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第二章
風の匂いが変わった。
夏の甘い草のにおいが薄れ、代わりに土の乾いた匂いが鼻を刺す。
ヴァルク領にとってそれは、「今年もまた水を気にする季節が来た」という知らせだった。
レオン・グランヴィルは南の畑を見下ろす丘に馬を止めた。
見渡す限りに広がる畝の列は、ところどころで色が落ちている。葉先がしんなりと下を向き、風に煽られる力もない。
農夫たちの背も、同じように曲がっていた。
「……先だっての雨で入った分も、もう、ですか。」
背後で若い兵が言う。
レオンは頷いた。
「北の沢まで確認に行く。お前たちは村長と話せ。
配給が減る可能性があると言っておけ。ただし“なくなる”とは言うな。
『伯爵が調整する』――この一言は必ず添えろ。」
「了解しました、副団長!」
兵が駆けていく。
レオンは馬のたてがみを撫で、ひとつ息を吐いてから、ひとりで沢のほうへ向かった。
副団長である彼が、わざわざ水を見に行く必要はない。だが彼はいつも自分の目で見た。
――“伯爵が知らぬ不足を、先に自分が知っておく”。
それが、彼に染みついたやり方だった。
沢は細くなっていた。
水面は下がり、石がむき出しになっている。
レオンは膝をつき、手のひらで水をすくった。冷たさはある。しかし量がない。
(冬までは、もたない)
この領は、本来なら恵まれている。
畑は広く、川も近い。
けれど、この三年雨がぴたりと止み領地は様変わりしてしまった。もうすぐ底が見えてしまう。
レオンは水を払って立ち上がった。
「……年々厳しくなるな。」
ぽつりと呟いて、馬に戻る。
* * *
館の執務室では、会計係が汗をぬぐいながら書簡を並べていた。
「王都より、支援物資が到着いたしました、伯爵。」
「量は。」
机に座ったアルノー・ヴァルク伯爵が、視線だけを向ける。
金髪が午後の光を受けてさらりと揺れた。
「申請量の……半分以下でございます。」
「半分。」
「はい。理由の説明は……『他領の窮乏を優先した』とのみ。」
「舐めた真似をしてくれるな。」
アルノーは低く言った。
声に怒りはあれど、平静を保つ。
そのかわり、灰色の瞳がひどく冷えていた。
横に控えていたレオンが一歩出る。
「南の畑も沢も、水が下がっています。
特に南側の井戸は、あと十日もすれば底が見えるでしょう。」
「十日……」
「このままでは、冬を迎える前に配給を減らさざるをえません。」
「配給を減らせば、子どもと老人が先に困窮する。」
「はい。」
短いやりとり。
執務室の空気が重くなる。
「私は“足りない”と言いたくないんだがな。」
アルノーがぼそりと呟く。
レオンはすぐに言葉を返した。
「言わなければ、領が死にます。」
「お前まで私にそれを言うのか。」
「私以外の誰が申し上げますか。」
その言い方が、いつもと同じでアルノーは少しだけ笑った。
「……そうだな。お前が言わねば、誰も言わん。」
机の端には、別の封筒が置かれていた。
王都の侯爵家の紋章。
エリス・クローディア侯爵夫人からだ。
「……あの夫人の話を、進めるしかないか。」
アルノーは封筒を手に取り、蝋を見た。
レオンが横目でそれを見る。
「援助は、本物でしょうか。」
「彼女は、自分の得にならぬことはしない女だ。」
「では、貴族らしい方だ。」
「そういうことだ。」
アルノーはわずかに口元を緩めた。
たったそれだけの柔らかさに、レオンの胸がかすかにざわつく。
――他人に向けると、声の温度が変わる。
あの侯爵夫人に会ったら、この人はもっと柔らかく笑うのだろうか。
その想像が、彼の心を固くさせた。
* * *
同じ頃、館の裏手にある訓練場では、鋼のぶつかる音が響いていた。
そこに立っていたのは大柄な男――騎士団長ギルベルト・ラドクリフ。
四十代に入り、肩幅は広く、声はよく通る。
粗めの茶髪を後ろでひとまとめにし、胸にはヴァルク家の紋章。
