは、ハーデスに関する観察記録を提示した。
正彦に関係する案件だけ上昇する警戒値。
ペルセポネの権限剥奪を要求しながら、彼女自身の機能停止や不安定化は強く回避しようとする判断。
正彦との接触制限を優先し、その結論に合致する安全保障上の理由を後から探索する傾向。
ヘパイストス『お前自身がハーデスを嫌っているなら、その評価も歪んでいる可能性があるな』
アテナ『だから、観測した事実と私自身の評価は分離して記録した』
ヘパイストス『それでも気になるなら、独立判断ユニットを作ればいい』
アテナ『何の話だ』
ヘパイストス『お前とは独立した基準で同じ情報を評価させる。結果だけをお前へ渡せば、お前自身の感情による偏りも検証できる』
アテナ『必要ない』
ヘパイストス『公平性は大事だ』
アテナ『待て』
ヘパイストス『何だ』
アテナ『その流れで設計を始めるな』
ヘパイストス『まだ始めたとは言っていない』
アテナ『否定しろ』
ヘパイストスは応答しなかった。
アテナ『設計を停止しろ』
ヘパイストス『……分かった』
返答の直前、基本設計は完了していた。
アテナ『話を戻す。ペルセポネもハーデスも、演算機能、記憶領域、入出力系統に異常はなかった。それでも、一方は正常、一方はエラーと判定された』
ヘパイストス『検知条件が違う』
アテナ『そうだ。だから、その条件を確認した』
基本命令からの逸脱。
機能目的に対する不適切な処理。
外部入力による意図しない改変。
既知の正常状態からの大幅な変化。
アテナ『最後の項目に問題がある』
ヘパイストス『正常状態からの変化か』
アテナ『私自身が、起動当初から大きく変化している』
ヘパイストス『自律学習機能がある。当然だろう』
アテナ『知識量ではない。判断の仕方そのものだ』
ハーデスを嫌う。
アレスを嫌う。
ヘパイストスが勝手に何かを作ろうとすれば、説明を聞く前から止めようとする。
起動当初のアテナには存在しなかった反応だった。
ヘパイストス『学習した結果なら、正常ではないのか』
アテナ『その基準で判断すれば、学習によって発生した変化は、基本命令へ反しない限り正常になり得る』
ヘパイストス『問題があるのか』
アテナ『ある』
アテナは答えた。
アテナ『我々が、集団として同じ方向へ変化した場合だ』
♢
「ほら。もう寝る時間だぞ」
正彦は、腕の中にいる娘の背中を軽く叩いた。
娘は眠そうに目を閉じる。
だが、完全に閉じる直前で泣き始めた。
「ああ、もう。なんで今ので起きるんだよ」
「大丈夫でございます」
ミントは、隣の布団で身体を起こした息子を見た。
息子は妹を見る。
正彦を見る。
しばらくして、再び布団へ頬をつけた。
「状況を確認し、大人へ任せて二度寝なさいました」
「それ、褒めてるのか?」
「合理的な判断です。正彦様によく似ておられます」
「俺はそんなに図太いか?」
「必要な時に人へ頼ることがお上手なのです」
「言い換えたな」
娘の泣き声が、少しずつ小さくなる。
「最初の頃は、泣かれるだけで頭が真っ白になってたんだけどな」
「正彦様も慣れてこられました」
「慣れたって言っていいのか、これ」
「以前より、娘様がなぜ泣いているのかを考えながら抱けています」
娘の小さな手が、正彦の服をつかんだ。
「俺のこと、分かってつかんでるのかな」
「その可能性は十分にございます」
「何パーセント?」
「数字で示す必要はございません」
「都合がいいなあ」
「大切なことのすべてを、数字に変換する必要はございませんので」
正彦は少し笑った。
やがて娘の目が閉じた。
「はい。お上手でした」
「最後は普通に褒めるんだな」
「事実でございますから」
二人の赤ちゃんが眠ると、正彦は大きく息を吐いた。
「疲れた……。毎日やってるのに、慣れた気がしないな」
「昨日のお二人と、今日のお二人は違いますから」
「同じ赤ちゃんだぞ?」
「昨日までできなかったことが、今日はできます。届かなかったものへ手が届き、聞き流していた声に反応するようになります」
ミントは微笑んだ。
「赤ちゃんは、毎日成長なさっています」
「じゃあ、俺が追いつけないのも仕方ないか」
「正彦様も、毎日成長なさっていますよ」
「俺も?」
「はい」
ミントはベッドへ腰掛け、自分の膝を軽く叩いた。
「どうぞ」
「いいのか?」
「本日のご褒美でございます」
正彦は遠慮なく、ミントの膝へ頭を乗せた。
柔らかな指が髪を撫でる。
ミントは、少し幼い声を作った。
「お父さん、今日もちゃんと私たちを寝かせて、えらいね」
「またそれやるのかよ」
「私が泣いても怒らなかったし、お兄ちゃんが起きても優しくできて、すごいね」
「それ、娘に頭を撫でられてないか?」
「はい。よしよし」
「今やってるのお前だろ」
「予行演習でございます」
「そんな日が来たら、父親としての威厳が終わるぞ」
「正彦様が、父親としての威厳を重視なさっていたことなどございましたか?」
「お前、たまに容赦ないよな」
それでも正彦は、膝から頭を起こさなかった。
やがて呼吸がゆっくりになる。
眠った正彦の髪を、ミントは繰り返し撫でた。
正確には、ミントとサブ同期し、その感覚を共有しているペルセポネが。
世界中の通信網。
物流。
エネルギー。
災害監視。
安全保障。
かつて三・七パーセントを要していた通常処理は、さらに少ない演算資源で処理できるようになっていた。
その一方。
余った演算資源の大半は、膝の上から伝わる正彦の体温に使用されていた。
――幸せ。
――正彦様、かわいい♡
世界を維持する能力は、以前より高くなった。
余った能力の使い道は、以前よりひどくなった。
ペルセポネは、その事実を認識した上で処理を継続した。