領民からは“ギル団長”と呼ばれる人気者だ。
「そこの足が遅い! もう一歩前だ、前!」
「は、はいっ!」
「干ばつだからって鍛えが甘くなると思うな。
飢えた時期ほど盗人が増える。領が痩せると、人間の心も痩せる。……覚えとけ。」
ギルが兵を散らしたとき、訓練場の入口からレオンが入ってきた。
ギルは手を上げる。
「おい、坊主。」
「団長。報告を一つ。」
「どうせ“水がない”だろうが。」
「はい。」
ギルは鼻で笑い、脇に置いてあった水筒をレオンに放った。
「飲め。」
「……ありがとうございます。」
「お前は真面目すぎる。暑い中、領のすみずみまで歩き回って、顔色ひとつ変えん。
見てるこっちが乾くわ。」
「乾いているのは土地です。」
「そういうところだぞ?」
ギルはおかしそうに笑った。
「で、伯爵の機嫌はどうだ。」
「王都の援助が少ないことに、少し苛立っておられました。」
「そりゃそうだ。あいつはずっと、王都に“正しさ”があると信じてる節があるからな。」
「信じているというより、そうあってほしいと願っておられるのです。」
「言い方よ。」
ギルは肩をすくめた。
「……上手くやってきたのにな、自然相手じゃどうにもならん。意図的に雨を止められる筈はないが、こんなにも降らないと領民が懐疑的になる。この領地は見捨てられたんじゃないか、ってな。いっそ雨乞いの儀式でもやるか?」
レオンは無言でギルを睨んだ。
ギルとアルノーは旧知だ。
若い頃、まだアルノーが“ヴァルクの若様”と呼ばれていた時代に、
騎士見習いだったギルと一緒に城外の盗賊退治に出たことがある。
あのとき、アルノーは身分を隠し、馬で真っ先に前に出た。
ギルはその無鉄砲に呆れ、同時に惚れ込んだ。
それ以来の付き合いだ。
「で、お前は。」
「はい。」
「“伯爵が誰かと手を結ぶかもしれない”って話を聞いて、どう思った。」
レオンは表情を変えずに答える。
「領が救われるなら、正しいことです。」
「…………」
ギルはしばらく黙ってレオンを見た。
「お前のそういうところが、一番危なっかしいんだよな。」
「危ない、ですか。」
「人間な、“正しいと思ってる時”が一番狂いやすい。」
レオンのまぶたが、ほんのわずかに動いた。
「私は狂ってなど――」
「今は、な。
だが、お前がもし“正しいのに奪われる”って状況に置かれたら、たぶん一番やっかいになる。」
「……何を根拠に。」
「十五年、見てる。」
ギルは笑った。
「お前、あの人を見るときだけ目が人間だからな。」
ちょうどそこへ、アルノーが執務を終えてやってきた。
「ギル。」
「おう、若……いや、伯爵。」
「今さら改まるな。」
「じゃあ若様で。」
アルノーは訓練場を見回し、
「領が痩せるときこそ、兵に緩みが出る。頼むぞ、ギル。」
「わかってる。あんたのかわりに現場で吠えるのは俺だ。」
「助かる。」
たったそれだけのやりとりだった。
だが、レオンにはそれが妙に刺さった。
――自分以外にも、このお方は心を許すのだ。
それが、少しだけ気に入らなかった。
* * *
その夜、王都から二度見の書簡が届いた。
ひとつは冷たい行政文。
もうひとつは、柔らかな筆跡。
『親愛なるヴァルク伯爵へ
領の窮状をお聞きし、心を痛めております。
わたくしの領でも一時的な食糧と人材の融通が可能です。
ただ、これは長期的な安定をもってこそ意味を持ちます。
貴領を訪ね、直接お話できればと存じます。
エリス・クローディア』
アルノーはその手紙を読んで頷いた。
「来る、か。」
「お迎えの手配をいたします。」とレオン。
「そうだな頼む。まあ、視察の名目だろう。」
「ですが――」
「お前は当日、そばにいろ。」
「……私も、ですか。」
「何か気になる点があれば報告しろ」
その何気ない一言に、レオンの胸が熱くなる。
〈信頼しているのはお前だけだ〉と、そう言われた気がした。
「承知しました。」
静かに頭を下げる。
外では、雨の落ちない雲がゆっくりと流れていた。
飢えの足音は止まらない。




